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紙の本を喰らって咀嚼して血肉にする

小さい頃から、本が好きで好きで仕方がなかった。ときおり気まぐれに買ってもらえた児童文庫を丁寧になめるように読んで、読んで、また読んだ。

小学生のころ。市立図書館に行って、たくさん本を借りてきて、子供ながらに「あまり興味のない本」と「何度も繰り返して読みたくなる本」の両方があることに気づいていた。

繰り返し読みたくなる本は、それこそ何度も借りてきて読んだ。誕生日などに、その繰り返し読んだ本を買ってもらえると、飛び上がって喜び、また繰り返し読む。そうして日々は過ぎた。

大人になると、本を買うことに歯止めが利かなくなった。親に呆れられ、パートナーにときには批難されながらも、買うことをやめられない。しぜん、積読は増え、途中までつまみ食いして最後まで読み切れない本もまた増えた。

引っ越しのたび、本を厳選し、そのほかの「いらない」とみなした本を泣く泣く捨てた。このころの私には、本の価値がわからなくなっていたように思う。でも、置いておくだけのスペースがなかったし、泣きながらも本を処分することは合理的な判断だと信じていた。

そして、kindleはじめとした電子書籍が普及した。私は喜んで、今度はどんどん電子で本を買った。電子なら、捨てなくていい。山ほど買っても、スマホひとつで管理できるし、読みたくなったらタップして検索すればいいだけで、本の山のなかから探し出さなくていい。なんていいものができたんだ、と思って、たくさんの本を電子で買った。

本屋さんの利益にならない、そのことが心苦しかったが、でも世の中の流れとして、高騰していく紙から電子に流れるのは、自然なことではないかと自身に言い聞かせて、購入していった。

しかし、私は最近になって「本はやはり紙が正しいかたちなのではないか」と、考えを改めることになる。

それは、少なからずの本を再読するようになってからだ。いままでは、どんどん新刊が出るから、それに追いつけ追い越せと購入して、以前買った本には目もくれなかった。一度読んで、なんとなくわかった気になり、それで充分と思っていたのかもしれない。浅はかだった。

気付けば、寝る前に手に取る本がある。読みながら、強く心でも覚えている文章を探して、再度目を通す。うんうんと頷いて、納得する。そこで記憶に刻まれた文章が、そこに入っている知恵が、自身を強くしていく。その手ごたえに、気づき始めたのだった。

いま、私は強く強く思っている。

本、再読しないともったいない。それも、二回じゃ足りない。十回ほどその本を通読、精読して初めて、その本を食らい、血肉にしていけるのではないかと。

ある本の、ある一行。そこにこめられた意味、知恵、したたる作者の血潮。それを、一度さらりと読んだだけでは、身につけるのはどうしても難しい。

私は子供の頃、どんな中学生とも同じように、とても生きづらく感じていた。それを緩和してくれたのは、たくさんの物語であり、本だった。

本というのは、ただ読んで済ませるものではなく、そこに込められた知恵を人生で使って、応用していくものなのではないか。

私は最近「本を使える」「本を血肉にできる」人間になりたい。小説も、実用書も、専門書も。そのためには、さらっとページをなめただけではだめで、たぶんガツガツと頭から喰らい、血も骨も肉も残さず、咀嚼して自分の体に収めるくらいの気持ちで、1冊の本を味わわねばならないのではないかと、思っているのだ。

そのために、何度も何度も読むには、電子よりも紙のほうが適しているのだった。私にとってはだけれど。

金沢に引っ越してきて、久しぶりに金沢ビーンズ明文堂書店に行った。この書店のすごいところは、いつ行ってもたくさんのお客さんが来ているところだ。日曜日に行ったから、なおさらなのかもしれないが。

みんな、思い思いに立ち読みして、休憩用の椅子に腰かけ本棚を眺め、レジへと足を運んでいる。なんだか胸がいっぱいになってしまった。

夫と話した。

「本屋って、インフラだよね」「本当にそうだよね」

紙の本は、死なないでほしい。なぜなら、紙の本を咀嚼するほど読み血肉にすることで、きっと人は生きる力を得るから。

本を、何度も何度も読むことの効用に、紙の本の持つ可能性に、改めて気づかされている七月の初めだ。

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