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【短編】バニラビーンズ・アイス

「詩織、アイス食べない? キャラメル味のやつ。美味しいよ」

涼しいコンビニ店内で恋人の創介が私にカップアイスを渡してくる。さっきまで外の暑さにふうふう言っていた私だったが、そのカップを受け取るのに一瞬、ためらう。

夏がめぐってくると、いつも母とつくったアイスのことを思い出す。お人形さんみたいにきれいで、でも不器用だった母の思い出。

母の記憶というのは、もう二十歳になった私の頭の中からは薄れて、ほとんど思い出せないのだけど、それでもひとつだけ、鮮明な思い出がある。母が出て行く直前の、夏の暑い、暑い日のこと――。

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「ねえ、みんな、アイスクリームってつくれるんだよ? 知ってる?」

1学期の終業式が終わったその放課後、机の上に腰掛けて、美菜ちゃんが自慢げに言った。

「えーっ、知らない」
「どうやってつくるの?」

私をはじめ、美菜ちゃんを取り巻いていた三年二組の女子たちは口々に声を上げた。美菜ちゃんのママは、有名な料理研究家で、お菓子も得意なはずだった。

「卵とお砂糖と生クリームをまぜまぜして、凍らせるの。すっごい簡単なんだよ!ママは、魔法みたいにつくっちゃうんだから。それで、すっごく美味しいの。普通のアイスがもう食べられなくなっちゃう」

みんな口々にいいなあ、羨ましい、という驚嘆の声を上げた。佐和子ちゃんがニコニコしながら言う。

「じゃあ、うちもママとつくろっかな」

その言葉にうながされたのか、みんな「うちでもママとつくる」と言いだした。その流れにつられて、私も言ってしまった。

「じゃあ、うちもママとやってみる」

美菜ちゃんはみんなの話を聞くと、優越感に充ちた顔で言った。

「じゃあ、夏休みが終わったら、みんなのアイスの味、教えてねー!」

みんなと別れて、下校しながら、私はママにどうやってアイス作りを頼んだものかと考えた。ママは、明るいし、とっても綺麗だったけど、お料理をはじめとする家事がどれもぜんぶいまいちで、しょっちゅう父から叱られていた。

「ただいまぁ」
「あら詩織、お帰りなさい」

家に帰ると、ママは居間でのんびりと、爪にマニキュアを塗っていた。ママは私が道中抱えてきた朝顔の鉢を見ると、はっとした。

「あれ? もしかして明日から夏休み?」
「そうだよ、ママ。夏休みだよ」
「てことは、詩織のごはんをお昼も用意しないといけないのか……」

母はそういって、頭を抱えた。専業主婦の母はお出かけ好きで、結婚当初から父のカード片手に、デパートに繰り出していたみたいだから、きっと私が昼間家にいて、家を空けられないのが残念なようだった。

「まあいいわ。詩織も今度、一緒にデパート行こうね。かわいいお洋服、買ってあげる」

そんなことより、私は母にお願いがあるのだった。

「ねえママ、アイス一緒につくってよ。美菜ちゃんち、ママとアイスつくるんだって。みんなも、この夏休み、ママとアイスつくるっていってた。だからうちも」

「アイスぅ?」

母は目をまるくすると、笑いだした。

「そんなもの、お店で買った味に敵わないじゃない。あー、馬鹿みたい」

馬鹿といわれて私は悲しくなり、言いつのった。

「馬鹿じゃないよ。つくりたいの!つくるったら、つくるの!」

私は地団太を踏んで、母にお願いした。

「詩織も、ママがお料理苦手で、いつもパパに叱られてるの知ってるでしょ。ママとつくったってだめよ」

「でも、ママがいい。ママとつくりたい」

私の「ママがいい」というまっすぐな言葉は、何かしら母の琴線に触れたようだった。

「わかった、わかったよ、詩織。じゃあ、アイスつくろう。夏のうちに」

母は私を抱き寄せて言った。

「ママと、大事な思い出つくろうね」

今思えば、この時期、父と母の離婚へ向けての話し合いは最終段階をすぎて、母は出て行くことを決めていたのだ。だから「大事な思い出」なんていう言い方をしたのだ。いつも、あとになってからわかる。そのときわからなかったことが。

アイスをつくると決めた日も、暑い暑い日だった。私はママに、一張羅のワンピースを着せられ、デパートB1の高級食料品売り場へと来ていた。

生クリーム、グラニュー糖、卵……ママは全部、一番高いものを買った。

「詩織、バニラアイスには何で匂いをつけるか知ってる? 美菜ちゃん何か言ってた?」
「えーと、たしか、バニラエッセンスって」
「うちはバニラビーンズを使いましょう」

なぜお料理の苦手な母が、そのときエッセンスに比べて値のはるビーンズを選んだのかわからない。でも、本当に、今思えば、最後の思い出を、母は真剣につくる気でいたのだ。私自身はそんなことつゆとも思わず、美菜ちゃんに夏休みが明けたら、対抗できる。そんなことぐらいしか考えなかった。

買い物を終えて、家に帰ると、私と母はさっそくアイス作りにとりかかった。母はアイス作りのレシピ本も買いこんでいたから、それ通りに作業をすすめた。

ハンドミキサーはうちにはなかったが、さすがに母はそこまでは買えなかったようで、母と私で、ひたすらぐるぐるボウルの中をかきまぜて、手首が二人とも痛くなる。

「もー、だから面倒だからって言ったのに、こういうのは」

愚痴を言う言葉とは裏腹に、母の顔は楽しそうで、頬に赤みがさしていた。私はというと、バニラビーンズのふわっと香るいい匂いに酔わされて、いつまでもかいでいた。

ホイップが終わり、冷凍庫におさめてしまうと、私と母はくたびれて、思わず一緒に笑いだしていた。

「あー、終わった、終わった。これであと何時間だっけ? 入れておくの」
「5時間だね」
「もう夕ご飯の時間になっちゃうじゃん。ママ疲れて今夜もう作りたくないから、ピザとろう」

台所も片づけないまま、そのまま私たちは、クーラーの効いた居間に布団をしいて、昼寝した。母の顔も腕も、すぐ近くにあって、母のつけているシャネルの香水の匂いが、ふわっと香った。さっきのバニラビーンズに負けず劣らずのいい匂いだった。

目が覚めると夕方で、私と母は冷蔵庫を開けてみた。母がさじをアイスに差し入れ、すくってみる。

「あれ……ちょっとシャリシャリしてるね。シャーベットみたいになってる」
「ほんとだあ」

母はさじを、私の口へと差し入れた。かき氷みたいなシャクシャク感のある、ちょっと失敗気味のアイスだったけど、バニラの素晴らしい香りがして、私はとても満足した。

「ママ、おいしい。ありがとう」
「うん、ママも、詩織と一緒にアイスつくれて、楽しかった」

私たちはその後ピザの注文をすませ、ピザが届くと、アイスと一緒に食べながら「今夜はパーティーみたいだね」と笑いあった。

それが、結局、母との最後の思い出となった。夏休みが終わらないうちに、父と母は離婚を成立させ、母は一人家を出て行くことになった。父が親権をとり、私は父の両親――祖父母と同居して暮らすことになった。

新しい環境では、もう母の話題を出すのがタブーだったから、私はアイスの思い出を、誰にも語らなかった。夏休みのあと、美菜ちゃんに「詩織ちゃんちもアイスつくった?」と聞かれたけれど「つくらなかった」と嘘をついた。母との最後の思い出を、誰にも分け与えたくはなかった。

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「……詩織?」

キャラメルのカップアイス片手に、創介がけげんな顔でこちらを見ている。しばらく過去を回想していた私は、はっと我に返ると、自分もアイスのボックスに手を入れ、別のカップを取りだす。

「覚えておいて、私はバニラアイスが一番好きなの。それも、バニラビーンズ使った高級なやつ」

ははっと創介が笑って、茶化す。

「詩織は、贅沢だなあ」

贅沢。その言葉を聞いて、胸につきあげてくるものがあった。母がそばにいた日々のこと、バービー人形みたいに綺麗だったけど、お料理が下手で、実は自分の気持ちを言えない不器用な母のこと。その母の愛情を、一心に受けたあの日こそが、私にとってのほんとの贅沢だったんだと思う。

レジで会計をすませ、創介と二人うだるような暑さの中、コンビニ外のベンチでカップアイスを開けて食べ始めた私の鼻に、ふわっとあの日と同じバニラの香りが抜けていった。

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