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【短編】初恋

くしで髪を後頭部の中心に集めると、ヘアゴムできゅっとしばってポニーテールをつくる。少しくせのある私の髪は、結ばないと広がってしまうから、小学五年生のときからずっと、髪を結うのは私の朝の日課だ。

高等学校の卒業式まであと一週間を切り、この頃登校前は毎日、ほんの少し胸が痛い。もうすぐ、仲良しの友達とも、優しかった先生とも、簡単には会えなくなってしまうから。でも友達より先生より誰より、私には会えなくなるのがつらいと思うひとがいた。

母の用意してくれたごはんとお味噌汁と目玉焼きの朝食を済ませて、私は家を出る。時計を見ながら、走って港のほうへ向かう。

朝の七時三十分前。私の家がある小さな離島から、本土へ向かうフェリーの待合所に、私は到着する。この離島には中学校までしかないから、私は毎朝フェリーで30分かけて本土の高校へ行き、夕方30分かけて、この島に帰ってくる。

海には朝もやが立っていて、ぼんやりと白く夢のような光景に見える。待合所のがたつく引き戸を開けて、中に入る。とたん、切符売り場のところにいた萩原さんと目が合った。


「おはよう、芹ちゃん」
「おはよう、ございます」

私は目を伏せて赤くなる。萩原さんは、この島のフェリー待合所の職員だ。切符を売ったり、本土とこの島の渡船業務を行っている。いまから三年前にここの待合所で働きはじめていて、私が高校生活を行う三年間ずっと、朝こうして「おはよう」と言い、帰りには「おかえり」と言ってくれる。

歳は二十五歳だそうだよ、早くいい嫁をもらえばいいのにねえ、と、漁師のおかみさんたちがうわさしているのを聞いた。

私は萩原さんのことが、好きだ。毎日挨拶をしているうちに、気づいたら好きになっていた。短くスポーツ刈りに刈り込んだ髪も、笑うと下がる目尻も、薄い口元も、ぜんぶ好きだけど、恥ずかしがりの私は、ちゃんと萩原さんの目を見ることすらできない。萩原さんは、いつもちゃんと、ほがらかな声で挨拶をしてくれるのに、自分の勇気のなさがもどかしい。

この島は人口自体がひどく少ないから、島民たちはみな知り合いのようなもので、だから萩原さんも私のことを「奥村さんちの高校生、芹ちゃん」と認識して、声をかけてくれる。そこに、たぶん特別な意味なんてない。

ただ、いままではその特別な意味のなさを、存分に享受して、優しい彼の挨拶を聞いていたのに、この春から私は、本土の大学生となり一人暮らしを始める。だから、もう毎朝、毎夕、フェリー乗り場で萩原さんと言葉を交わしあうことはなくなる。それは、本当に寂しいことだった。

少し寒い待合室の、海に面した大きな窓から、遠くにフェリーの船体が確認できた。本土から海を渡って、こちらの岸へと白波を立てて向かってくる。


「芹ちゃん、フェリー来たよ。今日も行ってらっしゃい、だね」
「はい」


萩原さんは待合所を出ると、フェリーに向かって手を振り、だんだんと近づいてくる船体を誘導する。私はその後を一歩下がって、海のほうへと歩く。

萩原さん。
私は、もうすぐここからいなくなります。
そのことを寂しいと思ってくれますか?

声にならない思いを抱えて、雲間からのぞく陽光にきらきら光る海面をただ見ていた。萩原さんの、白いシャツと紺のズボンの制服姿を、いつまでも目に焼き付けたいと思いながら。


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