見出し画像

【短編】大人になれば

大人の習い事というやつをしてみたい。そう思って、ペン習字の教室に通いはじめることにした。家から近いほうがいいな、と思ってインターネットで検索し、今住んでいるマンションから歩いて十五分くらいの場所に、小さな看板をかかげている先生を見つけた。

電話で体験申し込みをして、初めて教室に出向いたのは、あいにく大雨の日だった。車を持っていない私は、徒歩で教室に向かうしかなかった。雨がやんでからにしたいなどと言っていたら、教室の始まる時間に遅れてしまう。そう思って、気力をふるいたたせると、スコールのようなどしゃぶりの中、傘を差して水浸しの道路を歩いた。

先生の家に着くころには、情けないことに濡れ鼠と化していた私だったが「里中習字教室」と古い看板がかかげてある木造一軒家の玄関を開いた。中からすぐに、お年を召した女性の先生が「あらあらまあまあ、大変だったでしょう」と品のいい薄紫の夏着物姿で現れた。

「すいません……こんな姿で、廊下に上がったら、おうちも濡れてしまいますね」

謝った私に、先生はバスタオルを貸してくれた。そうして遠慮深げに「私の服でよければ、着替えたらどうかしら? このままでは風邪をひいてしまいますよ」と言ってくださった。

一瞬考えたが、たしかに肌寒く、このまま風邪でも本当にひいてしまえば、明日の仕事に差し支えると思い、恐縮しながら着替えを借りることにした。

受け取った薄緑色のブラウスと、裾が広がったオフホワイトのロングスカートを受け取ったとき、ふわっと何か香った。甘いような、辛いような、不思議な香り。

とりあえず、洗面所を借りて着替えると、さらにふわふわとほの甘辛い香りに包まれる。洋服に、香りがついているのだ。

洗面所を出て、先生に御礼を言いがてら、香りについて聞いてみると、先生は照れたように答える。

「ああ、洋服ダンスに、匂い袋を入れているの。これはね、白檀をベースに、いろんな香りのかけらをまぜているのよ。私、香りが好きでね。お香はもちろん、アロマなども、いろいろ試しているのよ。嫌な匂いではない?」

「……それでこんなに素敵な香りがするんですね。私も真似してみたいです」

「私は、古典文学が好きなんだけど、平安時代の貴族の女性は、みんな着物に香を焚き染めたというから、自分でもやってみたくてね。お香も、アロマも、調合からするととても楽しいのよ」

雑談をしながら、教室内へ入ると、私のほかに生徒さんがあと三人いて、みんな熱心に、お手本をみながらペンを走らせている。

「清水さんは、はじめて来たから、まずはあいうえおから練習しましょうね。慣れたら、私の教室では、文学作品を手本に、練習課題を書いてもらうのよ。味気ない文章よりも、文豪の名文を書き写すのは、とても楽しいんだから」

そう聞くと、私も早くやってみたくなる。ペンの持ち方の指導からまず習い、姿勢に気を付けるよう言われ、私も、渡された課題を書いてみる。

思いのほか、ペンを扱うのは難しく、文字のまるみがゆがんだり、とめやはらいがきれいに書けない。

「筆圧が強すぎると、手が疲れてしまうから、ほどほどにね」

気が付けば熱中するがまま、時計を見たら、一時間が過ぎていた。

「今日はおしまい。みなさん、帰る前に、お茶にしませんか」

先生の言葉で、場の空気がほっとほどける。課題集をかばんに片付けていると、先生が奥の部屋からお茶と和菓子を出してきてくださった。

冷えた緑茶と、寒天の中にきれいな粒々が入っている、これは――? 私たちの好奇の視線に、先生が答えてくれる。

「この寒天でできた和菓子は、錦玉かん(きんぎょくかん)といってね、寒天を煮溶かして、中に具材を入れて、砂糖で甘みをつけて固めたものなの。この錦玉かんには名前があってね『夏の華』というの。爽やかで華やかな夏に、ぴったりのお菓子でしょう? ごひいきの近所の和菓子屋さんが、この時期だけ出すものなのよ」

先生の解説に感心しながら、夏のかけらを、口へと運ぶ。ひんやりと冷たく甘く、口の中にさっぱりとした後味が残る、おいしい寒天だった。

先生が、そっと耳に手をあてて、外の様子をうかがった。

「さあ、雨は上がったようよ。今のうちに、帰るといいわ。清水さん、貸した洋服は次回また返してくれたらいいわ。クリーニングなども必要ないからね」

先生は、本当に、日本の文化について造詣が深く、素敵な方だった。こういうひとになりたいな、という新たな目標を、自分に感じさせてくれて、私はとても嬉しくなる。

うっすら夕暮れた夏空は、雲間からうすい光がさして、先生の着物と同じ、薄紫色だ。ああ、まだ、着ている服からそっと、何かを慈しむような香りがする。私も、香りの勉強をしてみよう。和菓子の名前を気にしてみよう。きれいな日本の言葉を、書けるようになろう。

これだから、素敵な大人との出会いは、やめられないのだ。

いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。