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【第2話】涙味のエビフライ

第1話「オムライスの届け先」

午後四時過ぎの洋食屋『ななかまど』の店内に、客は誰もいない。ディナーの時間まで、クローズドの札をかけてあった。窓際のテーブル席で、私は固唾を呑んでいた。向かいに座っているのは、この店の店長兼コックの、父だった。父は太い眉根を寄せて、一枚の紙をしげしげと眺めていたが、フーッと大きなため息をつくと、断言した。

「千夏、お前ちょっと秋からは店に出るのを休め。この成績は、あんまりひどい」

私は、ショックを受けつつも、反論できず、黙っていた。大学二年生の、前期の成績表。いくつも単位を落としていて、このままでは確かに三年生への進級が危うかった。

「ちょっとお前を学生のくせに店で使いすぎたな。新しくウェイトレスを募集する。決まったら、お前は夏休みの間、新しいバイトに引き継ぎをして、大学が始まったらしっかり勉強して、ちゃんと卒業しろ」

私はうなだれたが、たしかに留年して、さらに家計に負担をかけるわけにはいかなかった。そうして『ななかまど』の店のドアには「スタッフ募集」の貼り紙が貼られることになった。

貼り紙を貼って三日後のこと。チリリンとドアベルが鳴り、重い木製のドアが開かれた。冷房で涼しくしてある店内に、外から夏の気配がむっと押し寄せてくる。

「いらっしゃいませー」

秋から店に出るのを控えなければいけないことで、正直ずっとくさくさしている三日間だったが、接客にそれを出してはいけない。私はなるべく明るい声で、応対しようと、入って来た客に目を向けた。そこには、二歳ぐらいの小さな男の子の手を引いた女性が立っていた。ふわっとした茶色のボブヘアに、小花模様のワンピースを着ている小柄な若い女性。女性は、私を見ると、おどおどしながら口を開いた。

「あのっ、表のスタッフ募集を見たんですけど、ここで働きたいんです。働かせてもらえませんか?」
「ええっと」

私は思わず真意をはかりかねた。小さい子供さんがいて、働けるのだろうか。私の思いをくみとったように、女性が言葉を連ねた。

「私、高瀬凛といいます、二十三歳です。どうしても、この子を育てるために働き場所がほしいんです。お願いします!」

その切羽詰まった様子がただごとではなく、私はすぐに厨房の父に声をかけた。父は手拭きで手をぬぐいながら現れた。私が、面接希望の人だ、と伝えると、父は難儀な顔つきをしたが、「こっち」と勝手口に女性を呼んだ。そのまま裏で話し込み、女性が帰ったあと、父は私と母を呼ぶと伝えた。

「結婚して子供を産んだはいいが、旦那に蒸発されてシングルマザーなんだそうだよ。この町に母親と息子と三人で暮らしていて、子供の面倒は彼女の母親がみるから、とにかく金に困っていて働きたいんだと」

聞くからにして、大変そうな身の上だったが、父はううんと背伸びをすると言った。

「仕方ない、人助けと思って、雇ってみるか。千夏、教育係はお前だぞ。夏休みのうちに、高瀬さんを、店で使えるようにしろ。そうして、秋からはお前と交代だ」


ガシャン、と何かが割れる音がして、私ははっと振り返った。高瀬さんが、慌ててテーブル席の下にしゃがみこんで、割れたお冷やのグラスをさわろうとしている。

「危ないから、素手でさわらないで!」 

思ったよりずっととがった声が出てしまい、高瀬さんがびくっとなるのがわかる。そのびくびくぶりと、こちらを「怖い人」と見ている目つきに、さらにいらいらしてしまい、私はほうきとチリトリをロッカーから持ち出すと、駆け寄った。

「大変失礼しました」

お客さんに頭を下げながら、割れたグラスを始末する。その間も、高瀬さんは棒立ちでいるばかりで、全然役に立たない。

料理の皿はまともに運べないし、すぐに食器を割るし、注文は間違えるし、高瀬さんの初日から一週間の働きぶりといったらひどいもので、私はずっといらいらしっぱなしだ。

どうして、安直に情にほだされないで、別の人間を雇えなかったものか。父にまで、いらつきの矛先が向いてしまう。

ほんとに、この調子で、私の大学の夏休みが終わるまでに、高瀬さんが店で使えるようになるのか、とても不安だった。一方の、店長の父はといえば、簡単なアドバイスをするだけで、叱り役も恨まれ役も私にまかせっきりだった。

そんな夏の夕方、ふらりと店に丹羽が現れた。すみっこの二人席の片側に陣取り、メニュー表も見ずに、私を呼ぶ。しっぽを振りたいのを押し隠して、飛んでいくと、

「新しいウェイトレスの子、入ったんだね? なかなか可愛いじゃん」
とにこやかに言われていらっときた。なんだ、その嬉しそうな言い方は。
「高瀬さんっていうの。言っとくけど、子持ちよ。シングルマザーなんだって」
「へえ、がんばってるんだ」

訳知り顔のその口調を無視して「いつものオムライスでいいの?」と投げやりに訊くと、
「ううん、今日は別のものにしようかな。エビフライ定食かな」
と丹羽が答えた。

エビフライひとつ、と厨房に声をかけて、あまり長くそこで話しこむと不自然なので、レジ台横の定位置、高瀬さんの隣りに並ぶ。丹羽がじっとこっちを見ているのが、実は高瀬さんを見ているのではないかと、疑心暗鬼になって仕方ない。

時刻が六時を指し、つぎつぎとお客さんが入って来た。私たちは、応対に追われる。

「千夏さん、お子様用の椅子ってどこですか?」
「こないだ教えた階段下の物置の中!」
「レジ、変なところを押しちゃったみたいで、すみません、助けてください」
「ああ、もうっ」

忙しいさなか、私一人なら十分に回せるところを、いちいち高瀬さんに頼られてしまうので、私の調子も狂ってしまう。バタバタした慌ただしい時間が過ぎて、客足が退けてくるころ、私は思わず、高瀬さんをトイレの洗面所に引っ張り込むと、「いいかげんにしてよ!」と声を出さずに叱責した。

「いま忙しい時間だってことは、わかってるでしょう! まかせるところはちゃんと私に振って、一人であれこれ手を出さないで! 失敗の後始末は全部私がするんだから!」 

高瀬さんの目に、じわっと涙が浮き上がった。ああ、最低。そう思っていると、ふっと目の前がかげった。トイレに人がやってきたのだ。しまった、と思ったときにはもう遅かった。丹羽だった。聞かれていたのだ。

「ちなっちゃん、言い過ぎ。まだ新しいバイトさんは、働き始めたばかりなんだろう? ちなっちゃんは何でもできちゃうから、できない人に思いやりがない」

トーンを押さえた丹羽の声を、最後まで聞いていられなくて、私は洗面所を飛び出した。背後で、丹羽が高瀬さんに、何事か言っていた。ずるい、出来ないからって、優しくされてて。丹羽も丹羽だ。私の気持ちなんて、全然知りようがない。

丹羽をはじめとする客が全員帰り、閉店してから、私が黙って店の床をモップで掃除していると、高瀬さんが私の背中にそっと声をかけてきた。

「——千夏さん、泣いてるんですか?」
「泣いてないっ」

声に涙がにじみ、私はあわてて目頭を拭く。

「さっきはすみませんでした。店長が、余ったエビフライ定食、用意してくれてます。一緒に食べませんか」

高瀬さんの落ち着いた声に、私はしぶしぶモップをロッカーへとしまうと、テーブル席のひとつに腰掛けた。高瀬さんが、照明をひとつだけつけた暗い店内に、エビフライ定食を二つ、運んでくる。

二人で向かいあって、エビフライを口に運んだ。今日、丹羽も食べていた、と思うと、さらに胸が苦しくなった。ふいに高瀬さんが、静寂を破った。
「千夏さん、あのお客さんが好きなんですね」
「うん」

もう否定する元気もなかった。見透かされていたことは、不思議と嫌ではなかった。

「千夏さんの恋、応援します」
「なんでよ」

「なんとなく。私も、夫が蒸発するまで、夫が本当に好きだったから。結ばれたのが夢みたいで、夢みたいと思ってるうちに、あっという間に捨てられちゃった。自分が本気で恋をしてたから、本気で恋してる人が、すぐわかるの」

「ああ、そう」

本気の恋。——誰にも言わず、胸のうちに忍ばせているだけのつもりのこの恋が、はたから見たら、バレバレなのか。そう思うと、いたたまれなかった。さくさくとエビフライの衣を噛みながら、いっそう胸がぎゅっとした。

第3話「アイスクリームの淡い夏」


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