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文のレイアウトと身体感覚 (「夢見る帝国図書館」) | きのう、なに読んだ?

「夢見る帝国図書館」(中島京子)読了。夕食の片付けも終わったところで、前日の続きを読み始めたら止まらなくなり、深夜まで一気に読んじゃった。

じゃっかんネタバレになりますが、後半に、登場人物の一人が書いた作品が出てくる。これが、1万字くらいあって、ずっと読点(「、」)で文節がつながっていて、改行もなく、区点(「。」)は最後にしかない。

この部分に差し掛かり、「うわ、区点がないのか…」と気づいた瞬間、なんだか息苦しく感じて怖くなり、それ以上読めなくなった。お話の続きは知りたい。でも苦しい。私は閉所恐怖症の気があるのだけど、それと同じタイプの、「うわ、閉じ込められて自分の意志では出られない」とパニックになりそうなのを理性でなんとか抑えてる感覚に近い。

ふと気がついて、音読するように、頭の中で読み上げてみた。読点ごとに間を置いて。そうすると、歌舞伎の長いセリフのような、あるいは詩のような、独特の節回しが感じられ、息苦しさを感じなくなった。「知らざあ言って聞かせやしょう…」みたいな。

この文章がもし、読点が打たれるのではなく、詩のように文節ごとに改行されていたら、息苦しさは感じなかったかもしれない。

文章の内容や文法的な構造というより、視覚的な「形」が息苦しさを引き起こしたのかな。視覚的に「区切りがない」ことが息苦しさを呼び起こし、聴覚的に「区切る」ことで楽になった。

似たような身体感覚を、聴覚から感じたこともある。数年前に森美術館にあった展示のひとつで、ある部屋で一定の音がずーーーっと鳴っているというインスタレーションだった。弦楽器で弾いたAの音を処理して抑揚や揺れをなくしたような音で、開場している時間中ずっと流し続けているらしい。その部屋の中と、その部屋の近くでは、その音から逃れられない。隣の部屋で別の作品を見ていたら、その音が聴こえてきた。だんだん、閉じ込められたような恐怖感が出てきて、足早に、その音の聞こえない部屋まで逃げたのだった。あの部屋のスタッフとして何時間もそこにいる人たちの気が知れなかった。

「夢見る帝国図書館」自体は、ユーモアあり謎解きあり人情あり、歴史や人間の叡智とアホさを考えさせられるテーマあり、それらをテンポよく構成している明るい小説です。私が取り上げた箇所も、恐怖心を煽ろうと著者が意図したようには思えず、私がたまたまそう感じただけだと思います。

全体として、すごくエンジョイできた小説でした。鴻巣友季子さんによる書評が私の読後感に近くて、素敵です。後半は著者のテンポにのせられて読み急いでしまったから、改めてもうちょっとゆっくり咀嚼しながら再読したいと思ってます。

今日は、以上です。ごきげんよう。

(photo by Miguel)

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