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【小説】レシートの記憶

ホットスナックのからあげ五個、コーヒーMサイズ、そしてメンソールの煙草。その三点の商品が印字されたレシートを、僕は社会人になったいまでも部屋の引き出しの中にしまいこんでいる。

これは、河野さんのこの店での最後の買い物だった。このレシート一枚が、僕と彼女がたしかに同じ時間を過ごした、そのまぎれもない証拠なのだった。

僕が東京にある大学に合格を決めたとき、父は農作業用のトラクターを磨きながら、からからと笑って言った。

「仕送りはある程度してやるが、寛人ももう半分は大人だ。自分のほしいものくらいは自分で働いて買え。バイトはいいぞ。友人もできるし、気になる女の子だってできるかもしれないぞ」

東京での新生活に胸を躍らせていた僕は「そうか、バイトはそんなにいいものか」と思った。たしかに、金が手に入って、友人もできて、ひょっとしたらカノジョの一人もできるのかもしれないと思ったら、ちょっとワクワクしてきた。

新キャンパスでの初授業が済み、集団教室の人の多さと広さにもようやく慣れてきた四月の終わり、僕はさっそく、バイト情報誌をめくった。

アパートの近くの、コンビニスタッフに募集が出ていた。あ、これ、歩いていけるじゃん。まだ正直、住み始めた町についても不案内で、間違いなく通えるところで最初のバイトデビューを飾るほうがいい。

ネットのテンプレートを参考にしながら履歴書を書き、店に持って行った。店長は、四十代後半の加賀さんという、大柄な男性だった。

「あー、大学生? N大の? うん、うん。入学したばっかなのね。うん、採用。ちょうどよかった、応募してきた新しいバイトがもう一人いるから、来週から一緒に研修始めよう」

というわけでとんとん拍子に採用が決まってしまった。履歴書なんか、五秒も見ていないように見えたけど、これが大人の世界なのかもしれなかった。


研修初日、僕は念入りに鏡の前で髪をセットした。ひょっとしたら、同じ大学の女の子と知り合っちゃうかも。それで、友達になって、お互いちょっと、ドキドキして……なんて、思いっ切り妄想していた。

事前に渡された制服を着て、店内からバックヤードに入った。加賀店長がパソコンをかたかたやっている事務机の前で、パイプ椅子に腰かけていた人物を見て、僕は自分が「おおいなる勘違いをしていた」ことに気づいた。

「おお、峰くん。紹介しよう。君とバイト同期になる、河野初子さんだ」

僕のほうを見て、深々とお辞儀をしたのは、小柄な、どう見ても六十歳以上に見えるおばあさんだった。白髪交じりの短髪に、少しだけ曲がった背中。表情もにこやかとは言えず硬めで、口角が下がっていた。

「河野です。よろしくお願いします」

落ちつきはらった声音で、僕は少々気圧された。

「あ、峰寛人です。え、N大の大学生で」

加賀店長が僕にも椅子に座るようにうながす。加賀店長は改めて僕らに向きなおると口を開いた。

「二人は、コンビニでのアルバイトは初めて。ああ、峰くんはアルバイト自体が初めてか。まず、マニュアルを渡すから、よく読んで」

渡されたマニュアルを眺めつつも、僕は河野さんについて考えをめぐらせた。まさか、バイトの同期がこういう人だとは想定外だった。

河野さんは僕の隣で、じっくりとマニュアルに目を走らせている。そのとき、店内のスタッフが「店長、ちょっと」とバックヤードに顔をのぞかせた。

「おお、なんだ、今行く。二人はちょっと待ってて」

あっ待って、行かないでください。めっちゃ緊張する。

そう声をかけたかったがそういうわけにもいかず、バックヤードには僕と河野さん二人が取り残された。

やべえ。何話したらいいんだろう。

僕がまごまごしていると、河野さんがいきなり「このコンビニ」と口火を切った。

「はい?」
「シニア歓迎、って書いてあったのよ」
「はあ、ええ」

「わかる? この歳になると、とにかく歓迎されているところに行くしかないの。未来あるあなたには、わかりづらい話だろうけれどね」

淡々とした口調は、たしかに河野さんが生きてきた人としての分厚さのようなものを感じさせた。

「あの、ご家族と一緒に暮らしてるんですか?」
「ううん、一人。年金だけじゃ、心もとなくてね」
「はあ。そうなんですか」

あまり会話ははずまなかった。僕自身、この年代の人と接する機会は、いままでほとんどなかった。実家は父さん、母さん、僕、高校生の妹の四人家族で、祖父母は同じ県内だが離れた町に住んでいるためあまり関わる機会がなかったから。

加賀店長が戻ってくると、さっそく研修が始まった。基本のレジ、清掃、搬入、品出し、と店長が順々に説明していく。棒立ちで聞くだけの僕を、河野さんがチクリとやった。

「峰くん、メモ取りなさいよ」
「はあ、忘れてきちゃって」
「こういうところはね、二度目は教えてもらえないのよ」
「はあ、そういうもんですか」

河野さんは熱心に、店長の一通りの説明が終わるたびに、メモを取っていた。すげえな、と思う。俺だったら、河野さんの歳で自分の孫ほどの若者に交じって、こうやって熱心に仕事を習うことができるだろうか。そのころにはへんなプライドが凝り固まって、面倒くさいオヤジになっていそうだ、自分。
 
そういうわけでバイトデビューをすませた僕は「親しい人は出る授業で探そう」という気にすっかりなっていた。コンビニバイトだって、うまくいかなければさっさとやめてもいい。学生の無責任とは今思い返せばおそろしいもので、僕は何も真面目に考えていなかったのだった。


しかし、当初の感触を裏切り、コンビニバイトを僕は六月になっても続けていた。最初に手ひどいミスは多くしたものの、僕は適応力があるようで、わりと図々しい性格もあいまって、このバイトに慣れたら、家から通うのが楽すぎて、ほかに移ろうという気は少なくなっていた。

河野さんとは新人同士ということで、最初はあまりシフトがかぶらなかった。でも、六月になって、ベテラン主婦バイトの高原さんが旦那さんの転勤で関東から四国に行くことになり、僕と河野さんは、週に何回か同じ時刻のシフトに入るようになった。店長も裏にだいたい控えてくれているので、困ったことがあればすぐ頼ればいいと思って、僕は呑気にかまえていた。

ある日のお客さんの少ない夕方、僕に休憩を取らせるために店長が店頭に出てくれているときがあった。河野さんは黙々とホットスナックを揚げていたが、その作業が終わったのか彼女もバックヤードのほうにきて、棚から自分の鞄を引っ張り出した。水筒を取り出してフタを開け、水分補給し始めた。

「蒸し暑くなったわね」
「ほんとですね。夕方から雨らしいですよ」

僕と河野さんも、あたりさわりのない会話ができるほどには、さぐりあいの段階はもう過ぎていたし、二人の間の緊張状態も解けていた。けれど、天気の話以外で、何を話したらいいのかは、わからずにいた。でも、せっかく同僚である河野さんと会話の糸口がつかめた、そのきっかけを逃したくなくて、僕は聞いてみた。


「河野さんって、休日は何されてるんすか?」
「私?」

少し戸惑ったように河野さんが答えた。目をぱしぱしとしばたたいている。目尻には深いしわがあった。


「映画、かな」
「映画ですか」

思いもよらない返答に、僕もどう返そうか迷った。

「え、それって、映画やドラマの配信サイトで観てるってことですか?」
「ううん、そういうの使い方よくわからないから、レンタルショップでDVD借りるの。シニア割引があってね」

河野さんから「シニア」の言葉を聞いたのは二度目だった。


「で、おうちで観るんですね」
「映画好きが高じて、壁にプロジェクターで映してるのよ」

そこで僕はつい突っ込んでしまった。

「プロジェクターは使えるんですね」

ああ、と河野さんは目を伏せた。

「夫がね、セッティングしてくれてたのよ。去年の冬、亡くなったんだけど」

僕は固まった。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ。河野さんほどの歳になれば、まだ若過ぎるともいえなくもないが、お連れ合いの方が亡くなることもあるのだろう。

「夫も映画が好きで、よく二人で夜中じゅう観まくって、感想を語り合ったな。だから、一人で観るのは、ちょっと味気ないね」

「だったら」

余計なことを聞いてしまった申し訳なさも相まって、僕はつい申し出ていた。

「僕にも、おすすめ映画教えてほしいです。いままであんまり、名作とかも観たことなくて…でも、今度授業でメディア論やるし、ちょっと映画自体、気になってて」

とたん、河野さんの顔がぱっと晴れやかになった。

「あ、じゃあ今度ノートにメモしたやつあげる。夫、私よりもずっと詳しかったから、二人で本当にいろんなジャンルを見たの」

河野さーん、ちょっと、と店長が呼ぶ声がして、河野さんはコンビニ店頭のほうへ戻っていった。僕はのり弁のごはんを最後の一粒まで箸で寄せて食べ終えると、ごちそうさま、と手を合わせた。


一週間後、河野さんが僕にA6サイズのノートをくれた。中を開くと、河野さんの整った字がびっしりと並び、百作以上の映画タイトルが紹介されていた。

「これ、わざわざまとめてくれたんですか?」
「夫が遺した、映画感想メモがたくさんあったからね。それを転記しただけだよ」

河野さんはそう微笑んだけど、僕はあまりの熱量がこもったそのノートに、ちょっとだけひるんだ。正直、ここまで求めてなかったかもしれない、とはもう言えない。せいぜい、二、三作を教えてもらって、それで話題の繋ぎになればいいかなーくらいにしか考えていなかった。

でも、これだけ親切にしてもらったからには、多少は見ないといけない。そう思って、僕は次の休日から、配信サイトで観られるものからまず観ていくことにした。

ローマの休日、レオン、ET、ホームアローン、アメリ……、最初はそう乗り気ではなかったが、何作も見ていくうちにかちりとスイッチが入り、そこからは怒涛の勢いでタイトルを探した。

配信サイトで観られないものは、レンタルショップに足を運びさえした。そうして、夢中になって映画を観ているうちに、僕にこのノートをくれた河野さんがどういう人なのか、だんだん気になるようになってきた。もちろん、甘い思いではまったくないのだけれど、河野初子さんという人間そのものの、背景に興味を惹かれるようになってきたのだ。

僕が、河野さんってどんな人なのかと知りたがる気持ちは、これはどういう感情なのだろうか。はたから見たら、気持ちが悪いものなのか。十八歳の男性と、六十六歳の女性は、普通は相手のことを知っていこうとは、しないものなのだろうか。

でも、もし六十六歳の男性が、十八歳の女性と心の交流をお互いにしようとしたら、それはちょっと、微妙な気持ちになるかもしれないな。でも。

名作映画のなかで、まったく生きてきたバックグラウンドや、年齢や性別、種別さえも違う二人が、数々の衝突を経て、最後には仲良くなる作品は多くある。僕は、そのことの意味をただ考えようとしていた。


八月、コンビニに新しいバイトの子が採用された。中国からの留学生、リンさんだ。すっきりとした一重の目をした、僕より一つ上の女性だった。改めて、都会で働くということは、さまざまな背景を持った人々と関わりながら一緒に仕事をしていくことなのだと知った僕だった。

河野さんが応募した理由に「シニア歓迎」とあったように、リンさんも「留学生歓迎」と書いてあったから応募したのです、と僕にとつとつとした少しイントネーションの違う言葉で語った。

店長はリンさんに自動レジの使い方を教えながら、僕のことを紹介した。
「峰くんは、先輩だからいろいろ教えてもらうといい」
「センパイ、ですね。よろしくお願いします」

日本式に頭を下げたリンさんに、僕も「こちらこそよろしくお願いします」とお辞儀した。東京のかたすみにある小さなコンビニで、ほんの少し人生のひとときが交差する。いつしか僕は、大学の授業よりも働くほうが面白くなってきて、加賀店長に話をつけて多めにシフトを入れるようになっていた。

僕と河野さんがさらに親しくなったきっかけは、リンさんの一言からだった。

「私、日本の映画、あまり観たことないです。観てみたい」

その日は僕とリンさんはもう上がる時刻で、このあと河野さんともう一人男性スタッフが入れ替わりで入るシフトだった。

「河野さん、映画すごい詳しいんだよ。僕もおすすめ作品たくさん教えてもらった」

「私も教えてもらいたいな」

リンさんは笑顔を見せた。しばらくしたら、河野さんが店頭に現れて「替わるよ、お二人さん」と言ってきたので、言ってみた。

「河野さん。リンさん、日本の映画見てみたいんだって。何かおすすめないですか?」

河野さんはしばらく考えていると、提案した。

「もしよかったら、うちで観る? プロジェクターあるし、上映会できるよ。今度、三人がシフト休みの日がたしか揃ってたじゃない? リンさん、日本食食べたことある?」


「ないです。行きたい、河野さんのおうち」
「え、僕も行っていいんですか?」
「もちろん。峰くんも一人暮らしなんでしょ。ごはん、食べていきなさいよ」

そういった経緯で、僕とリンさんは九月半ばのある日、河野さんのおうちにお邪魔することになった。河野さんは地図を書いてくれて「午前十一時くらいにたずねてきて」と僕らに言った。小雨がぱらつく日で、しっとりと濡れた気配が路地裏に満ちていた。

リンさんと待ち合わせて、一緒に河野さんのマンションまで行きドアチャイムを押した。

「いらっしゃい」

顔を出した河野さんに招き入れられ、僕とリンさんはマンションのリビングに足を踏み入れた。部屋には物が少なかった。最低限の生活用品しか置いてないみたいで、その分そう広くもない部屋だったがすっきりと見えた。

僕ら三人はこの日、河野さんおすすめの邦画を三本連続で観ながら、河野さんの手料理や僕とリンさんが持ってきたお菓子をだらだら食べた。

不思議な時間が流れているようだった。

本当ならば、僕ら三人には、なんの共通点も接点もない。でも、バイト先が同じ、という理由で、年齢も国籍も違う僕らが、同じものを見たり食べたりして笑い合う。

夜、河野さんのマンションを出て、リンさんとも駅で別れ、一人になった僕は夜空でこうこうと光る月を見上げて、ほんの少しあたたかな孤独を感じた。

河野さんは、十一月にバイトをやめることになった。娘さん夫婦から呼び寄せられて、名古屋で暮らすことになったのだと僕たちに説明した。

加賀店長は、バックヤードで僕にぽつりと言った。

「家族で暮らせるにこしたことはないわな」

河野さんが勤務最後の日、リンさんは試験のため出られず、僕が見送ることになった。制服も名札も返してしまった河野さんは、コンビニの店内を長いことうろうろしてから、最後に僕のところに来て、からあげとMサイズのコーヒー、そしてメンソールの煙草を頼んだ。河野さんが煙草をたしなむ人だということを、僕はこの時初めて知った。

「じゃ。そろそろ行くよ」

会計しながらそう言った河野さんが、レシートを僕に返そうとした。僕は胸ポケットに差していたペンを抜き出し、レシートと一緒にもう一度河野さんに渡し返した。

「連絡先、教えてください。河野さんにまた会いに、リンさんと名古屋行きますから僕」

河野さんは可笑しそうに笑った。ふふ、とその口から声がもれた。僕とリンさんが夏の終わりから付き合い始めたことを、見透かしているような笑顔だった。

「そりゃあ、嬉しいね」

河野さんはペンを受け取り、レシートの裏に走り書きで電話番号を書いてくれた。「娘の家電の番号だよ」と。番号の下に、さらに続けて何かを書きつけた。

僕にレシートを握らせて、河野さんは去っていった。ちょっとくしゃっとなったレシートを広げると、そこには「あなたに幸多からんことを」と河野さんの少し不格好な字で書かれてあった。


河野さんに会いに行く約束を果たせないまま、月日は過ぎていった。僕とリンさんは学生時代のあいだ付き合い続けたけれど、お互いの就職活動ですれ違いが増えた結果、別れてしまった。風の噂で、リンさんは中国に帰国したとあとから聞いた。

社会人としてのある日、掃除をしていたら、本と本のすきまから、河野さんにもらった裏に文字の書いてあるレシートがふいに出てきて、僕は目をみはる。

河野さんのことを、また彼女に教えてもらった数々の名作映画のことを思い出す。懐かしさに胸がつまりそうになったけど、番号をかけることを試すまでには至らなかった。いまさらかけて、どうなる、とも思ったのだ。

あなたに幸多からんことを。

その言葉が記された、古いレシート。僕はその皺や折れを丁寧に指で直すと、そっと引き出しの中にしまい直した。まるで、幼い子どもがセミのぬけがらを宝箱にしまうようにして。

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