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オレゴン州マドラスの人種問題の話

2016年のアメリカ大統領選をきっかけに、アメリカの田舎に暮らす労働者層や中間層を取り上げる記事を多く目にするようになりました。私にとってのアメリカの田舎を考える起点は16歳の時、1984-85年の1年間ホームステイしたオレゴン州の田舎町、マドラスでして、その頃のことをずいぶん考えることが増え、つらつらと書いて3回めになります。(第1回)(第2回

さて、1984年のマドラスは、きほん、白人の町でした。町の中では人種が問題になる印象はありませんでした。まちの反対側にあるWong’s という中華料理店は中国系のファミリーがやってましたが、他は白人以外、まずみかけませんでした。

学校には、黒人は一人だけ、アジア系はその中華料理んちの女の子とヴェトナム難民だった男の子の二人だけ。ヒスパニックはいませんでした。

マドラスの当時の人口は2250人でしたが、高校には日本の中3から高3にあたる4学年で600人くらいの生徒がいました。人口の割に生徒数が多いのは、周辺の集落から通ってくる子たちがいたからです。

町の外からくる子たちの最大グループは Warm Springs というネイティブ・アメリカン、昔でいうインディアンの居留地の子たちでした。これが全校生徒600人中100人以上だったのではないでしょうか。白人対ネイティブ・アメリカンの構図の問題をいくつも学校の中で見ました。

ネイティブ・アメリカンはモンゴロイド系で、見た目が白人とはっきり違います。服装や話し方は、私にはマドラスの白人の子たちと変わらないように見えました。校内で時々、男子のケンカがあるのですが、白人対ネイティブ・アメリカンの殴り合いが一度ならずあったのを覚えています。白人同士、ネイティブ・アメリカン同士もあったのかもしれませんが、記憶にない。

今、当時のことを思い出して愕然とするのは、ケンカのことよりも、私にネイティブ・アメリカンの子とちゃんと話した記憶がないことです。写真を見返しても、一緒に写っているのはマドラスの白人の子たちばかり。授業中も自分の記録に写真を撮ったのですが、ネイティブ・アメリカンの子がほぼ写ってない。

同級生で妊娠出産しちゃった女の子のお相手がネイティブ・アメリカンだったのですが、彼女曰く、お母さんがそのことで激怒して、だったら赤ちゃん生まれても面倒見ないって言われた、と泣いてました。中絶しないことにも驚いたし、お母さんが怒った理由が妊娠よりもネイティブ・アメリカンの男の子とつき合ったことだったのも驚いた。

The indians are lazy. あいつら、怠け者だから。という言葉をことあるごとに、聞きました。決まった集合時間にみんなが揃わないと it’s indian time (インディアンの時間感覚)と誰かが必ず言う。集合するのは全員白人でも、it’s indian time. 今思えば、すごいステレオタイプですよね。言ってたのは、周りの大人です。当然、高校生の私たちも真似してました。ネイティブ・アメリカンの居留地では補助金が出る、ともききました。(wikipediaの記述とも合致します)だから、あいつら働かない。Lazyだ、と。

学校以外では、ネイティブ・アメリカンを町で見かけることはありませんでした。マドラスにあった唯一のスーパーSafewayや、ファストフードのDairy Queen やTaco Bell の店員さんは、みんな白人。アメリカで人種が混在している町ですと、そうした仕事は比較的黒人やヒスパニックの人が就いているような印象ですが、当時のマドラスは違いました。いま、wikipedia で見ると、Warm Springsの所得水準はMadrasより低いようです。だからといって、こちらに出稼ぎ?に来てるわけではなかったみたいです。

ひとつ、はっきり覚えていることがあります。学校の授業で、日本について発表する機会がありました。質疑応答の時間になると、教室にいたネイティブ・アメリカンの男子が手を挙げて「日本に人種差別はありますか?」と質問しました。私は、ちょっと答えに詰まってから「日本は単一民族だから、人種問題は、ないです。」と答えました。その男子は、アメリカには人種問題がある、他の国はどうなのかなと思って、とコメントし、なんとなく先生がそれを取りなしつつ授業を次に進めていきました。自分が何か間違ったことを言った気がして、でもその場ではよく分からず、おそらく家に帰ってからか、数日たってからか、日本にも在日韓国/朝鮮人の問題、アイヌの問題、被差別部落の問題がある、そのように中高で習ってきたことを思い出しました。思い出して、何となく後味悪かったけど、そのままにしてしまった。16歳の私は、人種問題を自分の問題として考えたことがまったくなかった、薄っぺらな知識しかなかったんですね。今もあやしいものですが。

さて、マドラスのように娯楽が少ない町では、高校のスポーツ、つまり他校との試合を観戦するのがとても人気でした。ホームゲームは保護者以外にも町のいろんな人が応援に来ます。その年、マドラス高校の女子バスケが強くて、州大会でもかなり上位までいきました。主軸は、ネイティブ・アメリカンの子。みんな彼女のファンで、心から彼女のプレーを讃えていました。ちょうどシーズン後半にあたる時期にプロム(フォーマルのダンスパーティ)があり、彼女はProm Queen 、言わば「ミス・マドラス高校」にも選ばれたんです。周りの白人の大人たちが日頃見せるネイティブ・アメリカン全般に対する差別的な態度と、彼女を応援し祝福しスクールカーストのトップに祭り上げることが、なんだか矛盾する気はしたものの、当時の私はそれ以上の問題意識を持つことなく、それを周りに聞いてみることもしませんでした。

ネイティブ・アメリカンの居留地は、アメリカの建国時から続くネイティブ・アメリカンに対する非人道的な政策の帰結と言えます。高校のアメリカ史の授業では、チェロキー族を強制移住させたTrail of Tears の単元があったのは覚えていますが、それを機に、ネイティブ・アメリカンの生徒を交えてディスカッションするような授業の記憶はありません。マドラス高校の先生たちにとっても扱いづらいテーマだったのか、私の問題意識が低いために忘れてしまったのか。

ここまでお読み頂いて、ありがとうございます。もしかしたら気を悪くされるような記述があったかもしれません。そうだとしたら、申訳ありません。

(2016年11月21日にFBに投稿したものを転載しました。)

(picture by the Confederated Tribes of Warm Springs)

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