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【小説】ポケットの中のチョコレート

私のコートのポケットの中には、個包装の小さなチョコレートが一枚収められていて、そいつは朝からずっと、その存在を私の頭の中で主張している。普段なら、なんの気負いもなく、そのチョコレートを、運転席に座る佐竹に渡せただろう。

だけど、今日はバレンタインデーだった。そうして、私たち二人を乗せた社用車は、二月のこの大雪で、果てのない渋滞に巻き込まれて、少しも動く気配がない。フロントガラスの向こう、降りしきる雪を眺めながら、私はほうっとため息をついて、もう冷えてしまった缶紅茶をすすった。

「雪、おさまらないね」

私がそう言うと、佐竹はこちらをちらりと見た。

「帰りが、だいぶ遅くなるかもしれません。――娘さんは、大丈夫ですか?」
「ありがとう。さっき、遅くなるって電話したし、ご飯は朝冷蔵庫に用意しておいたから、なんとか待ってくれているはず」

夫と六年前に離婚した私には、今年十二歳になった娘、季紗がいる。甘えたがりの子だから、こんな大雪の日に、一人で食事をとって留守番しているのは心細いはずだ。そう思いながら、私は、後輩社員の佐竹と二人で、こんな非日常のような車内に閉じ込められている現実を心もとなく思いつつ、ほんの少しだけ鼓動が速くなっているのに気付かずにはいられなかった。

娘を育てるために、がむしゃらに会社で働いていた私の、仕事上のパートナーとして、佐竹尚文がうちの課に来たのは、半年前のことだった。7歳も年下の、まだ若い二十代の佐竹と、どう仕事をやっていくか、私は最初とまどったけれど、佐竹はすぐに要領をのみこんで、すぐに頼もしい仕事仲間となった。

佐竹は、そんなに背丈はなかったが、きれいに整えられた髪と、こざっぱりした清潔感のある見かけで、相手を立てるトークも上手く、次々と新しい仕事を取ってきた。一緒に半年間働いて、私はじょじょに佐竹に良い印象を持つようになった。とはいえ、好きになってしまわないようには、ずっと気を付けていた。

娘のことがまずは第一だから。佐竹とは、7つも離れているのだから。仕事に、そういった感情を持ち込むのは、精神衛生上よくないから。

そう理性では分かっているはずなのに、私はさっきからずっと、コートのポケットの中の、一枚だけのチョコレートの存在を、ずっと気にしている。いつも、おやつがわりに持ち歩いている、たわいのない、ただの菓子なのに。

それを、佐竹に渡したら、彼がどんな顔をするのか、中学生みたいに気になって仕方がなくて、そんな自分の浅い考えのしょうもなさに、ただただ落ち込んでしまう。

みんなが一斉に帰る夕暮れどきだから、渋滞はなおのこと一向に解消するきざしを見せない。エアコンが効いているとはいえ、少々寒い車内で、隣の佐竹が何を考えているのかわからない。

本当ならば、彼にだってこのあと、かわいいひととバレンタインデートの約束なんかがあって、全然帰れそうにないこの状況に、内心舌打ちのひとつもしたい気分なのかもしれない、そう思うと、私はいたたまれなくなって、佐竹に声をかけた。

「ごめんね、まさかこんな渋滞になるとは思わなくて。明日も仕事だし、早く帰って休みたいよね。私が帰り掛けに、来月の商談の話を、三十分もしてたから、こうなってしまったのかも。あと少し早く出たら、こんなことにはならなかったのかも」

「三十分早く出ようが、遅く出ようが、同じですよ。今年の雪は、ちょっと降りかたが違いますから。ただ、お子さんが待ってる野口さんをこの渋滞の巻き添えにまでしなくてよかったなって、今反省してます。本当は、僕一人で商談に行けるくらい、一人前だったらよかったんですけど」

佐竹の声は淡々としていて、怒っている風はなかったので私は安心した。娘への気遣いまでしてもらい、本当に身の置き所がない。

前を走る車の列が、ほんの少しだけ動いて、もう日の落ちた夜の中、赤いテールランプがまぶしく目を刺した。雪は、変らず降り続いている。

運転席の佐竹が、我慢できないように、大きく伸びをする。

「あー、それにしても、いい加減にしろって感じですね、この渋滞」
「そうだねえ」

ふいに私の携帯電話が鳴り出した。ディスプレイには、季紗の名前が表示されている。

「もしもしー?」
「もしもし、ママ。あのね、ママの帰りが遅いの、って言ったら、おじいちゃんとおばあちゃんが迎えに来てくれて、今日あたし、おじいちゃんちに泊まることにした。ママはまだ、お仕事なんだよね?」

「うん、そうなの。ごめんね。おじいちゃんちで、いい子にしててね」

近くに住んでいる私の両親が、季紗を心配して実家に連れ帰ってくれたようだった。私はほっと一安心して、シートに深く背を預けた。電話を切ると、佐竹が「どうしましたか」と聞いてきた。

「娘は、私の両親の家に行ったみたい。これで、ひと安心だわ」
「それは良かった。――僕も安心しました」

そう言うと、佐竹はふっと口元をゆるめて話し出した。

「僕のうちも、いつも両親が遅くまで働いていて、鍵っ子だったから、なんとなく娘さんの心細さがわかるんです。だから、今日も娘さんのこと、気になってて。野口さんの御両親のところにいるのなら、もう大丈夫ですね」

「―――ありがとう」

なんだか言葉にならなくて、私は二の句が継げない。なんで佐竹は、なんでこの子は、こんなに落ち着いていて優しいんだろう。

ほんとうは、もう好きになっていた。でも、それを認めたくなくて、それがばれたらと思うと恥ずかしすぎて、私の体は一ミリも動かない。コートのポケットからチョコを取り出して「これあげる」とさりげなく渡すことすらできない。三十六歳にもなって、まったく大人なんかじゃない。

「――ちょっと眠く、なってきました」

運転席の佐竹が、ふああとあくびをして、私は我に返る。それはまずい。

「コーヒー、ないですよね」
「ないです」

「ガムとか飴とか、ないですよね」
「ないです」

そっかまいったなー、という佐竹の言葉に、私は思わず目をぎゅっと閉じて、小さな小さな声で言った。

「――チョコなら、ある。一個だけ」
「ください」

私はポケットからチョコを取り出し、包装をむいて渡すと、佐竹がははは、と笑った。

「それ、本当に僕がもらっていいチョコですか?」
「――うん、もちろん」
「――良かったあ」

佐竹は噛みしめるように言うと、チョコを大事そうに口に入れながら、小さくつぶやく。

「義理でも、嬉しいです。野口さんから、チョコ実はもらいたかったんで」
「え?」
「――大切な家族がいる女性に、簡単に踏み込めないこっちの気持ちも、ちょっとは察してください」

「え、え? それ、ってどういう」
「さあ、どういう意味ですかねー、あっ、車、動き出しましたよ」
「ええーっ?」

頬がほてるのがわかって、私は思わず冷たい手のひらをそこに押し当てる。佐竹は、まっすぐ前を見ながらハンドルを握り、涼しい目をしている。

私の手の中には、さっきむいてあげたチョコの包装紙が、残ってて、今の出来事が夢じゃないと教えてくれてる。雪はまだ降りやまず、私たち二人を閉じ込めたまま、社用車は光の列の一つとなって、ゆっくりと動き出し始めた。

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