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【第1話】オムライスの届け先

はじめに言っておくけど、客さばきでは誰にも負けない自信がある。日曜日の午後七時、客入りのピークを迎える洋食屋『ななかまど』の店内は、たくさんのお客さんでいつもいっぱいになるけれど、私はこなれたスピードで、来店したお客さんを席に案内し、お冷やを運び、注文を聞く、という一連の作業を、だいたい一人でこなしている。

「復唱します。ハンバーグ定食2つ、一つはガーリックソース、もう一つは和風大葉ソース、ミートソーススパゲティ、海鮮ドリア、お子様用の取り皿もつけて。以上でよろしかったですか?」

なめらかに私の口から流れ出た注文の復唱を、家族連れのお客さんは、満足気に聞いている。うちの店では、全部注文は紙に手書きだ。古い店だから、注文用の機械など存在しない。

古くからある学生街の中にある、一軒だけの洋食屋『ななかまど』。私、紙谷(かみや)千夏(ちなつ)はこの店の一人娘として産まれ育ち、現在は学生街の中心にある大学に通いながら、夜はこうして店にウェイトレスとして立っている。高校に入学した十五歳のときからずっと続けている仕事だから、もうやるべきことは身体が全部覚えている。

高校を卒業したら、大学へは行かず、すぐ『ななかまど』で働くつもりだったのだが、この店の店長兼コックの父は、「どうせ同じ町にあるんだから大学ぐらい行っとけ」と学費を出してくれた。それで今は、人生勉強として経営学科に籍を置きつつ、いずれはこの店を継げるように準備をしている。料理の腕はそれほどでもないけど、客さばきがぴしっと決まると、すごく気持ちがいいので、私はここで、ずっとこうして注文聞きをしていたいと思う。

押しも押されぬ看板娘としての器量だって、そこそこいいつもりだ。お客さんの注文を聞いて、厨房の父と母に伝え、出来上がって来た料理を、熱いうちに各席へ運び、レジを打ち、閉店したら父と一緒に売り上げを計算する。それが、私のほぼ毎日のルーティンワークとなっていた。

白地の壁には、等間隔で小さな額に入れて絵が掛けてあり、木目の床は毎日掃き清められている。温かい色の照明が、各テーブル席を照らし、赤と白の大きいギンガムチェックのテーブルクロスが、全体のトーンを統一している。ここは、父と母と私の、三人の城であり、我が家だった。ここを一生、守り続けていくのが、私の望みなのだ。

私はまだ二十歳だけど、一生続けたい「家業」という「天職」をすでに見つけていた。そこに一切、迷いはなかった。

父はよく私に言う。

「千夏があと四、五年して良い年頃になったら、腕のいいコックを、婿として迎えよう。そうして、俺は適当な時期に引退して、千夏にこの店をやろう」

それは、まぎれもなく嬉しい言葉だったのだけれど、私の胸のうちには、もやもやとくすぶる火種があった。

——私には、好きな人がいた。「店を継ぐ」という私の一番大切な夢を、たぶん一緒には叶えてくれない男に、私はずっと前から恋をしていた。
 

客足が落ち着いてきた午後九時半。レジ台横の電話がリリリンと鳴った。
「はい、ななかまどです」

よそいきの少し高めの声で応対した私に、電話の主の男性はくくくっと忍び笑いをもらした。

「丹羽(にわ)ですが。今オムライスの出前頼める?」

私の心臓がはねあがった。丹羽から電話が来たのは一月半ぶりだった。日曜日、現在客は三組。十時に閉店だから、もうラストオーダーの時間はぎりぎりだ。——と、ざっと頭の中で考えると、私は受話器から耳と口を離し、厨房の父に大声で聞いた。

「店長! 今オムライスの出前、いけますか?」

父はフライパンを揺する手を止めて、怒鳴り返してきた。

「どうせこの時間だから丹羽ちゃんだろう。お得意様だ。お前行ってやれ」

うちは父の気に入った常連客にだけ、出前をOKすることがあり、丹羽もその一人だった。

「きっとまた論文が上がって、何も食べてなくて、うちに来るのも億劫なんだろうよ。餓死しないうちに、すぐ届けてやれ」

丹羽は私の大学の院生だった。文学部史学科の博士課程に在籍しているそうだ。専攻について、一度教えてもらったが、江戸時代の浮世絵とか黄表紙とかなんたらかんたらで、私には一切興味のないジャンルだった。一生そんなものに、興味を持たない。私にとって大事なのは、うちの洋食を贔屓するお客さんを増やすこととか、今日いくら売り上げたとか、そういう現実的なことだからだ。

しかし、私が、丹羽その人に興味を持っていないかと言えば、それはまったくの嘘であり、私は丹羽がうちの店に来たり、出前を頼んだりすると、そわそわして仕方なくて、丹羽がろくに食事をとっていないことにいつもやきもきして、胸が痛くなるのだ。 

そんな自分が腹立たしいと同時に、久しぶりに顔を見られるのが、内心嬉しくて仕方ない。ただ、そのことを表には出さないようにしているつもりなので、父はまさか気の強い私が、あのひょろひょろでふわふわした感じの丹羽のことを好きだなんて思ってもいないだろう。

「ほい、千夏。オムライスできたぞ!」

私が丹羽のことを考えている間に、父は目にもとまらぬ早業で、オムライスをもう仕上げていた。私は、それをおかもちの一番下に入れると、ヘルメットを取って、外に出た。スクーターの荷台に、おかもちを取り付けると、座席にまたがってエンジンをふかした。丹羽の住むアパートまでは、運転して6分ほどだ。五月の夜で、春の気配は濃くて、どこかで猫が恋わずらいのように鳴いている声が聞こえた。

スクーターを、アパートの自転車置き場横に停めると、私は深呼吸をして、胸を落ち着かせた。丹羽の電話は、いつもいきなりだからいけない。だいたい、論文に集中すると、奴は外に食事に行くのも面倒になり、買い置きの栄養補助食品などで日々をしのいだあげく、脱稿すると動けないほどになって、うちに出前を頼んでくるのだ。まったく、私よりも六歳も上のくせに、本当に手のかかる男だ。

ドアをノックすると、しばらくして、がちゃりとドアが中から開いた。
「おー、ちなっちゃん、ありがと」

無精ひげがひどい。ふわふわした天然パーマの髪が、今日はくしゃくしゃだ。またいっそうがりがりに痩せたようだ。それでも、好きな男の顔を見てしまうと、もう本当に「参りました」という気分になり、頬に赤みがさしていないか気になる。

私はうつむいて、ぐっとおかもちを差し出した。

「980円になります」
「あー、いま、財布持ってくる。待ってて」

丹羽はそう言って部屋の中に戻ると、ほどなくして戻って来た。千円札が一枚のほかに、まだ何やらまるめた紙を持っている。
「じゃん!」

丹羽が私の目の前で広げた紙を、まじまじと見る。着物を着た、女の人の画(え)。

「……は? 何、これ」
「何これ、って、喜多川歌麿の美人画のレプリカさ。いままで持ってなかった奴を手に入れたんだ。な、美人だろ?」
「丹羽さんは本当に変態ですね」

つい嫉妬から憎まれ口の一つも出てしまう。この丹羽という男は、浮世絵コレクターで、話に聞くところによると、彼の部屋には浮世絵——特に江戸期の美人画のレプリカを百枚以上も収集して持っているらしい。

「このうなじ、本当に綺麗じゃないか」
「はあ、私にはわからないけど。はい、お釣り」

わからないといえば、どうして私自身、この変人の丹羽が好きなのかよくわからなかった。しかし、丹羽のことを好きなのは、実は私だけではないのだ。私と同じ大学に在籍する丹羽だが、キャンパスで、丹羽を見掛けたときには、しばしば取り巻きの女子がひっついている。

丹羽はひどく学業のほうは優秀らしく、修士だか学部生だかの史学科の女の子たちが、「センパイ教えてくださいっ」といつも周りを取り囲んでいるのだった。

それも、この、柔らかい雰囲気の物腰と、端正な顔立ちにあるのだろう。特に、少しだけたれ目なので、なおさら人懐こさを感じてしまう子は多いみたいだ。取り巻きのあんなミーハーな女子たちと、自分は違う。そう思っても、結局丹羽の顔を見ると、つい胸の奥がきゅうとしてしまう。そんな自分を、馬鹿だと思うけれど。

「食べ終わったら、いつもみたいに、ドア前に出しといて。あとで回収しに来るから」

そうそっけなく言うと、丹羽は、

「センキュー」

と、カタコトみたいな変な言い回しで言いながら、おもむろに、
「ちなっちゃんって犬みたいなのか猫みたいなのかわからんな」
と言った。
「どういう意味よ」

「ツンツンしてるところは猫みたいだけど、俺が呼べばすっ飛んで来てくれる。今日も注文から、二十分かからなかった」

——私の気持ち、見透かされてる? と、一瞬で死んじゃいそうなくらい胸が苦しくつまった。

「なんてな、冗談」

ふふっと笑った顔に、また落とされてしまう。モテないはずがない、この男が、本当に憎くて、でもまぎれもなく、私は惚れているのだった。

丹羽は、博士課程を卒業したら、きっと、どこかの大学で教え始めるか、自分の専門を活かせるところに職を得るのだろう。それは、この町でない可能性だって、大きいだろう。私の目の前にも、まっすぐ伸びた一本道があるように、丹羽の前にも、高いところまで昇っていく階段があって、その二つはきっと重ならない。

だから、私は、この思いを丹羽に打ち明けない。甘く、甘く、同時にひどく苦いこの恋を、絶対に丹羽に打ち明けない。

第2話「涙味のエビフライ」


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