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波鏡

ツバメはいつのまにか旅立っていた。
百日紅が咲きはじめた。
蝉の声はもうすっかり最大値に近づいている。
今年もこれといった夏らしい予定はないけれど、海が見たいと思うときがある。
きらきらと波打つ水を。

私の育った町は海から遠く、水辺といえばちいさな池と水路のような川が流れるくらいだった。
高校の頃、必修単位として四キロ遠泳という謎の校外学習があり、学年全員揃って隣県の海に赴いたことがある。
泳げる人も泳げない人も、とりあえず泳ぐ。
一週間ほどの間に平泳ぎを叩き込まれ、最終日に泳ぎ切るというなんともスパルタな合宿だった。
泳ぐことは嫌いではなかったけれど、あのとき私の一生分の水泳熱は満たされてしまったように思う。
以来、海を見たいと思うことはあっても、泳ぎたいと思うことはなくなってしまった。

一度は海の見える街に住んでみたいという気持ちは、魔女のひとり立ちでなくても同意する。
進学で移り住んだ町は、海が目と鼻の先の穏やかなところだった。
ちいさなバイクの前にひらけた太平洋は、最高に贅沢な瞬間を見せてくれた。
いつも同じ海のはずなのに、その色は季節を敏感に映して。

車窓や、景色の隅に海がのぞくたび思う。
あぁやっぱり、海は眺めるに限る。


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