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【掌編】いなくならないよ

妻の美月の白い指が、果物ナイフを扱って、くるくるときれいに林檎の皮をむいていく。僕はその仕草を横目で見ながら、妻のお腹がきれいにふくらんでいるのを、ただじっと見ていた。あと数か月もしたら、妻は出産することになっている。僕はただまぬけづらで、妻が林檎をむきおわり、それを四等分して芯をとると、ガラス皿に盛るという一連の動作を見ていた。

「なあに、ひろくん。ぼーっとして」

美月がこちらを見てくすくす笑い、僕は誤魔化し笑いをした。

「なんでもないよ。腹、でかいなあと思ってさ」
「そりゃそうよ、もうすぐ産まれるんだもの」

もう母親然とした美月の余裕の表情に、僕は居心地が悪くなる。はたして、夫はいつから父親になるのだろうか。言葉は悪いが、はらませたことがわかったその日から? 

社会人としてはもう5年目なのに、ことこういうことに関しては、自分が相変わらず学生気分のままでいるようで、なんだかいたたまれない。

目の前に運ばれてきた林檎を、銀のフォークで突き刺しながら、僕は思った。よくも、流れ流れて僕は美月のもとへたどりついたものかと。若い頃は、もっと無謀で、怖いものがなんにもなくて、いろいろ無茶をしていた。

今の建設現場の現場監督に落ち着くまでは、仕事もいくつも変えて来たし、付き合う女の子だって何人も変えて来たし、引越しだって五回以上していた。そんな、浮草みたいだった僕が、美月と結婚して、仕事を続け、これから家庭を築いていく。自分の足元が、気付いたらコンクリートでじわじわ固められて、もうほかへは動けないようにも思えた。

美月の肌は抜けるように白く、今は産休に入って家にいるので、働いていた頃のような肌やつれもない。いつもほんのりほほ笑んで、来るべき運命の日を待っているという感じだ。

「休日だし、どっか行く? 買い物のために、車出すよ」

そう言ってみると、美月は「うーん、それなら」と言って「久しぶりに映画館で映画が観たいかな」と笑った。わかりやすい勧善懲悪のハリウッド映画が好きな僕とは違って、美月は単館系の、渋いヨーロッパ映画が好きだった。

「いま上映しているのでね、見たいのがあるの」

僕は、じゃあ、行こうね、と言うと車のキーを棚から取った。

照明を落とされた映画館の中で、ちらちら本編のスクリーンから投げかけられる光が、美月の横顔の輪郭を浮かび上がらせる。美月が選んだ映画は、とてもシリアスな物語で、端的に言えば、出産した子どもを、母親が捨てて、男と逃げる話だった。残された父親は、悪戦苦闘しながら、子供を育てていく。

行きずりの他人の乳をふくませ、おむつ替えに苦戦し、夜泣きに頭を割られそうになりながらも、男は赤ん坊を育てていく。美月の映画の好みは、相当シリアスだとはわかっていたけれど、さすがに出産三か月前に見る内容とは思えなくて、僕は弱った。

上映が終わり、映画館の外のカフェに入ると、僕は美月に聞く。
「どうして、今、あの映画を観たいと思ったの? だいぶひどい話じゃない」
「ひろくんは」

美月は言葉を切ると、静かな声で言った。
「私がぜったい子供を置いてはいなくならない、って思ってるでしょう」

え、それ当然でしょ、という言葉を飲み込んだ。美月の話の意図がわからない。

「人生はね、わからないってことだよ。――あのね、ひろくんも会ったことある私のお母さん、私の本当のお母さんじゃないの。再婚でね。実の母は、私を産んで、それから二歳にもならないうちに、病気で死んじゃった。そのあと父は、親戚を頼って私を育てたの。再婚はうっと後だったのよ」

「そんな、ことが」
「だからもし、私がいなくなるようなことがあっても、ひろくんは、ちゃんと子育てしていけるかな」

そんなこというなよ、と僕は慌てた。美月の白い顔をずっと見ながら、美月は僕の思っていることなんて、とうに見抜いていたのだと思った。いつまでも、父になる自覚のない僕を見ながら、内心いらだっていたのかもしれない。

「なんてね。私はいなく、ならないよ」

僕の不安を見透かしたように美月が言った。僕も、慌てて続ける。
「僕だって、いなくならないよ。この子を置いて。絶対に」

美月の頬に、えくぼがきゅっときざまれるのを見て、僕は、やっと少しだけ安心できた。心臓が今回ばかりは跳ねた、と思いながら、美月がここにいることを、もう一度たしかめるように、じっと彼女の顔を見た。そのままいつまでも見つめていた。

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