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【短編】給湯室のハーブティ

キーボードを打つ手を止めて、オフィスの壁掛け時計を見上げたら十九時を数分回っていた。そのまま首を左右に揺らしたあと、指先で揉んだ。本来なら退勤しているはずの十七時からさらに二時間、ノートパソコン画面を見つめ続けていたので体の節々が凝り固まっている。

ふいに喉の渇きを覚え、露木佐恵はビジネスチェアを引くと立ち上がった。座りっぱなしで、最近腰が痛い。三十代も半ばを過ぎると、疲労は寝ても寝ても、完全に取れることがなくなっている。

雑居ビルの十二階のほぼ全スペースが、佐恵が勤める「ミドリ・レンタル」の会社フロアとなっており、この時間社員のほとんどは帰宅してしまったが、佐恵のほかにも幾人かが残っており、そのことが見渡すだけでわかった。

「ミドリレンタル」は、法人の会社フロアに観葉植物をレンタルするサービスをメイン業務としており、佐恵はここで事務員として八年働いている。

主に、レンタルに際しての見積書や納品書作成が佐恵の主な業務で、ここ近年は会社の業績が伸びており、佐恵は遅くまでオフィスに残ることが連日となっていた。

仕方ない。ほかの社員は家で幼児を見ている時短勤務の母親だったり、まだ仕事に慣れずしょっちゅう計算ミスをしでかす若手しかいないのだ。誰かが割りを食って、居残らなければ仕事は片付かない。今日の仕事を溜めたまま翌日になれば、また新たな注文の大波が来るのだと佐恵にはわかっていた。

ひと息いれようと給湯室に向かったが、自分でも足どりが重たくなっているのがわかる。疲労が蓄積しているのだ。給湯室のすぐ横のガラス張りの窓には、雨粒が叩きつけていた。心なしか、風の音も強い。帰るのが億劫だが、会社に泊まっていくわけにもいかない。

給湯室に足を踏み入れようとして、先客の影に気が付いた。何の変哲もない白シャツの、丸まった背中。彼がポットから湯を自分のマグに注ぎ入れていた。高畑龍治であることに、ものの数秒で気が付き、佐恵ははっと身を硬くした。

高畑龍治は、四十代を過ぎた男性社員で、五年前転職で「ミドリ・レンタル」に入社して来た。佐恵が彼のたたずまいだけでなんとなく体に緊張を走らせてしまうのには、理由があった。

「ミドリ・レンタル」の常務である斉藤直子が、おせっかいにも佐恵と龍治を「いい仲」として取りもとうとしたことがあったのだった。龍治が入社当初のことだ。

当時、佐恵は三十歳、龍治は三十七歳だったが、佐恵としては直子の雑な縁結びのやりかたに困惑しか感じなかった。龍治も、弱り果てていたと思う。佐恵はたしかに、婚活市場で自分が売れ残ることには焦っていないわけではなかった。でも、勝手に「似合い」だと決めつけられるのは、それはパワハラに当たるのではないか。

佐恵も、龍治も、何かと理由をつけて直子から仕事のペアを組まされたり、飲み会のあと二人だけで帰らせられたりと、よくわからないセッティングをされた。二人で、当時は「常務、さすがにないですよね」「そうですよね、困りますよね」とこっそり愚痴を言い合ったことも一度や二度ではない。

そして結局、佐恵も龍治も、互いをそういう相手として見ることはなく、またほかの恋人をつくるわけでもなく、今日こんにちを迎えている。最近では、常務のあきらめにより滅多に「セッティング」はされなくなったが、それでも「似合いのふたり」だと決めつけられた日の居心地の悪さは、いまでも忘れられない。

龍治が、佐恵に気が付きふり返った。そして「あ……」と口を開けたので「何か?」と手短かにたずねる。

「すみません、露木さん。最後のお湯、僕が使っちゃったみたいで。いまから沸かしても、もう帰られますよね?」

「あー、そうだったんですね。いいです、私、二十時まではここにいるんで。もう一度沸かします」

龍治は、いつも自分に対するときは、遠慮がちに話す。佐恵のほうでも、誤解されないようにという思いが立って、いつも距離感を意識した話し方になっていると自覚している。

私たちは、常務の一方的な決めつけのせいで「同僚としての親しさ」を育むことさえ、奪われたのではないかと佐恵はふと感じた。龍治が悪い人間ではないことは、佐恵にはこの五年の彼の働きぶりを間近で見てとっくにわかっていた。

龍治のほうでも、佐恵が心のバリアを解いたのが口ぶりからわかったのか、珍しく話を続けてきた。

「露木さん、このハーブティー飲みました? どうも中口さんが退職の挨拶に持ってきたものらしいんですけど、意外とうまかったです」

ハーブティー。そういえば、給湯室にあるワゴンの上に、インスタントコーヒーの瓶や緑茶・ほうじ茶のティーバッグのほかにも、見慣れないモスグリーンのパッケージの袋が増えていた。見やった佐恵は「ありがとうございます」と当たり障りなく答えようとしたが、今夜はどこかそういうのは違う、と思った。龍治に本当のことを言わなければならない、と直感が告げていた。

「私、ハーブティー全般、苦手なんです。薬草っぽい味がもともと苦手で、なんだか薬みたいじゃないですか」

龍治は、佐恵の言い方がツボにはまったのか、珍しく笑った。

「僕もそう、思っていました。合わないと直感で感じるものは、合わないと。僕もハーブティー、ダメだと思ってたんです。でも意外と飲みやすかった。でも、食わず嫌いが正しいことも、人生にはたくさんありますよね」

佐恵の心のなかに、すとんと何かが降りてきた。龍治はもしかして、ハーブティーだけのことを話しているのではないのかもしれない。でも、自分の思いを突き詰めてしまうと面倒なので、開きかけていた心のひだは、さっと閉じた。

「気が向いたら、飲みます。でも、十年後とかかもしれない」
「いいですね、それ」

ふっと笑みを浮かべ、龍治は自分のデスクへ戻って行った。グリーンのレンタルの提案営業をする彼にも、残ってやらなければならない仕事がたくさんあるのだろう。

龍治のことは、今夜初めて「同志」なのだと思えた。常務の余計な気回しさえなければ、佐恵たちにこのような仲間意識を感じる夜は、もっと早く訪れていたのかもしれない。

龍治の姿が消えた給湯室で、佐恵はハーブティーの袋のジッパーを開け、そっと鼻に近づけてみた。独特のハーブの匂いが鼻を刺し、やっぱりそう得意でもない、と眉をしかめる。

雨の強さが増したことが、夜の暗さに塗りつぶされた窓から伝わってくる。ポットが、湯が沸いたという電子音を鳴らしたので、佐恵は一瞬迷ってから、ハーブティーの袋のジッパーを締めて元の位置に戻した。

ハーブティーを美味しいと認めてしまったら、以前までの自分に戻れなくなる気がする、とまで言ったなら、それは杞憂だろうか。

自分には、まだこの味は冒険しなくていい。自身のかたくなさに呆れながらも、佐恵は少しだけ笑みをこぼすとココアの袋を手に取った。







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