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【短編】金色に染まる

姉の紗羽が離婚し、息子の佑真を連れて実家に戻ってくるという話を聞いたのは、葉桜の緑が目にまぶしい季節だった。そういうことだから、と炊飯器からたけのこご飯を盛り付けながら、何気なく話したおふくろに、僕は問いただした。

「え、じゃあこの狭い一軒家に、おふくろと親父と僕に加え、紗羽姉と佑真が住むってわけ?」

僕は高校を卒業したあと、一度大阪のガス会社に勤めたが、続かなかった。それで実家のある北陸の町に戻り、いまはビスケット工場で働いている。延々同じ手順を繰り返すレーン作業にもだいぶ慣れて、もうすぐ来るゴールデンウィークはいったい何をして遊びまくろうかと考えていたところだった。

佑真はたしか十歳。実の甥とはいえ、やんちゃな子供が来るとしたら、だいぶ騒がしくなるなあ。そんな風にのんきに構えていた僕だったが、いざことが起きてみると、だいぶ大変な状況だったのだ。

紗羽は、四月末から佑真と一緒に実家に住むための準備を進めていたのだが、なんとうちに来る前に、入院してしまったのだった。原因は、元夫の和幸さんとの度重なる諍いや、佑真の養育費関係についてのもめごとが尋常ではなく、それらによる心労から大きく精神の調子を崩してしまったらしかった。

和幸さんと結婚してからの紗羽が、ずっと精神安定剤を手放せずにいたことを、僕は母からこのタイミングで聞き、ひどく驚いた。

記憶のなかの紗羽は、いつもほがらかで、優しい姉だった。幼い僕のわがままもいつもよく聞いてくれたし、喧嘩になってもいつも先に折れてくれる人だった。

そういうわけで、紗羽の入院手続きを進めながら、父と母は俺に頼み込んだのだった。

「なあ、颯太。ゴールデンウィークのあいだ、佑真と日中遊んでやってくれないか。ゴールデンウィーク明けには、紗羽は退院できるということだから、ほんの、いまだけだ」

そんな神さま、と僕は最初、落胆した。ゴールデンウィーク、ぱあじゃん。だけど、僕らの家に来てから、ほとんどしゃべらずに膝を抱えるばかりの佑真を見て、気が変わった。しばらく会っていない甥だけど、ここはひと肌脱いでやって、元気づけてあげたい。それに、残念なことに僕には、ゴールデンウィークに一緒に出掛けられる恋人もいなかった。いろいろな要因が重なった結果、僕は佑真と一緒に、大型連休を過ごすことになったのだ。


「ゆーうーまー。ほら、ポニーに乗ってみるか? それとも、ソフトクリーム食べるか?」

僕の問いかけに、佑真は応えない。首すら、縦にも横にも振らない。子供の相手というものは、簡単に考えていたけどなかなか一筋縄ではいかないな、と僕は首をひねった。

佑真は、僕から少し距離をとるようにして、先に歩いていくと、レッサーパンダの檻の前で立ち止まった。そのまま、飼育員のおじさんが餌をやるのをじっと見ている。

四月二十九日、つまりは祝日、昭和の日。この日の動物園は、晴れていることもあってなかなかの人出だった。うかうかしていると、佑真を見失うことさえわけないように思えて、僕はあわてて、佑真のあとを追う。

佑真は、僕の家に来てから、ほとんどしゃべっていない。おそらく、両親の離婚のときに、いろいろあったのだろうし、紗羽のことがひたすら心配なのかもしれない。だから僕は、無理に佑真から言葉を引き出すことはしないで、でも春の陽光にはたっぷりあててやって、ちょっとでも彼がリラックスできないかと、さっきから気を回していた。

レッサーパンダの餌やりがすっかり終わるまで、佑真は微動だにせず立ち尽くしていた。僕は、佑真がかぶっているキャップが、プロ球団のものだとふと気づいて、声をかけた。

「ベイスターズ、好きなんか?」

佑真はこっちに目を向けると、小さい声で言った。「パパがすき」と。それで僕は、横浜は和幸さんの贔屓球団だったのだとわかった。紗羽が実家に身を寄せると聞いてから、和幸さんを悪者だと決めつけていた僕は、佑真にとっては、一人の大切なお父さんだったのだ、と気づき、はっとした。

佑真と僕は、家族連れであふれる動物園の敷地を、ゆっくりした歩調で歩き回った。佑真が先に行き、僕が後ろから、彼がはぐれないように見守り、ついていく。もちろん僕は、佑真の父じゃないけど、現時点では保護者だ。周りからみたら、僕らは親子に見えるのかもしれないな、なんて想像もした。

昼どきに、園内に併設してあるフードコートに入り、俺はカツカレー、佑真はソーセージカレーを頼んだ。一度スプーンでカレーをすくうと、お腹がすいていたのか、佑真はよく食べた。僕の皿のカツをものほしそうに眺めたので「ほら」と一切れ分けた。

食べ終えると、佑真はもじもじしたあげく、小さく口に出した。

「ゴールデンウィーク、パパが何か月も前からチケット取ってたんだ。僕と行こうって。横浜スタジアムで、広島戦」

ああ、と僕の口から声にならない息がもれた。佑真は続ける。

「もちろん、パパもよくなかったこと、わかってる。しょうがないって、わかってる。だけど……」

佑真は、ぐいっとキャップのつばを引き、うつむいた。僕は何も言えず、カレーの辛さを和らげたいけど、コップの水にも手を伸ばせなかった。

佑真はぽつぽつと、続ける。

「少年野球のクラブチーム、入ってて。パパが入れって言ったんだ。でも、僕あんまり野球うまくなくて、ボールとれないし、三振ばっかり。パパは、強くなれっていったけど、僕には無理で、それでチームやめさせたいママとしょっちゅう喧嘩してて。ねえ、颯太おじさん。パパとママが、一緒にいられなくなったのは、僕が野球うまくなかったからかなあ」

「そんなことない。――僕も、ぜんぶ佑真の家のことわかってるわけじゃないけど、佑真のお父さんとお母さんが離れたのは、断じて佑真のせいじゃないと思う」

「そう、かな」
「そうだよ」

佑真はコップの水をぐいと飲み干すと、僕に向かって聞いた。

「ねえ、こっちの小学校には、野球チームあるの?」
「ああ」と僕はうなずいた。
「野球チームのない小学校なんて、ないと思うけど」

佑真の顔が、笑いたいような泣きたいような表情になった。

「僕、野球はすっごい下手なんだけど、でも、練習するのとか嫌いじゃないんだ。クラブチームのみんなと、一緒にトレーニングするのも好き。走ると、ビリになるんだけど」

おどけた表情をする佑真を、いじらしく思う。

「颯太おじさん。ママに、こっちでも野球やりたいって、言っていいと思う?」

ああ、と僕は大きくうなずいた。

帰りの車のなかで、佑真は疲れが出たのか眠ってしまった。ブランケットをかけてやり、僕は夕暮れのとばりが下りた道を、実家に向かい安全運転で走る。隣の佑真を起こさないようにして。

家に入り、佑真のために用意した布団に寝かせてしまうと、僕はスマホを手に取った。かわりになんて、もちろんならないけど。自分にできることをしたいと思ったのだ。


五月五日、こちらも祝日、こどもの日。僕は佑真を、球場に連れてきていた。もちろん、横浜スタジアムではない。うちから最寄りの、市民球場だ。だれも、佑真にとって、和幸さんの代わりになんかなれない。それを承知で、僕は佑真に「近所の試合を見に行ってみるか」と声をかけた。独立リーグの試合。佑真は「行ってみたい」と言った。この子は、本当に野球が好きなのだった。

長いゴールデンウィークのあいだ、僕と佑真は、ほぼほぼ河川敷でキャッチボールをしたり、ときにはバッティングセンターでバットを振ったりして過ごした。家に帰ると、おふくろがはりきってからあげを揚げたり、生姜焼きを焼いたりしていた。親父は親父で、佑真と一緒に、テレビでバラエティを見ては佑真から芸能人の名前を教えてもらっていた。

夏かと錯覚するほどの日差しのなか、試合がはじまった。佑真は釘付けになって、ピッチャーとバッターの対戦を見ている。僕は運転してきている手前、飲めないのでジンジャーエールを楽しんでいたが、許せばビール飲みてえな、と思った。気持ちは正直だ。

バッターが、大きなファウルを打って、打球が弧を描いて観客席に飛び込む。その軌跡を見送ったあと、佑真がぽつんと言った。

「もうすぐ、母さん退院してくるよね。僕、まだ悩んでるんだ。母さんに、野球やりたいって言っていいのか。僕が、パパとの思い出を大切にしたら、ママを傷つけるかもしれない」

うん、と僕はジンジャーエールを喉に流し込む。炭酸でひりつくように感じた。

「ママのことも大切だ、って佑真がちゃんと伝えてあげれば、大丈夫だと思う。好きなことは、大切にしたほうがいい。それは、佑真の人生がたいへんなときに、気持ちの支えになってくれるから」

ピッチャーが鋭いボールでバッターを三振に打ち取り、観客席から歓声が上がった。佑真は身を乗り出して、それからぽつんと言った。

「――ママに、早く会いたい」

もうすぐ、ゴールデンウィークが終わる。僕は、ビスケットを工場で焼き続ける毎日に戻り、佑真はこちらの小学校への転校手続きをとる。紗羽は退院できて、おそらく佑真をしっかりと抱きしめるだろう。

ゴールデンウィークのゴールデンは、文字通り金色という意味だけど、僕にはその意味が少し理解できた。大切な家族と、ゆっくり休みを満喫する時間は、たしかに金色に染まっている。

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