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屑のような時間から生まれるもの。

何から書けばいいかわからない。
そんな気持ちのまま、気づけばもう一月の終わりが見えようとしている。
新たな年を迎えたにもかかわらず、今年の見通しとか、予想図とか、そんなものが一瞬でぐにゃりと歪んだ年始だった。
明るい兆しを浮かべれば浮かべるほど、嘘臭く、空虚に見えてしまう。

それでも、誰にも変わらず、毎日は巡ってくる。

こういう時、いつも思う。
自分の手には実に無力なものしか備わっていないのだと。
誰かの命を救えるわけでもなく、誰かの得たいものを即座に差し出せるわけでもない。

食べる、お風呂に入る、眠る、仕事をする、誰かと笑い合う。
そんな、なくてはならないものがあってはじめて成り立つ価値というものもある。
自分が生み出せるのは所詮、乗っかった価値なのだと。

何ができるかなどという愚問を問うているほど若くもなく、行き着く先は結局のところ、粛々と目の前に積まれたものを越えるだけ。
平常でいられる人が平常を続けることが、いずれ誰かの安定へと繋がっていく。
そう納得せざるを得ない。

もし誰かが瓦礫のひとかけらから、愛しい誰かの面影を思い出すための一片を拾い上げていたら、そこに新たな命を吹き込むことはできるかもしれない。
もし、大切な誰かがいつも手にしていたものの破片を見つけていたとしたら、次の形への手を貸すことはできるかもしれない。
けれど、そんな声を上げることすらまだ許される時ではないような気がして。
もどかしい。

時間が足りないなと、よく思う。
しかし実際、できない理由は時間ではないことが多い。
心のどこかで、あまり気の進まないことを、時間のせいにしていたり。
要らぬ世話を焼いてくる誰かの声のせいにしていたり。
目標や抱負なんてものを仰々しく立てる性質ではないけれど、今年は時間をかき集めたいと思う。
できる限り。
塵のような時間でも、日々積み重なれば、そこそこ使える量にはなるかもしれない。
時間は誰のものでもない。
自分のもの。




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