見出し画像

やるべきことをやっているのか

いつも素敵なコラムで楽しませていただいている、noteのkoalaさんが、300枚の原稿をお書きになり、賞に出されたという投稿を拝読して「ほんとうにすごいな」と触発され、また感銘を受けた。

「ただいまnote 長編出せました」

普段のコラムなどで、小説や文章についていろいろドヤ顔で語っていながら、100枚の分量をいまだ書いたことのない私は、思わず穴に入りたくなった。

ちょっと話は横路に逸れるのをご容赦いただきたい。noteの「コンテンツ会議」を毎週提出させていただいているが「何かを評する」というのはすごく難しく、よく「私なんかが、何かについて断定口調で語っていいのだろうか」と考えてしまう。

コンテンツ会議で選んでいただき、広く読まれると、フォロワーさんが増えたりするので(ほんとありがとうございます)その増えたフォロワーさんが小説も読んでくださらないかな…という策略ありきの、コンテンツ会議への投稿であるが、書けば書くほど、難しい。

何かについて、断定して書くことは、書いたことの枠の外にあるそれ以外の何かを、切り捨てることでもある。

コラムって、私が書くとそういう断定口調になりやすくて「あれれ、ドヤ!って言いきっちゃったけどこれでよかったかな、誤解を生まないかな」とあとからもやもやしたりする。

かといって「ああも考えられるけど、こうも言えますよね」みたいな全方向に配慮した文が、おもしろかったためしはない。

という、実は難しい「評する」ということなのだが、今の時代、つくられたコンテンツ、プロダクト(商品)に「評する」ということは、おそろしく簡単になった。

ネットを開けば、誰かの書いたレビューをすぐに確認することができ、私たちは買うか買わないかを決められる。

でも、koalaさんの投稿を読んで、はっと考えさせられたのだけれど、評する気楽さに比べれば「つくる」ことはものすごく、ものすごく大変なのだ。

気楽に私たちがレビューを書く、小説にしても、掃除機にしても、飲食店の味にしても、想像をはるかに超える手間がかかっている。

手間がかかって、その商品は世に送り出されているのだ。

だから「つまんなかった」「使えなかった」「美味しくなかった」って書くのは簡単なんだけれど、せめてその商品を真剣に開発した誰かがいることを、想像してから書けないものだろうか。

その商品をよくしよう、という思いがあっての、根底に愛のある批評や批判はとても必要なものだ。だが、ただ自分では何もやっておらず、ただけなすだけ、の人というのも世の中にはいて、自戒をこめて、自分がそういう人になってはいけないと思う。

何を言いたいかというと、私も、自分の小説を、もっともっとまじめに書こう、とそう思ったということです。書けば書くほど、難しさ、己の未熟さが身に沁みるので、自分のしんからやりたいことに向かいあうのはつらい。でも、やるべきことから逃げて、ほかの人の評ばかりしていたらいけないと思いました。(コンテンツ会議を書かないという意味ではないですよ。コンテンツ会議は素晴らしい企画なので、これからも応募します。いつもありがとうございます)

7月8月は、私も賞の原稿を書きます。noteも、その合間に、ちょくちょく更新したいと思います。またどうぞよろしくお願いいたします。



この記事が参加している募集

コンテンツ会議

いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。