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まだ熟れる時期じゃない

十代のころも、二十代のころも、小説を書きたいと思いながらも行動できなかった。どこかで「まだ書いていい時期じゃない」と不遜にも、また勇気のなさから思っていた。

たくさん小説は読んだ。読み漁っていた。だけれど、真っ白のノートや原稿用紙と向かいあうたび、本当に身がすくんでどうしたらいいかわからなくなった。

思えば、ゼロからイチを脳内だけで生み出そうとしていて、まったく思うようにいかず固まっていた。だから、十代や二十代で小説が曲りなりにも書ける、かたちになっている若い人のことを、本当にすごいと思っている。

最近「不安を解消する」コンセプトの本を読んで、また最近ふくれてきていた不安をうまくなだめることができた。

その1、未来はなるようにしかならないから、将来どうなるかなどと確証の持てないことを過剰に不安に考えすぎるな。(備えは必要だけど)

その2、寂しさを人との関わりでむやみやたらに埋めようとするな。孤独と友達になろう。

その3、「他人にどう思われるか」など自身でコントロールできないものは手放せ。

いまもこれらを克服できていないときも多いが、若いときはもっとこういうことがわかっていなかったし、できていなかった。昔部活の外部顧問のコーチに言われた「君たちはハートが弱いな!」という言葉は心に染み付いていて、今でも思い返す。

ハートが強い人は、単純にすごいと思う。親や友人や先生などからどう見られても、自分のやりたいことを貫く力、自分のやりたいと思っていることに、結果が出なくても向き合い続ける力、作品をバカにされたり笑われたりしても気にせず作り続ける力。

そういうものを備え持っている人は、なんだかんだ自分の作りたいものを(商業でやるやらないは置いといて)ちゃんと作れるのだと思う。

私はアボカドが好きなのだけれど、昔は熟れているアボカドとまだ熟れていないアボカドを見分けるのを何度も失敗した。アボカドほど、熟れているものと熟れていないものの美味しさが違う食べものはないのではないだろうか。

ものごとには、たぶんなんでも上手くいくのにいい時期やタイミングというものがあって、それを捕まえるのは本当に大切だ。いわば、上手に熟れた時期のアボカドを選んで食べるような。熟れていないものを気がせいて食べても、ぜんぜん美味しくない。

一方で、熟れていないアボカドを、どう工夫で熟れさせるのか、考えるのも大事だと思う。常温に置いておくのと、冷蔵庫に入れるのとでは、たぶん熟れるスピードに差があるだろう。

私はやっと二十代の終わりに、文章をつづる怖さから抜け出て、書き始めることができたが、自分の工夫次第で、夢との向き合い方次第で、その時期をもっと早める方法もあったのだろうな、と今思う。

三十代になってから書き始められたのを、よく「時期が来たんですね」と自分でも、人からも、捉えたり捉えられたりするけど、やりようによってはもっと早い時期から、書くことを過剰に恐れなければ、もっと小説をそのころから書いていたのではないかなと思ったりする。

いま、小説の執筆を助けるサブノートを作り始めて、なぜこれを作ることを、もっと若いうちに思いつかなかったんだろう、と不思議に、また少し悔しく思っている。時間は有限で、一日一日、自分の人生の残り時間が減っていくことを思えばなおさら。

果報は寝て待て、という言葉があって、私の尊敬する漫画家さんも同じことを言っていたが、その方がお仕事のかたわら、通信教育でやりたい分野のことを学び、漫画を描くという尋常ではないがんばりをしていたことは心にとめたい。

寝ていてタイミングを待ちうまくいくこともあるだろうけど、未来の見えない怖さをむやみに恐れたりせず、いまできる一歩一歩を積み重ねていくことも、やりたいことを叶えるには大切なのだと思う。

アボカド、海苔とめちゃくちゃ合います。もらいものの海苔などが残っていて、しけりそうという方はぜひ。

今日のひと皿:アボカドと海苔のサラダ






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