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【掌編】君と暮らせば

二人の暮らしは、新しい町で始まることになった。籍を入れようと思っていた矢先に、夫の祥太に辞令が出て、福井に住むことになったのだった。私も夫も、それまでは関東の実家暮らしをしていたが、引越しを機に、知らない町で、二人の結婚生活が始まった。

新居は2LDKのわりと広い物件を押さえたが、まだ部屋のどこもかしこも開けてないダンボールばかり。さっそく赴任先の職場へ挨拶に行ってしまった翔太の代わりに、私はせっせと荷解きをしていた。台所用品と書いたはずのダンボールが見つからず、私はタオルでにじむ汗をぬぐった。

まだカーテンをかけてない居間からは、大きなガラス戸を通して、しらじらと明るい満月が見える。ちょっと休憩、と思ってベランダに出ると、生ぬるい外気に包まれた。もう夏だ。ペットボトルのお茶も飲み干してしまったし、ずっと作業をしているので腹がすく。疲れたなあ、と思ったところで、玄関から物音がした。

「麻理恵―、ただいま。牛丼とビール買ってきたよ」

祥太が帰って来たのだ。しかも夕食まで買ってきてくれたとは、なんて気が利くのだ。私はベランダから居間へと戻り、ガラス戸を閉めてエアコンの電源を弱めに入れた。熱い牛丼をかきこむと、きっとまた汗をかいてしまうから。ひんやりした冷房が部屋に入り始めると、翔太も「ああ、涼しい」と嬉しそうに言う。

「課長と部長に挨拶してきた。麻理恵の持たせてくれた一口ゼリー、みんな喜んでいたよ。しばらく引き継ぎと研修だな。家のこと、まかせてしまってごめん。土日になったら、俺もやるよ」

「ありがとう。休日になったら、町中も見に行きたいね。おいしいお店も探したいし、何より、銀行とか病院とか郵便局の場所を押さえておかないと」

私たちは、段ボール箱を簡易テーブルにして、翔太が買ってきてくれた牛丼を食べ始めた。ビールは冷え方がいまいちだったけど、喉がかわいていたので、カンパイもそうそうに、一気に飲み干してしまう。卵がからんだ、柔らかい肉と、ごはんの相性は抜群で、そうだ、いまこれが食べたかった味だ、と思う。

知っている人は一人もいない町で、私たちの暮らしが、一日一日積み重なっていく。左手薬指にはまる指輪は、翔太と一緒に選んだもので、いつの間にか私の日常に、ひそかに馴染んでいる。最後のひとつぶまできれいに食べ終えると、私は「ごちそうさま」と手を合わせた。

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