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あなたの文章からたちのぼるにおいのこと

たとえば小説やエッセイを書いてみて、自分でもよく書けたかどうか判断がつかないことって、わりとある。

最近個人誌として発表した「冬嵐」も、書き終える最後の最後まで、うまく書けたのかどうなのかわからなくて、つい最近になって「良かったです!」という感想がたくさん届き「そうか、よ、よかったのか……」と胸をなでおろしているところだ。

もちろんひとつの散文や作品に感じる印象は、ひとそれぞれにちがって当たり前なんだけど、人気の出る文は、Twitterのような短いものにせよ一冊の本になるまでの長いものにせよ、書き手がその作品を書く際に「こう書いたら、こういう印象を与えることができるだろう」ときっちり計算していると私は踏んでいる。

たぶん、魅力的な文を書くひとつの手は、書いた作品が読者に「良い」印象を与えるように書く、というものだと思っている。

たくさんの人が、フォローしてくださる。その人のページを見て、まずフォロー返しをするかしないか決めるが、フォローする判断に至る人の文章は「なんだかいいにおい」なのだ。

「いいにおい」ってなんだよ!わかんないよ!と言いたくなる気持ちはわかる。別にやさしいことを書いてあれば、性格がよさそうなら「いいにおい」というわけでもない。

においにもいろいろあって、お花の香だったり、スパイシーだったり、焼き立てのオムレツみたいだったり、寒い夜のきりっとしたにおいだったりするが、なんとなく文章をざっくり見ると、立ちのぼってくる「その文章独自の香」があるのだ。

あれこれひと様の文章を言える立場では決してないのだけど、やっぱり、自分の文章が「どういうにおい」を発しているか、無自覚な人はときどきいる。(えらそう……ごめんなさい)それはとても勿体ないと思う。

自分の文章を「人から見ていいにおい」に近づければ近づくほど、たぶん支持してくれる、あなたの作品に共鳴する人は増えていくのだと思うのだが、やっぱり自分の文章のにおいがどんなにおいかを自覚して計算して出せるようになるには、たくさん人の文章を読んで(においをかいで)においの研究をするしかないと思う。

自分が「いいにおい」と思った人の文章をまねてみたり、そのにおいを出すために、どういう工夫がこらしてあるのかを、考えてみたり。

もちろんあえて、わかっていて人がいやがるにおいをまき散らす、アンチのような人たちも中にはいるけど、自分が「いいにおい」と思っているものが、他の人にとっては「いやなにおい」になることだってある。

ただ、言葉の難しくて面白いところは、言葉のえらびかたひとつで「いいにおい」が「いやなにおい」になったり「いやなにおい」が「いいにおい」になったりすることだ。

noteで味方や支持者、仲間を増やしていきたい人は、まず、自分が「どんなにおい」を出したいのか、一度考えてみるといいと思う。(もちろん、ただそんなことを考えず、日記として好きなこと書くわ!っていう人ももちろんいていい)

甘く優しいにおいを出したいのか、少々誰かが鼻をつまんでも、多少嫌われようとも、このにおいが好きだ!と一部の人から熱狂的に好かれるにおいを出したいのか。

そのままの自分で、好かれる、というのはもちろん理想的だけど、自分の作品を多くの人に見てもらいたいと思うなら、文章から出すにおいの質にも、もっと戦略的になっていいと思う。

フォロワーが伸び悩んでいるな、というときは、自分のにおいが迷子になっているときか、もっとあなたに出せるほかのにおいが求められているきざしかもしれない。(この文章はあくまでフォロワーがほしい人向けなので、そうじゃないよ、という人は読み流してください)

このノートは最初「客観視はむずかしい」ってタイトルにしようと思って書き始めたんだけど、自分の文章のにおいを、あなたはどの程度「はたから見たらこう見えるだろうな」って気づいていますか。

もちろん文章というのは、主観のたまものだから、それを客観視してみる、っていうのはとても難しいことなんだけど、自分の書いたノートを、誰か別の人の書いたノートだと思って読み返したとき、そこに何が見えますか。

ときどき、自分の文章の「におい」に自覚的になってみるのはいいことだと思う。自分を広げていきたい人にとっては、きっと大事なことのはず。






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