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【小説】週末だけのコーヒー店

どうせ別れ話に過ぎないのに、バーガーショップじゃどうしてだめなんだよ。俺が、金に困ってるのはよく知ってるくせに。三ヶ月付き合った「一応まだ恋人」の理恵は、俺の心中も察してくれず、数歩前をどんどん先に歩いて行って、その「週末だけ開いているコーヒー店」を目指していく。

目の前でひらひらとした薄紫のマーメイドスカートの裾が揺れて、健康そうなふくらはぎがのぞいた。俺は「こいつのこの服は、初めて見るな」とこの期に及んで、また余計なことを考えた。デートのときは、決まって、服を新調して現れるのがこの女だった。

最初は、俺のために綺麗にしてきてくれたんだなと感激もしたが、そのうちに、いったい理恵と結婚したら、いくら金がかかるんだろうという、そら恐ろしい思いに駆られることが多くなった。

一分の隙もなく巻かれた髪。汚れひとつついていない、かかとの高いサンダル。首元に光るアクセサリーも見たことのないものだ。

もともとは、理恵から俺のほうに近づいてきたのだ。

『ええ、あの駅前の大きなビルに入ってる保険会社ですよね? 葛西さんの職場って』
『そうだけど?』

俺は、自分の勤め先を、コンパで出会ったに過ぎない女性が知っていることに、ちょっとだけ鼻の下を伸ばした。だが、俺は理恵と出会ったときには、大学の先輩がおこしたベンチャー企業に引き抜かれる話が進んでいた。俺の人生が順風満帆だからこそ、こうして理恵のように美しくモデルのような女が、引き寄せられもするのだと、おごっていたのだった。

しかし、俺が意気揚々と「転職するんで」とその保険会社を辞めた後、事態は急変した。先輩は、かきあつめた俺の金含むすべての財産を持って、海外に逃げたのだった。そうして、俺は、安定した職場も、なけなしの貯金も失い、倦んだ表情で転職サイトばかり眺めて、日がな一日を過ごしている。こんな俺から理恵が逃げ出すのも時間の問題だと思っていたら、案の定だ。

「着いたよ、入ろ」

理恵が立ち止まったのは、大通りから一本左に折れた小さな路地にある店の前だった。ごつごつした壁がクリーム色に塗られていて「ワタリドリ珈琲」と木製で鳥のかたちをした看板がかかっている。

あーあー女性はこんなおしゃれなお店が好きですよねはいはい、俺に最後の泥水ぶっかけるときもこういう店がいいんですよねはいはい。そう悪態を内心つきながら店内に入り、理恵にうながされるまま窓際の席に座った。

ふてくされながらメニュー表を見る。珈琲一杯四百二十円。まあ許せる範囲か。

「俺はブレンド。ホットで」
「私、何にしよっかなあ。キャラメルマキアートのアイスかな」

狭い店内だけれど、天井にはプロペラの空調が回り、木目の床は清潔で、あちらこちらに鉢のグリーンが置いてある。けっ、と思うしかない。理恵が手を挙げると、奥から店長らしき男性がやってきた。齢は俺と同年代の三十歳前後に見えるが、半袖のチェックのシャツに黒いエプロン姿は、おしゃれカフェの店長というよりはちょっとオタクっぽく、とくに猫背のあたりがなんだか見たことがあるような……?

まじまじと彼を見ていると、彼は僕の視線に気づき、彼のほうから「あ」と声を出した。

「も、もしかして、葛西くん?」
「――もしかしなくても、ミチザネ?」

俺たちの会話を聞いていた理恵が「みちざね?」と怪訝そうな顔をする。目の前のカフェ店長は、間違いなく俺の小学校のときの同級生、菅原浩章だった。そして、俺をはじめとする、山越中学校六年三組の生徒が、彼につけたあだ名が「ミチザネ」だったのだ。

いやあ懐かしいな、と言いかけてはっとした。俺、これから別れ話されるんだぞ。昔のクラスメイトに見られていい場面なんかじゃない。恥ずかしすぎる。

「あ、悪いなミチザネ。俺ら、飲むもの飲んだら、すぐ出っから」
「ええ、せっかく来たのにゆっくりしようよう」

理恵が不満げな声を出す。俺は、このあとの予定を何かしらでっちあげようと、頭をひねろうとした。が、思いつかないでいるうちに、理恵がたずねてくる。

「ね、太雅くんと店長は、知り合いなの? それに、あだながミチザネって」

「小学校の同級生なんですよ。僕は当時はがり勉だったので、修学旅行で太宰府天満宮に行ったときから、みんながミチザネって呼びはじめて」

ミチザネ……いや、菅原店長がぽわぽわした笑顔で回答する。理恵は「あー、納得!」とけらけら笑っている。お願いだから、昔の知り合いの前で、恥だけはかかせないでくれ。俺はなんとか、別れ話を持ちかけられるのは回避しようと思って、自ら話題を変えた。

「ところで、なんで週末しかこの店開けてないんだ?」

ミチザネは、氷の入ったグラスを俺たちの前に置いて「それはですね」と言った。

「僕が、平日五日間は会社員をしているからで。この珈琲店は休日の余興なんです」
「はー」

もう、はー、としか言えない。俺が、馬鹿な儲け話に騙されて、財産や仕事を失っていたあいだ、ミチザネは平日会社員を真面目に勤めたうえで、それどころか土日にカフェをやっているだなんて。

「器用だなあ」
「そんな、僕なんて昔から四角四面で要領悪くて。どちらかといえば、葛西くんがみんなのヒーローだったよね、小学生時代」

「へえ。小学校のときの太雅くんの話、知りたいかも」
「めちゃくちゃモテてましたよ。男子にも女子にも」

ミチザネの話に、俺はぶすくれてグラスの水を飲んだ。ミチザネの話は事実だ。俺は小学校時代、おつりがくるほどモテまくっていた。何しろ足が速かったし、体育は5だったし、みんなを笑わせることも得意だった。

俺はカウンター向こうで珈琲をとぽとぽ淹れているミチザネを見る。ミチザネは、昔はめちゃくちゃチビだった。今もそう背は高くないし、当時は勉強こそよくできたものの、誰と話すときもおどおどしていて、男子たちにはいじられ、女子たちには半笑いで馬鹿にされていた少年だったと思う。それが、今はどうだ。

「お待たせしました」

ミチザネが、俺の前にホットのブレンド、理恵の前にアイスキャラメルマキアートを置いた。理恵が「おいしそー」と歓声をあげる。

俺は、変わってないように見えて実は大成長しているミチザネの勇姿にあてられて、もう理恵から何の話が飛び出しても受け止めようという心持ちになった。その前に、と思ってブレンドをすすったら、めちゃくちゃ旨くてびっくりした。

「――話、したら。なんだっていうんだよ」

ええい、もうまな板の上の鯉になってやる。

「あ、そうそう。話あるって、呼び出したんだったよね」

理恵は鞄から、何やら紙の束を取り出す。俺が眉根を寄せているのを見て、ふふっと彼女は笑った。

「太雅くん、ハロワとか転職サイトだけじゃなくて、相談窓口使ってみたら? 要するにエージェントだけど」
「あ、ああ……」

拍子抜けだった。なんだ、別れ話じゃなかったのか。理恵は嬉々とした表情で続ける。

「あのね、私の先輩が、こないだエージェント使って無事転職できて、すごくよかったんだって! だから、知り合いにも情報拡散してって」

理恵の声が遠くに聞こえるほど、俺は安堵したのか体じゅうから力が抜ける気分だった。そうか、俺、捨てられるんじゃなかったんだ。安定した勤め先を自分の間抜けな決断で手放し、信じた先輩には手ひどく裏切られ、その上できた恋人にもこっぴどくふられるものだと思い込んでいた。

「ね、菅原さんもこのお店出す前に相談しまくったって、こないだ言ってましたよね」

理恵がミチザネに話を振る。ミチザネは、俺たちの前にガラスの器に載せたクッキーの小袋を置いた。

「ええ、とくに市の商工会議所さんなんかにはとってもお世話になりましたね。僕が心配性だから、同じ不安を何度も聞いたりしてしまったんですけど、それでも懇切丁寧に接してくれて」

「その、会社辞めて店一本ではやらないのか? 正直この珈琲、すんげえ旨かったから、商売として成り立ちそうだと思ったけどな」

ミチザネは微笑む。

「そうですねえ……。ただ、会社員として雇用してもらっているからこそ、多少珈琲を安くお出ししても、自分にダメージがいかない部分はありますし」

ブレンドを最後の一滴まで飲み干し、理恵と次会う約束を取り付けて、ワタリドリ珈琲を出た。クーラーの効いていた店内から、蒸し暑い外に出たので、体温調節がばかになりそうだ。それでも、俺はどこかすがすがしい思いでいた。

(葛西くんが、みんなのヒーローだったよね)

ミチザネの声が、思い出させてくれたもの。俺も奴に、負けないでがんばらねばならない。


三か月後の土曜日。俺はすでに常連となったワタリドリ珈琲のカウンター席で、ミチザネ相手にクダを巻いていた。

「聞いてくれよミチザネ、やっぱり俺、理恵にふたまたかけられてたんだよ~」
「あらあ、でも理恵さんみたいな人、モテないはずないよねえ」

「しかも相手は、転職エージェントの情報を拡散してくれって頼んだ先輩らしくて」
「社内恋愛だったんだ」

「――もう俺、味噌がついたエージェント、使うのやめたい」
「え、もう内定直前って言ってたのに⁉」

「冗談分かれよ。でもやめたいんじゃー」
「ていうか葛西くん。出してるの珈琲だから。よっぱらいみたいに絡まないで」

店内から見える秋の空は、もう夕暮れ色に染まっている。青に沈んでゆく街明かりやビル明かりのなか、ミチザネの店がここにあって良かった。そう思いながらも、俺は(こいつ、なかなか言うようになったなあ)と、エプロンをタスキにかけた猫背の背中を見て思いつつ、「社長、珈琲もう一杯!」と、ふざけた声を上げた。

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