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【小説】クリスマスに祈りを

十五歳で母を亡くしたあの日から、私の心にはずっと雪が降り続けている。春になっても、真夏であっても、融けない雪が、ずっと。深い雪にうずもれた心は、芯の芯まで凍りついていて、簡単には融けてはくれない。

普段でさえ冷え切った心を抱えているから、冬はなおさら苦手な季節だ。街を彩るクリスマスイルミネーションも、年末年始の浮かれ調子も、なおさら生きていたくない気持ちに拍車をかけるばかりだ。そんなことを思いながら、私ははさみを使って、折り紙を星型に切り抜いた。


「深草さん、今日はもうそこまででいいわよ。退勤時間だいぶ過ぎてるし」

ふっと名前を呼ばれて視線を前に向けると、同僚の野上さんがテーブルに散らばったクリスマス飾りを片付け始めていた。はい、とうなずいて、私も折り紙の星を集め、紙箱にまとめて入れる。

今日は、勤務している老人ホーム「ひかりのさと」の壁に飾る、クリスマスツリーを、先輩の野上さんと一緒に作成していたのだ。季節の飾りものは、入所している利用者の目に留まるから、こうしてひと月ごとに、簡単ではあるけれど作成するのも仕事のうちだ。

「もうすぐクリスマスね。深草さんは、何か予定あるの?」

普段から愛想のない私にも、こうして日常会話を振ってくれる野上さんは、とてもいい人だ。だけど、その優しさが、私には少々重たかった。

「……クリスマスは、私の母の命日ですから。特にイベントはなにもしません」

「そうなの? 知らなかった、ごめんなさいね」

口に手をあてて、おおげさに驚く野上さんを見て、私は次に続けようとした言葉を飲み込んだ。どうせ、私の思いなど、誰にも伝わらない。クリスマスは、母が命を絶った日だった。精神科でもらった薬を大量摂取して。

家で倒れている母を発見した私が、何度電話をしても、父は仕事でつかまることはなかった。高校を出て、福祉の専門学校で介護士の資格をとったあと、私は家を出て、今は一人で暮らしている。

家族という、本来温かくて素晴らしい関係が、地獄絵図のようになったことを、私は忘れない。介護という仕事を選んだのは、バカな私でも、食いっぱぐれがなさそうだったからだ。

どこかには雇ってもらえるだろう、というその勘は当たり、二十歳のときから、二十五歳にあたる今まで、同じ老人ホームで働かせてもらっている。母は死に、父とは縁を切った一人きりの私の心には、また今年の冬も、窓の外と同じように、しんしんと、融けることのない雪が降り積もって行く。

今日は夜勤の日ではなかったので、私は事務室にいた野上さんとホーム長に挨拶をすると、自動ドアから十二月の夜の中に出た。木枯らしがひどく冷たく、頬も耳も痛む。

こんな夜は、ひどくめいった気分になり、鬱をこじらせて死んだ母も、こんな気持ちだったのだろうかと思わず感じてしまう。自分が何年も、薄氷の上をはだしで歩いていることは知っていた。

氷が割れたら、冷たい水の中にどぼんと落ちて、今度こそ死の側にひきずられてしまう。でも、どこへいけば救われるのか、まったくわからなかった。救いなんてものが、私の人生に果たして本当に来るのかなど、信じられなかった。

わかっているのは、一つだけ。このまま人生を歩みつづけたら、私の最期も、きっと母と同じものになるということだった。それを避けたかったけど、どうすればその運命から逃げられるのか、それも私にはわからなかった。


家に帰り、途中で寄ったコンビニのおでんをつつくと、私はテレビもつけずに冷たい布団にもぐりこんだ。このまま目が覚めないといいのにな、と、うとうとしながら、思った。


翌日は久しぶりの休日で、冷蔵庫を開けてはみたが何もなく、しぶしぶ私は外出することにした。マフラーをぐるぐる巻いて、防寒に防寒をかさねて、アパートの鍵を閉める。街路樹はもうどれも裸木で、冬の白い空の下で北風に揺れていた。

最寄りのスーパーまで歩いたが、なんと改装工事中でやっていなかったのでがっかりした。あきらめて、さらに一つ向こうのスーパーをスマホ検索し、知らない道を歩いた。

ふっと耳に、子供たちのはしゃぎ声が飛び込んできたのは、道の角を曲がったときだった。「児童養護施設 ひなた園」と看板がかかげられたその施設内に、いくつもテントが並び、食べ物の匂いもただよってきた。

「クリスマスチャリティーバザーやってます!」
「どうぞ見て行ってください!」

こんなところに、こんな施設があったのか。小学生くらいの男の子たちと、女の子たちが、職員の人たちに混じって、呼び込みをしていた。チャリティーバザーということは、きっと、ここで買ったものは、ここで子供たちが育つための基金になるのだろう。

並べられている古着も、へんな模様のお皿も、ほしいものはほとんどなかったけど、私ははじっこにいる小柄な女の子が抱えている募金箱に、五千円札を一枚、落とした。女の子が目を丸くして、何も言えないでいるのを見て、後ろの職員と思われる男性が、私に向かってお礼を言った。

「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます」

職員の男性と目が合い、思わず私は一瞬で視線をそらした。その顔いっぱいに広がる笑顔が、あまりに温かかったから。かたくなで、いじっぱりで、歪んで育ってきた私とは違って、たくさんの人から愛情を受けて、すくすく育ってきた幸せな人の笑顔だと思った。

その男性の左足に、「みやもりさーん」と小さな男の子がくっついてきた瞬間、彼は男の子を、さっと抱き上げた。

「ほら、高いたかーい」

きゃはは、と笑った男の子を、彼は今度はがっちりとかかえ、ぎゅうっと片手で抱いた。

私はその瞬間、雷に打たれたように動けなくなった。

(こうされたかった、私も。父や母に、甘えて、高い高いされて、抱きしめられたかった)

私の記憶上、そのような温もりに満ちた家族の記憶は、ひとつもなかった。仕事で忙しいふりをして、外で女をつくっていた父と。父へのあてつけで、自殺未遂を繰り返し、最期には本当に死んでしまった母と。かまわれた記憶がなく、愛された記憶もなく、ぼろぼろのかすかすだった心に、今の光景は染みすぎた。

私はその場に、思わず膝を折ってしゃがみこんでしまう。頭上から、あわてた「みやもりさん」の声が降って来た。

「大丈夫ですか、立ち眩みでしょうか?」

私が「いいえ、なんとか」とふらふらと立ち上がると、彼は「少し園内で休んでいきましょう。よかったら暖房のきいた室内へ」と私の肩を支え、児童養護施設の中へ連れて行った。


「……落ち着きましたか?」

園内の椅子に座った私に、宮守さんは温かいお茶を淹れてくれた。湯呑みを受け取り、冷ましながらすする。胃の中に熱さが落ちて行くと、ようやく人心地がついてきた。

「すみません、なんだか。初めてお会いした人に、ご迷惑かけてすみません」

「すみませんじゃ、ないです。というか、五千円も募金してくれた人なんて、初めてだったから、僕こそびっくりして。本当にありがとうございます」

「いえいえ、あのお金が、何かのお役に立てたら幸いです」

手を振ってそう答えると、宮守さんはガラス戸の向こうの、園庭で遊んでいる子供たちに目を向けた。

「ここに来る子供たちは、さまざまな事情で、親と一緒に暮らせない子たちです。その多くが、虐待を受けています。さっき、高い高いをねだってきた子なんかも、目の下にあざをつくるような虐待を受けていて、保護されてここに来たばかりの頃は、ずっと無表情でした。時間をかけて、今のように、笑顔を見せるようになりました」

「そうなんです、ね」

言葉をうまく見つけられなかった。こんな風に、弱きものに寄り添うひとがいるのだ、ということだけでも、私には驚きだった。

過去の私にも、宮守さんみたいな人がいたら良かったのに。切実に、切実に、そう強く思った。あまりに強く思い過ぎて、眉間が痛むほどだった。

「まだ、ご気分悪いですかね?」

心配そうなその声には、ただ優しさがにじんでいて、私は泣きたくなった。

――このひと、が、ほしい。

初対面の男性に、会ってほんのわずかで、そんなことを思ったのは、人生で生まれてはじめてだった。「ひとめぼれかよ」って世間の人は思って、失笑するかもしれない。けれど、私のからだからこみ上げてくる思いは、もっともっと根源的なものだった。

求めて得られなかったもの。それを正しく満たしてくれる相手を見つけた、と思ってしまった。このひとなら、融けない私の心の根雪を、ゆるめる力があるんじゃなかろうか。

黙りこくっていた私の様子をうかがいながら、宮守さんはポケットから一枚のチケットを差し出した。

「バザーに来てくださった方や、ご支援いただいた方に渡しているんですが、この近くの公民館で、クリスマスイブに、ひなた園の子供たちが合唱をします。もしご予定がなければ、聴きに来られませんか」

私はチケットを受け取り、まじまじと見た。ちょっと不格好なサンタとトナカイの絵が、日付の横に描かれていた。

「それ、僕の絵なんです。下手でしょう」

くしゃっと笑ったその顔を見て、私は本当に、この人が好きだと思った。


クリスマスイブの夜は、小雪がちらつく、ひどく寒い夜だった。その日は夕方で上がります、と「ひかりのさと」のスタッフに言った。「デートですかぁ」と無邪気にからかった職員を、野上さんが「人の詮索しないの」とたしなめてくれた。

会場となる公民館に着くと、館内の畳敷きの大広間に座布団が並べられ、その半分くらいはもう埋まっていた。後ろのほうに正座して座り、かじかんだ足先をすりあわせる。

(クリスマスなのに、畳と座布団って可笑しいなあ)

そう思いながら、始まりの時間を待った。時計が六時半を指すと、司会の女性が現れ、子供たちも入場してきた。その一番後ろに、ほかの職員に混じって宮守さんの姿を見つけて、私は微笑む。

「もろびとこぞりて」がはじまり、子供たちの澄んだ歌声が響いたとき、私はつい泣いていた。ずっとずっと、クリスマスが嫌いだった。母を世界から、消してしまったクリスマスの日を、私はずっと、憎んでいた。

泣くことさえ、ずっと私はしていなかったことを思い返した。長年せきとめられていた感情が、ぼろぼろ出てきて私はとまどう。

心の底から、両親に大事にしてほしかった。プレゼントを贈りあえるくらい、仲の良い家族であってほしかった。一緒にクリスマスをお祝いしたかった。

クリスマスは、大切な人と仲良く過ごす日。そうわかっていたからこそ、そうできなかった父を、勝手に死んでしまった母を、母を助けられなかった自分を、ずっと責めていた。

涙があふれて止まらなくなったので、私はそっと席を立ち、トイレに入った。嗚咽しながら泣き続けて、声も枯れた頃、そっと出てくると、曲目は「We Wish a Merry Xmas」に変っていた。

その明るい曲を、公民館の後ろの壁にもたれて、私はそっと口ずさんでみる。少しだけ、胸が温まったように思えた。


帰ろうと、公民館から十メートルほど歩いた夜道で、息を切らした宮守さんに呼び止められた。

「待ってくださいっ」

振り返ると、宮守さんは走って来たのか、肩で大きく息をついていた。

「せっかく、来てくれて、一言でも、お礼をと」
「そんな、良かったのに」

「僕が良くないです。――さっき、泣いていらっしゃるのが、舞台の上から見えました。何か、不愉快なことがあったのではないかと」

「そうじゃないです、そうじゃないんです」

私は大きくかぶりを振ると、宮守さんに向かって、言葉をつむいだ。

「今日は、母の命日で。母は、私が十五歳のときに、亡くなりました。それから、ずっと、辛かったんです。でも、今日、子供たちの歌声を聞いて、何かふっと、赦された気持ちになりました。その機会をくれたのは、宮守さんです。私こそ、お礼を言わなければなりませんでしたね」

「そうだったんですか。思い違いして、すみませんでした。深草さんにとって、クリスマスはそういう特別な日だったのですね」

私は、真冬の街灯に照らされている宮守さんの慈悲に満ちた顔を見て、ふっと思ったことを言ってしまった。

「宮守さん、お願いがあります」
「なんでしょう」

「私に、クリスマスプレゼントをください」
「プレゼント、とは」

「一瞬だけ、私の母になってください。そうしたら、言いたいことを言います」

宮守さんは、ふととまどった表情を見せたが、すっと表情を整えて、言ってくれた。

「わかりました。お母さん役をやります」

その瞳があまりに優しくて、私は思わず、彼の腕を両手で捕まえて、言った。

「――お母さん」

あっという間に、涙があふれた。

「ごめんなさい、助けてあげられなくて、ごめん、なさ、い……っ」

最後はちゃんと話せないほど、声は嗚咽に飲み込まれた。そのまま私は、宮守さんのダッフルコートの胸に、顔をうずめながら、ごめんなさいと繰り返した。宮守さんは何も事情はわかっていないながら、「うん、うん、うん」と言って、そのまま立っていてくれた。

泣きじゃくっていたのが収まるころ、ふっと恥ずかしさが湧いてきて、私はぬれた顔をあげた。宮守さんが、こちらをゆっくりと見て、言った。

「深草さん、僕も、プレゼントをねだっていいですか」
「……はい」

「大晦日、蕎麦打ちの得意な友人が、いつもたくさん蕎麦くれるんですけど、一人じゃ食べきれないんです。良かったら、一緒に、食べませんか。深草さんと、温かい食事がしたいです」

思いがけない言葉に、宮守さんの顔をまじまじと見つめると、宮守さんはごほんと咳をした。

「その、冬は誰かと一緒に過ごすのが、いいと思いますよ。僕でよければ、一緒にメシ、食いましょう」
「――はい」

心の雪は、まだまだ根雪として、私の心に凍りついている。でも、それでも、少しずつ、少しずつ、変わって行くものがある気がした。宮守さんが、夜空を見上げる。

「あ、ほら、冬の星がきれいですよ。――イルミネーションよりも、こっちのほうが、僕は好きですね」

つられて夜空を見上げたら、母のことをまた考えて胸がつまった。母の葬儀の晩も、こんな風に満天の冬星が出ていた。

生きて、と私はあの日の私に向かって話しかける。いつか、いつか、ずっと先にはなるけれど、途方もない長さに思えるかもしれないけれど、どうか今日まで生きてみて、と私は祈りをささげる。あなたの思いを、受け止めてくれる人に、その温もりに出会えるまで、死なないで。

私の祈りを受け止めるように、星がいっそうまたたいた気がした。母もまた、あの数えきれない星のひとつになって、光をこちらへ投げているように思えた。

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