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不機嫌のお相手、一筋縄ではいかない

不機嫌がなぜいけないか。『ピカソは本当に偉いのか?』に書いてあった」の記事に、たくさん感想をいただきました。ツイッターはてブfacebookのコメント、ありがとうございます。周りの不機嫌に悩まされるひと、自分の不機嫌にはっとするひと、たくさんいらっしゃいました。ゲーテの言葉も教えていただきました。「人間の最大の罪は不機嫌である。」と。

先の記事の最後に「未成熟な人格に自分が支配されるのは嫌いだし、周りが支配されているのを見るのも、本当にいやです。自由と尊重を奪うから」と書いたものの、じっさい不機嫌なひとが身近にいて逃げられない場合はどうしたらいいのよ、と考え続けてきました。考え続けてきましたが、一筋縄ではいかないですよね。

まず、不機嫌な本人は、不機嫌がいけないことだとなかなか気づきません。未成熟な人格とはつまり、自分のことばかり考えて周囲の気持ちが分からない、自分が所属する家族、チーム、組織など全体のことなど考えも及ばないひとです。あからさまに不機嫌になることで、周りから注目され、気を遣ってもらえるのですから、やめる理由はありません。「不機嫌は信頼を損なう、結局損をする」と周りは思っていても、通じません。本人には周りは見えていないのですから。本人の不機嫌ゆえに周りとの距離ができてしまっても、それは周りのせいで自分は悪くない、と考えてしまうのです。

さらに、「不機嫌力」が成功を招くように見える状況があり、複雑です。「ピカソは本当に偉いのか?」によると、ピカソは「不機嫌力」によって画商をコントロールし、同時代の他の画家をはるかに凌駕する経済力と社会的地位を手に入れていました。もっと身近な自分の経験でも、そうした例がありました。かつての職場で、「不機嫌力」で部下をコントロールする上司が率いるチームの業績がけっこうよく、本社の覚えめでたかった、ということがあったのです。本社も、その上司の態度は問題がないわけではないが、業績を思うととがめるほどでもない、という判断だったようでした。部下たちはたまったものじゃありませんでしたが…。

そうなると、私たちは自衛策をとるしかなさそうです。それは例えば、いつも不機嫌なひととは、なるべくつき合わず距離をおく、というようなことです。でも、職場や生活を共にする相手だと、なかなかそうもいきません。私の留学時代、すぐ不機嫌になってキレる同級生がいました。何かあると5歳児のようにわあわあとまくしたてながら怒鳴り散らし、文字通りむくれて口をきかなくなるのです。チームで一緒に課題を完成させたいのですが、ミーティングのたびにキレてむくれる。私たちチームメンバーは、だんだんスルーするようになりました。一通りかんしゃくがおさまるまで待ち、「…さて…」とその人を無視して話を進める。その人がむくれてだんまりを決めている間が勝負、という感じでした。その人とチームを組まされた半年間、かなり消耗しました。

職場や生活を共にする相手が「不機嫌さん」だったら、私たちはどうしたらいいのでしょう。私はまだまだ模索中で、うまくいく方法は見つかっていません。とりあえず、いま知っているなかでヒントになりそうだな、と思っている考え方を2つ、備忘録のように書いておきます。ひとつはアドラー心理学の「課題の分離」の考え方。たとえば、こんな言葉を見つけました。

妻の機嫌が悪いときに、夫が責任を感じてはいけない。不機嫌でいるか上機嫌でいるかは、妻の課題。その課題を勝手に背負うから苦しいのだ。

もうひとつは、「マインドフルネス」に通じる上座部仏教における瞑想のひとつ、「慈悲の瞑想」です。自分の幸せ、周りの幸せ、そして嫌いな人の幸せを願いながら瞑想するというものだそうです。

どちらも簡単ではなさそう。不機嫌をめぐる葛藤は、まだまだ続きそうです。

(photo by girl_onthe_les)

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