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【小説】スープがならぶまでに 征吾篇

いつも、一瞬遅いのだ。泣くとわかっていれば「いまからさあ泣かれるぞ」という心がまえができるのに。和佳奈が泣き始める兆しを捉えるのが自分は遅い、と小松征吾は大きく肩を落とした。気づいたときにはもう、娘は火がついたかのごとく大声で泣きわめいていて、手の施しようがない。

もうこうなるとなだめてもすかしても効果はなく、ただひたすらなるべく優しく聞こえる声かけをするよう努めながら、内心「子供の声がうるさいと階下や階上の住人から怒鳴り込まれないか」「隣の部屋から虐待だと通報されないか」ばかり気になって、気が気じゃなくなる。

和佳奈は2歳を数ヵ月過ぎたところだ。つかまり立ちを初めてしたその瞬間を、妻の佳恵とスマホで動画におさめて喜びあったのはついこの間であるかのように思えるのに、それからあっという間に不安定にバランスを取りながら危なっかしくも歩き回るようになって、いっときも目が離せない。

いまは和佳奈が見ている幼児向け動画を、タブレットごと「そろそろごはんにするから、またあとでね」と取り上げたのが烈火のごとく泣き出した原因だった。昨日もおとといも、同じことをして泣かなかったのに、今日は何が違ったのだろう。

わめき泣き、顔を真っ赤にしながらぼろぼろ涙をこぼしている和佳奈を前に、無の境地になりながら、泣きたいのは俺のほうだ、としんから思った。泣いて何かが変わるのなら、もうとっくに泣いているだろう。それで本当にどうにかなるのであれば。

二年と少し前から世界中で急激に流行り出した感染症は、征吾の人生にも深い爪痕を残した。勤めていたアパレル会社が感染症のあおりをくって倒産したのだった。「ステイホーム」を有意義に過ごすのに、おしゃれなデート服はいらないし、オンライン会議が仕事の中心となった世の中に、良いジャケットの違いをわかってもらう楽しみは半減するのだと痛いほど知った。

転職先をいくつか探したが、同業ではどこも人員を増やさないようにしているらしく、仕事探しは難航を極めた。一方で、佳恵は和佳奈が一歳半を迎えたあたりから、勤めていた医療機器の会社から「できるだけ早く育休から復帰してほしい、佳恵さんがいないと忙しすぎて大変だ」と戻ってきてコールが続いた。

三歳までは園に入れず家で育てたい、と妊娠中から決めていた佳恵だったが、征吾の仕事が立ち消えたことで、いろいろ考えるところがあったらしい。

征吾と佳恵はお互いにどういう働き方をするか、夜ごと相談を重ねた。

「せいくん、もし嫌じゃなかったら家にいて和佳奈を見てくれる? 仕事が決まるまででいいから。私、せいくんと和佳奈をいっときでも養えるようがんばる。このいやなパンデミックが終わったら、きっと前よりもいい仕事が決まるよ」

征吾は佳恵の発言を聞き「目の前の娘だけを見ていれば、あとは自由にしていいかもしれない」という自由時間が自分に与えられる可能性を感じて一瞬喜び、その一方でなけなしのプライドに爪を立てて引っかかれるような、そんな痛みと恥ずかしさも感じた。

「男は家族を養ってこそ一人前」だなんて、古い考え方だと一笑に伏していて、ばりばり働く女性を礼賛していたし、そういう女性が好みでもあった。自分は「新しい時代の側の人間」だと思っていた。けれど、いざ佳恵の口から「せいくんと和佳奈を養う」などという言葉が飛び出すのを聞くと、いてもたってもいられないような、自分の椅子を蹴られて奪われるような、そのような怖さも感じたのだった。

はっと我に返ったときは、和佳奈はもう泣き止んでいて、じとっとした目で征吾を見ながら「すうぷ」と言った。

「また~? 今度は違う食べものにしようぜ。同じもんばっかだと、栄養もかたよるって、ママも言ってるだろう?」

征吾の言葉がぜんぶわかっているのかいないのか、和佳奈は「すうぷ、すうぷ!」と繰り返して訴える。その目のふちにまたじわっと涙が浮きだしてきたのを見て、征吾は「まずい」と直感した。

しぶしぶキッチンへ行くと、戸棚から小さな箱を取り出す。去年新発売になった粉末トマトスープのスティック袋を紙箱から取り出し、ティファールでお湯を沸かし始めた。

この即席トマトスープを、和佳奈は偏愛している。もともと味の好き嫌いは離乳食を与えはじめたときから多く、ほとんどの食べものは嫌がり吐き出してきた。なのに、このトマトスープは別格に気に入っているらしく、しょっちゅう飲みたがる。

佳恵は『市販の粉スープは大人用の味付けで、いろいろ濃すぎるから、だいぶ薄めて与えてね。そしてやけどしないように冷ましてからあげてね』と、何度も征吾に言いおいて仕事に行った。

お湯を十分に冷まし、スープ粉末の入ったプラスチックのマグカップに、ゆっくりと注ぎ入れる。ついでに、ごはんも入れてやると、和佳奈はスプーンを使って、ぐちゃぐちゃにかきまぜて食べ始めた。

「ああ、ああ、そんなに汁をはねとばしたらだめだろ」

タオル、タオルと言いながら台所に和佳奈の口まわりと手をふくものを取りにいきながら、征吾はいまいましい、と思った。和佳奈に対し、そう思っているわけではない。征吾の苛立ちは、和佳奈の出産祝いとして、征吾と佳恵夫妻にこのトマトスープを贈った、高校時代の同級生である薮田という男に向けられていた。

結婚して三年目の春、佳恵が和佳奈を出産してまもなく、薮田から家に祝い熨斗でパッケージされた小包が届いた。あいかわらずそつのないやつ、と感じた征吾をよそに、佳恵は小包をさっそく明けて「わ! 粉スープの詰め合わせ! どれも国産野菜を使ってるんだって。美味しそう」と喜んだ。

帝王切開で和佳奈を産んだ佳恵は「お腹の傷の治りが遅いのよ」と、キッチンに立って夕食を作るのを億劫がった。なので、お湯を注げばすぐに食べられるスープはとてもありがたいのだと笑顔になった。

「へえ、よかったね」と口では言いはしたものの、友人の妻の体のことまで気遣ってお祝いを選ぶ薮田を、正直ちょっとやりすぎじゃないかと征吾は思った。要するに「出産という大仕事を終えたばかりの佳恵を、あまり使うな」と言いたいのだろうけど、お前に言われることじゃないと反発心も生まれた。

去年の夏に、その粉末スープシリーズの新商品として、トマトスープが発売された。

「あ、薮田くんがくれたスープの新商品出てる」

そう言って、スーパーで真っ赤なトマトの絵柄の箱を手に取った佳恵の嬉しそうな表情は、征吾の胸をちくりと刺した。そして、二歳になったのを機に和佳奈にも薄めて与えてみたところ、あっという間に和佳奈までもをとりこにした。

なんだよ、粉スープなんて、しょせんまがいものじゃないか。本物のスープには、逆立ちしたって勝てっこないのに。和佳奈が幼い舌しか持っていないのは当然だが、佳恵がそんな舌しか持ってないのはどうなんだ。

心のなかで、薮田があんなお祝いをくれなかったらよかったのにというどす黒い気持ちがふくらんでゆく。薮田が純粋な気持ちで祝ってくれたことは理解できるし、嬉しくもあるが、俺の妻であり俺の子に、余計な味を教えないでほしかったと、征吾は根に持っているのだった。

佳恵は、あまり料理が好きじゃないし、得意ともいえない。だからこそ「楽していいよ」という薮田の言葉にほっとできるのだろう。征吾自身も、料理は苦手だし、包丁を持つのも火を使って調理するのも苦手だ。そんな自分が、佳恵に「料理を上手く作ってほしい」なんてとても言えない。自分も料理が不得手な以上、言えるわけがない。

それでも自分と一緒に暮らしながら「薮田さんのような人と結婚すればよかった」なんて妻が内心思っていやしないか、佳恵や和佳奈が美味しそうにこのスープを飲むのを見るたびに征吾はハラハラし通しなのだった。

佳恵は「時短」という言葉が好きなようだった。時短で野菜いため、レンチンで煮物、などと「いかに手をかけずに作ったか」という話を褒めてほしそうに征吾に夕食の席で話題にしてくる。佳恵はとても賢く、仕事ができる女性だ。だから、料理にも無駄をはぶき効率を求めるようだった。

うん、すごいね。へえ、そんなに早くできたんだ。そう相づちをうちながら、征吾は自分が育った家の食卓を懐かしく思い浮かべている。

『あのな、絶対に奥さんと自分の母親を比較してモノを言っちゃだめだぞ。すごく傷つけるし、マザコンだって思われたら幻滅されるぞ』

いつか薮田からかけられた言葉がふいによみがえって、妄想に冷や水をひっかけられた。うるさいな、と頭の中の薮田をつっぱねる。俺の母親は、まがいものなんて、出さなかった。喜んで食べもしなかった。征吾はそうぶつぶつと言い訳する。

自分が家庭を持って、その家庭であたたかい手料理が出てくることを望むことの、何がいけないのか征吾にはわからない。薮田は言うだろう。じゃ、なんでお前が作らないの? と。夫婦とも、家事をやるのはいまのスタンダードでしょ、と。

和佳奈がすぐ泣いて即席トマトスープしか食べようとしないこと。佳恵が「せいくんと和佳奈を養う」などと気負って仕事に行き、職場で重宝されていること。一向に、自分がまた勤められるアパレル会社が見つからないこと。自分自身が、もう始まっている「新しい時代」に適応しそこねているように思えること。それもこれも、厄介な感染症が流行らなければ、こんな苛々を抱えることにはならなかったのかもしれない。

流行感染症は、征吾自身のなかに巣食う理不尽を、一気に炙り出したようにも思われた。

和佳奈がスープごはんを食べ終わり、またさっきの動画の続きを見せるよう、征吾にねだりはじめた。毎日続く苛々と、腹の底にたまっていくヘドロのような重たさを、どうしたらいいんだろう。

でも、それをぶつける先が和佳奈ではないことは、かろうじて理解できていた。テーブルに置いていたスマホが震えて、メッセージを確認すると佳恵からだった。『ちょっと立て込んで、帰宅時間が遅れます』と。残業か。またか、などとももう思わず、養ってもらっている身としては粛々と受け止めるだけだ。

目をつむる。目をつむりながら、ここから三駅離れた実家にいる、母の背中をまぶたに浮かべた。少し丸まった背中と、いつもつけているエプロンの結び目と。

記憶の中の母は、だいたいキッチンに立っている。受験勉強を終えて二階から台所に降りていくと、トマトの酸味を帯びた香りが、鼻をくすぐる。ことことと鍋のなかで煮えているのは、母お手製のトマトスープ――ミネストローネというのよ、と母に教えてもらったことがあるが、名前がいつもうろおぼえになってしまうので、征吾はただの「トマトスープ」として認識している。

食卓につくと、すぐにほかのこまごました小鉢と一緒に、深皿によそわれたトマトスープが出てくる。まっさきにスプーンでスープをすくい、味わう。野菜のうまみが溶けだした熱く赤いスープは、喉から胃へと下りていき、征吾の心ごと満たしてくれる。

母はパートこそしていたが、家事にいそしむ時間が長かった。家はいつも整えられて片付き、何品ものおかずが夕食のテーブルには並んだ。なかでも、母の作る野菜スープ類は絶品だった。何時間も煮込んで野菜がくたくたになっているのだが、そのくずれてベーコンのうまみと一体になった野菜がまた美味しいのだ。

あのトマトスープのようなものが、征吾が家庭に求めるいわば「味」だった。ああいうものをどこか求めて自分は結婚したのだと、いま振り返ると思う。そのことを佳恵に話したことはない。でも、征吾が実際に持つことになった佳恵との家庭は、やはり理想とはどこか違った。

その「どこか」を明解にするつもりはなかった。考えれば考えるほど、つきつめればつきつめるほど、自分が不幸になるのだと直感していたからだ。征吾だって、佳恵の理想、また自分の理想とは違う道を歩いているのだから、佳恵一人を責めるなんてできない。

征吾の父は、時代背景もあり、パートの母と子供の自分を養い、征吾をきちんと大学まで進学させてくれた。ときには厳格で融通の利かない父だったが、一家の大黒柱として働いて妻子を食わせることが、どんなに大変か、征吾はいま痛感している。

もちろん、いまはそういう時代じゃない。征吾は急激に世界を覆い尽くした感染症によって、仕事を失い、妻に食べさせてもらい、和佳奈を見守りながら自宅でくすぶっている。

薮田なら。また憎らしくも薮田の顔が浮かぶ。薮田なら征吾とは違って、ちゃんと家庭の主夫として適応し、喜々として料理や洗濯や掃除をし、子供を下手に泣かせたりせずにじょうずに子守もするのだろう。そう思うと、また腹が立ってきた。

征吾は薮田がうまく時代に即した考え方が自然にできていることが、うらやましくて仕方ないのだ。自分も薮田のようであれたら。そう思うたび、強く「そういうもんでもないだろ」と心の中で抵抗心が生まれるのを、征吾は認めている。

「和佳奈、パパとおそと行こうか。もう夕方だから、ママのごはんも買ってこないと」

征吾は時計を見ると、和佳奈を連れて、スーパーに行くことにした。そろそろ、今夜食べるお惣菜を買いにいかないといけない。米はさすがに炊く。味噌汁はフリーズドライ。おかずは、惣菜一択。征吾が用意できるものといったら、それくらいしかないのだから、やっぱり佳恵の時短料理を責めるのはお門違いだ。

そう理解、理解はしているはずなのに、感情が追い付いてこない。記憶がつい、育った家の夕食のテーブルを懐かしく思い出してしまう。どうしようもないことが、結婚生活には多すぎる。

和佳奈は今日は比較的おとなしく後部座席のチャイルドシートに乗ってくれたのでほっとした。子供をシートに固定しているときは、一瞬息を抜ける時間だったりする。

車を発進させ、すこしずつ日の長くなってきた夕方の道を走らせたが、すぐ車の列に前後ろとも閉じ込められた。帰宅ラッシュだ。みんな、征吾とは違って、働いていると思うと、ずんと一気に気が重くなった。

仕事を探さなくては。そう思うのに、心がまだついてこない。仕事をしないのなら、せめて完璧に家事をしなくては。そうも理解しているのに、どうしてもうまくやれない。いつから、自分はこんな人間に成り下がったのだろう。帰宅ラッシュの車に囲まれながら、佳恵は今夜何時まで仕事をするのだろう、とぼんやり考える。

和佳奈の手をひきながら、スーパーを見て回る。タイムセールが始まる時間と重なり、お惣菜や刺身に値引きシールが貼られ始めた。揚げ物を二種類、それからサラダとひじき煮をカゴに入れると「帰るよ」と和佳奈の手をひっぱった。

和佳奈は「すうぷは?」と聞く。粉トマトスープを買って、と言いたいのだ。

「まだ家に買い置きあるでしょ」

だめだめ、と言ったが通じているのかわからない。和佳奈はふいに強い力でつないでいた手をふりはらうと、だっと駆け出した。

「あっ、こら! 和佳奈! 走ると転ぶぞ!」

あわてて後を追う。和佳奈はスープ売り場の手前で立ち止まろうとした拍子に、つまづいて転んだ。あ、あ、泣くぞ、と覚悟した。今の「泣く兆し」はわかりやすい。

ふえっと和佳奈が泣き出しかけたそのとき、スーパー店員のエプロンをつけた若い女性が、和佳奈を助け起こすのが目に入り、あわてて彼女にかけよった。和佳奈は涙をひっこめて、びっくりしている。

「すみません、ありがとうございます」

征吾が頭を下げると、和佳奈が「すうぷ、そこにある!」と空気を読まずに叫んだので、また頭が痛くなった。「だから、またこんど」「すうぷ!」そんな不毛なやりとりを和佳奈としていると、和佳奈を助け起こした店員がくすっと笑った。

「あ、このトマトスープですか? 美味しいやつですよね」
「はあ。まあ。――娘が気に入っていて」

征吾がもごもごときまり悪くごまかすと、店員は眉を下げて笑った。

「去年の冬、このトマトスープをプッシュして売ろうと思ってたんです。そのために売り場も用意しようとしたんだけど、いろいろあってその企画が流れてしまって。でもこうやって、気に入って買ってくれる方がいるならよかったです」

征吾は「そうなんですか」としか答えられず、後に続ける言葉に迷っていると、店員は「ごめんなさい。話し過ぎちゃった。パパにまたスープ、買ってもらってね」

と言って、別の棚を陳列しに行ってしまった。みんな、この即席トマトスープが好きなんだな、と征吾は改めて気づかされた。簡単なのに、美味しいから? よくわからない。美味しいというなら、母のつくるお手製トマトスープのほうが、どんなに味わい深いか。

店員の手前もあり、和佳奈がねだりつづけたのもあり、征吾は結局その粉トマトスープの箱をお惣菜とともにひとつ買って帰った。

佳恵が帰宅したのは、夜八時を回ってのことだった。和佳奈はかろうじてまだ起きているが、舟をこぎはじめる時間帯だ。

「ごめん、せいくん、和佳奈、ただいま。――ああ、今日も疲れた。こんなに忙しいこと、出産前にはなかったのに。それもこれも、病院が混みすぎてるからなのかも」

征吾は詳しくはわからないが、佳恵の勤める医療機器の会社は、いま病院からの商品注文がとても多くなっているらしい。需要が止まらないので、発注する側も休む暇がないらしかった。

テーブルに並べられたお惣菜を見て、佳恵は「今日も、美味しそう。買ってきてくれてありがとう」と目を細める。その言葉には純粋な感謝しか含まれていないとわかっているのに、どこか居心地悪くも感じる。

佳恵の目の下に、隈ができている。肌も荒れている。なのにその一方で、顔つきには生気がみなぎっていた。外仕事で働く人間の充実感を、佳恵はふりまいていて、それを目の当たりにするのは、征吾にとってはだいぶ複雑だった。

佳恵は征吾の買ってきた惣菜を、きちんと食べ終えると手を合わせて「ごちそうさま」と言った。和佳奈がまだ生まれていない頃、佳恵はよく会社の愚痴をこぼすことが多かった。でも、いま佳恵は征吾に対し、今日の仕事での嫌なことの話をすることはない。

おそらく「働いていない征吾に対して、自分が仕事の愚痴を言うのは悪い」と佳恵は判断しているのだろう、と征吾はぼんやりと考えた。「気を遣うことはない、愚痴ならどんどん言えばいい」と佳恵に言ってあげられるような器を、あいにくいまの征吾は持ち合わせていなかった。小さい男だと誰かに言われてしまったとしても、そうなのだった。

眠くてぐずりはじめた和佳奈を寝かしつけるために、一緒に布団に転がって、何気なくスマホを見る。メッセージが一件。はっとして確認すると、薮田からだった。

『明日、久しぶりに会わないか? 外で昼飯を食いながら、話したいことがある』

簡潔なメッセージに、征吾は首をひねる。薮田、なんのつもりだ。明日も佳恵は仕事だが、和佳奈を連れて行く気にはなれなかった。こういうときくらい、実家に頼るのもいいんじゃないか。母だって父だって、孫と過ごす時間はほしいだろう。

和佳奈が眠ってしまったあとでも、征吾は薮田からメッセージが来たことを、佳恵には伝えなかった。「えっ、薮田くんがどうしたの」と佳恵が顔を輝かせやしないか、心配だったのだ。
 

翌日、征吾は実家で母に和佳奈を預けてしまうと、電車で薮田との待ち合わせ場所に向かった。常に自分の近くで目配りをせねばならない幼子から解放されるのは、こんなにも身軽な気分になるものだったのか、と征吾は改めて実感した。

そのままはしゃいで海にでも行ってしまいたい気分になるのを抑えて、征吾は待ち合わせ場所のカフェ席に腰を下ろした。少し早めについてしまった、と思っているなり、薮田が姿を見せた。

「よお、小松」
「薮田、なんだよ急に」

小松、薮田、と互いの苗字を呼び合ったとたん、高校時代を彼と一緒にしじゅう過ごした気安さがふっとよみがえり、征吾の心になんとも言い難い感情が生まれた。薮田のことを信頼していなかったら、こんなに長く友として続いていないだろう。それはじゅうじゅうわかっているつもりだが、それでも、どこか自分は、現在、大人になった薮田とどう関わったらいいのか、考えあぐねている。

「和佳奈ちゃんも連れてくるかと思ったよ」

薮田はカフェのメニュー表を眺めながら口の端に笑みを浮かべた。

「連れてきてもお前は気にしないと思ったけど、大事な話なのかと思ったから、和佳奈は俺の実家に預けてきた」
「そっか。そりゃあいい」

征吾も薮田も、ビーフカレーを頼んだ。トッピングを載せたいとも思ったが、いま稼げていない身分でそんなことをしていいのか迷いが出たので、征吾はそれを諦めた。

「で、話ってなんだよ」

ウェイターに注文を済ませたあと、征吾は切り出した。都合のいい話だろうが、悪い話だろうが、本題は最初から知っておいたほうがいい。薮田は、姿勢を正すとお冷やを一口飲んでから口を開いた。

「小松は、仕事決まったのか? ――もしまだなら、話したい案件がある」

征吾は、大きく息を吸った。心のなかで「このお節介め」と薮田への罵り言葉が浮かんだ。どうせ、そういうことだろうと予測していた。

「まだ決まってないが」

ぶすっとしてそう告げると、藪田は身を乗り出した。

「小松が、ずっと働いてきたアパレル業界に未練があるのは知っている。だけど、今、俺の会社で営業社員の人手が足りない。別業種であることはわかってるが、俺も、俺の上司も、信頼できるメンバーが欲しいと思ってる。――小松は、そういう人材に値する」

征吾は思わず薮田の真剣なまなざしから自身の顔ごとをそらした。どこまでも、俺のプライドを傷つける奴だ、と藪田に言いたくて言えない。

薮田が勤めているのは、主に鉄鋼製品を扱う上場企業だ。自分さえ、ここでこの話に乗れば、おそらく経済的にはふたたびの安定、いや以前よりももっと良い条件での安泰が望めるだろう。

しかし、征吾はどんどん胸の内が苦しくなるのを感じた。薮田、お前はいいよな。俺に恩を売れて、上司にも評価されて、あげくには俺の妻や娘の好感度まで上げまくって。ためこんだ理不尽を全部ぐいっと飲み込んでしまえば、おそらく薮田に頭を下げることはできるだろう。このまま家でぽつんと孤独に、和佳奈の面倒を見続ける日々からも、開放されるかもしれない。

征吾は、どうする? と自分に問いかけた。どうする、どうする――、こちらを真面目な表情で見つめ続ける薮田の視線から、いつしか目がそらせなくなっていた。そして腹の底からふと浮かび上がってきたのは、ずっとくすぶりつづけてきた、薮田への純粋な問いかけだった。

「薮田。突然聞いて、悪いけど――お前はどうして、佳恵の出産祝いとしてあのスープを送ったんだ?」
「は?」

自分の要請からずれた答えが返ってきて、ふいを突かれたのか、薮田が目を丸くした。征吾の腹の内で、ぐるぐる何か悪いものが回り始めた。そもそも、あのスープに、俺はいつも糾弾されている気がする。俺は、よろしくない夫だと。妻の出産という一大事があっても、たいして彼女を気遣えず、感染症のせいとはいえ仕事をなくし、娘の世話すらろくにできないでいる。薮田が贈ったスープで喜ぶ佳恵や和佳奈を見るたびに、自分が『良い夫失格』の烙印を押されたように感じる――。

ぐるぐる被害妄想は大きくなっていき、気づいたら目が据わっていたのか、薮田に「おい、大丈夫か。気をたしかにしろ」と肩をゆすぶられていた。征吾はここがカフェ内であることすら忘れて、思わず嫌味ったらしく告げていた。

「いいよなぁ、お前は『誰もが認める良い夫』だし、妻に食わせてもらってる身分でもなくて! 仕事の斡旋だって? どこまで俺をバカにすれば、気が済むんだよっ。俺はどうせ、佳恵に気の利いたものひとつ、やれないんだからな」

思わず響き渡った征吾の声に、カフェ内のざわつきが、一瞬静まるのがわかった。薮田が形のよい眉を寄せ、こっちをじいっと澄んだ目で見続けている。その瞳が、ふいに暗さを帯びて、征吾は「なんだよ」と身構えた。

「俺は良い夫なんかじゃなかった」

薮田は、絞り出すかのようにしてその言葉を紡いだ。征吾が「はっ」と鼻を鳴らすと、彼はうつむいた。薮田の小さな声が、征吾の耳まで届いた。

「妻は――彩也子は今俺と一緒にいない。ちょうど和佳奈ちゃんの生まれる前ぐらいに脳出血を起こして、彼女の実家でいまもリハビリと療養してる」
「脳出血?」

征吾は耳を疑った。和佳奈が生まれる前といえば、それは二年も前のことだろう。初耳だった。どうして自分は聞いていなかったのか。

「なんで、言ってくれなかったんだ」

おそるおそるそう言うと、薮田は笑った。少しその笑顔は崩れ、自嘲しているようにも見えた。

「小松はそのころ、あまりに幸せそうだったから。昇進したと聞いていたし、和佳奈ちゃんまで産まれて。俺は結局、彩也子との間に子供は持てなかったから、ねたましすぎて言えなかった。お前から彩也子のことを聞かれても、元気だと嘘をつき続けていた」

「そんな」

「でも、伝えたかった。奥さん、大事にしろよって。彩也子はあまりに忙しすぎた。仕事が大好きだったこともあるけど、当時働き過ぎていた」

「だから、佳恵には『体を労わるように』ってあのスープくれたのか」

「まあ、そうだな。俺さえもう少し、元気なころの彩也子を気遣ってあげられていたら、あんなことにはならなかったかもしれないから。よって、俺は良い夫なんかじゃない。だから、安心しろ」

征吾はぐっと黙った。黙らざるを得なかったが、しばらくして薮田に向き直った。

「そのお前の会社に転職する話、もうちょっと考えてもいいか。――さっきは、何も知らなかったとはいえ、言い過ぎた。すまん」

そのあとはあまりお互いに話さず、征吾は無言でカレーを食べた。薮田も、喉が渇くのかしきりに水ばかり飲んでいた。

薮田と別れると、征吾はぼんやりしながら実家行きの電車内でつり革につかまった。自分がこの二年見て、知っていると思っていた「薮田」とは誰のことだったのだろう。高校時代の同級生といえど、本人が語ろうとしないことは何ひとつわからないものだ。

電車を降り、慣れ親しんだ路地を歩いて実家の庭先へ到着すると、母が庭先で和佳奈を遊ばせていた。なにか違和感があるな、と思いまじまじと母を見直したが、どこが普段と違うのかはわからない。

「パパぁ、おかえりー」

自分を見て満面の笑顔になった和佳奈を抱き上げると、母は征吾をまぶしそうに眺めた。

「薮田くん、元気だった?」
「うん、元気だった」

どう返そうか迷う間もなく、そう答える。たとえ薮田が元気じゃなかったとしても、人は親しい人に過剰に心配させないように嘘をついてしまうと気づいた。薮田は、この二年間元気じゃないときも多かったのだろう。そう思うと、気づけなかった自分が恥ずかしかった。

「もう帰るよ、和佳奈」
「じゃあ、じいちゃんにバイバイする」

和佳奈がそう言ったので、父も実家にいたのだとわかった。母に和佳奈を預けたまま、急いで薮田との待ち合わせに出向いたので、父の在宅を気にしていなかった。

「あのね、征吾。トマトスープあるから、持って行って」

母がそう言ったので、征吾の心に嬉しさが広がった。母のトマトスープを食べられる。佳恵だって美味しい一品があれば帰宅して喜ぶだろう。

玄関を上がってダイニングに入ると、トマトの酸味が香って、征吾は息を吸い込んだ。

「ありがとう、母さんがいつもの作ってくれたんだよね」

そう口に出してみて初めて、征吾は違和感の正体に気が付いた。母が、いつも身に着けていたエプロンを着ていない。

キッチンを見ると、大柄な父の陰があり、仰天した。母のエプロンを、父がつけている。

「まさか、このスープ」

「そうよ、用意したのは、母さんじゃないの。父さんが作ってくれたの」

征吾の足もとが、ふたたびぐらりと揺らぐように感じた。今日は、二度目だった。

「父さん、料理なんかいままでしなかっただろ」

父はこちらを見てにやりと笑った。

「俺だって母さんだって、どっちが先に死ぬかわからんだろ。母さんが先に死んでも、お前らに迷惑だけはかけられないと思ってるからな」

「父さん、トマトスープは完全にマスターしちゃったのよ」

母が微笑みながら「ねー」と父に寄り添った。

「じいちゃんのスープ、食べたぁい」

和佳奈の無邪気な声が、ただ征吾の耳に痛かった。
 
父お手製のトマトスープを温めて和佳奈に食べさせ終えると、二人で佳恵を待った。今夜はとりわけ、佳恵の帰りを待ち遠しく感じて、いろいろなことを話せたらと思った。薮田のこと、父のこと――征吾は久しぶりに、佳恵に話したいことがたくさんあると感じた。

コツ、コツ、と佳恵の足音がマンションの階段を響かせることに気づいて、征吾は顔を上げた。和佳奈も「ママ帰ってきた?」と征吾の腕のなかで聞いてきた。

だが、鍵を開けて入って来るかと思いきや、突然征吾のスマホが鳴った。相手は佳恵だ。疑問に思いながら出ると、佳恵の声がした。

「ごめん。家の前まで帰ってきたけど、せいくん、マスクして。和佳奈にもさせて」

その切迫した声に、異変を感じた征吾はすかさず「どうした?」と聞いた。

「どうも、今日の夕方から熱が出てきてて。生理前のいつもの微熱だと思ってたんだけど、寒気と頭痛もし始めたの。このご時世だし、例の感染症の可能性も高い。だから、なるべくせいくんは和佳奈と一緒に、私からなるべく今夜は離れて過ごして」

「熱、何度あるんだよ。とにかく、家の中に入れよ」
「まず、マスクして」

どこまでも冷静さを欠かさない佳恵に、らしいな、と思いながらも征吾はマスクをつけ、佳恵のために手指の消毒ジェルを玄関に出した。「ママ帰ってきた!」と佳恵に飛びつきたがる和佳奈を抱え上げ、近づかせないようにした。

顔色が悪く青ざめた佳恵に、体温計を持ってきてやり、測らせると38℃を記録した。まずいな、と征吾も覚悟せざるを得ない。

佳恵は、電車で帰ってくるがてら、これから熱が下がらなかったら行わなければいけない各方面への連絡のことを、スマホでずっと調べていたと征吾に言った。

発熱が続いたら、当然明日以降しばらく会社を休まねばならないだろう。佳恵の給与は、その間どうなるのだろうか。調べなければ、まだわからないことが多すぎた。

甘え切っていたんだな、と撃たれたように思った。佳恵に、薮田に、母や父に――。いざ、佳恵が倒れるまで、自分は何一つ気づけていなかったのだ。薮田も、彩也子さんが倒れるまで、そうだったのだろうか。

征吾は狭いマンションの物置にしていた部屋をざっと片づけ、佳恵の寝床をつくると彼女を布団に潜り込ませた。とにかく、休ませることが大事だ。

最初は佳恵と離れるのを嫌がっていた和佳奈も「ママ、病気だから」と何度も言うとわかってくれたのか、自分の布団で上手に寝てしまった。和佳奈が寝ついたのを確認すると、征吾は佳恵に声をかけた。

「あのな、今日和佳奈を俺の実家に連れてったんだけど、両親が手作りのトマトスープ持たせてくれたんだ。びっくりしちゃうんだけど、父さんが作ったんだってさ。意外と美味いし、体にもいいから、よそってあげるよ。食べたら」

佳恵は布団を鼻先までかぶり、目だけで征吾のほうを見ると、子供みたいな表情でこくんとうなずいた。

今夜は、とりあえずこのスープでしのげるからよかった。問題は明日からだ。スーパーだって、ネットスーパーを利用すべきかもしれないし、貯金の残高もオンラインバンキングでいまいちど確認せねば。征吾は自分の気持ちが、どこか高揚しているのを感じた。身に迫る危機、というものを実感しているのかもしれなかった。

父のトマトスープを温め、佳恵の布団のそばまで持っていくと、佳恵は億劫そうに身を起こした。

ひとさじ、ふたさじ、佳恵はすくって口に入れたが、しばらくすると「もういい。食欲なくて」と征吾に深皿を返した。そして、ひどく申し訳なさそうに言った。

「あの、実はいつもの粉のトマトスープが食べたくて。そっちに、ごはんを混ぜて持ってきてもらっていい? せっかくのお父さんのスープを前に悪いんだけど」

征吾は驚いた。父のスープは母の作ったものと遜色ない出来栄えだったから。ただ、佳恵にとっては、いま食べたいのは薮田をきっかけに知った粉スープなのだろうと感じた。

キッチンに戻り、粉スープをマグカップに入れて熱湯を注ぐと、慣れ親しんだ香りが広がった。佳恵にとって、今欲しているのはまぎれもなくこっちなのだ、と理解する。もう、薮田に対しての嫉妬は感じなかった。

ごはんを入れてスプーンで混ぜ、病床の佳恵に持っていくと、佳恵は弱々しいながらも笑顔を見せた。無理しなくてもいいのに。そう思っていると、スープごはんのマグカップを受け取って、佳恵が語り始めた。

「あのね、ずっと話してこなかったんだけど、私の実家、せいくんのご実家みたいにちゃんとしてなくて。せいくんの料理上手のお母さまみたいに、手料理を出すことなんて、ふだんからぜんぜんなくて」

征吾は無言で頷き、佳恵に目配せした。続きを話して、とでも言うように。

「うちのごはんは、いつもカップラーメンとか、菓子パンとか、そんなものがあればいいほうで、用意されてないときすらしょっちゅうあって。だから、私はそういうあたたかいお料理、知らないし食べてきてもない。だからきっと、せいくんのお母さまが編み出して、お父さまが今日つくってくださった、トマトスープの価値もよくわからない」

征吾は佳恵の目を見ながら、聞いているよ、と頷き続ける。

「私には、粉スープのほうが、自分には慣れ親しんだ味で、ほっとできて。そんな私が、優しくて健康的なおうちで育ってきたせいくんと一緒になって、大丈夫なのかなって思ってた。ずっと、心配だった。私にできることは、自分の母と同じく働き続けることだけで、でも、今日熱が出てそれもできなくなるかもって思った、ら」

「もういい。――いまはいいよ」

征吾は佳恵の話を遮った。自分の思いを、今伝えなくていつ伝えるのだ。

「熱が高いんだ。休みなよ。俺のほうが、ダメなところは多かった。でも、それから目をそらして、ちゃんと見据えようとしてこなかったんだ。二人で――二人で、なんとかしていこう。俺が人生で組む相手は、佳恵一人だけなんだから」

「うん」

佳恵は征吾の見守るなか、スープごはんを最後まで平らげると「明日熱が下がるといいな」と言って電気を消した。消す前に彼女の手は一瞬征吾の指先に触れて、征吾はそれに応えて佳恵の細い指を握り返した。

和佳奈も、佳恵も眠ってしまった夜更け、征吾は一人寝付けずに、暗い部屋の中パソコン画面を開いていた。検索しているのは、薮田の会社のホームページだった。

サイトをスクロールして、目に映るスタイリッシュにデザインされた鉄鋼会社の情報を眺めながら、薮田と彩也子さんに何かを贈ろうと決めた。

薮田は自身を『良い夫なんかじゃない』と言っていたが、薮田の心がいまも彩也子さんと一緒にあることは、今日の表情を見れば明らかだった。征吾の気持ちが、つかず離れずしながらも、いまやっと佳恵のところに辿りついたように。

明日から、また見たことのない日々が始まるのだろう。征吾はそう思うと、家族三人が食べた皿を洗うために立ちあがった。

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