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アメリカの高校生は授業で「文学」をたくさん読まされる(Beloved) | きのう、なに読んだ?

2019年8月5日、トニ・モリスンが亡くなった。1993年にノーベル文学賞を受賞した、アメリカの作家だ。黒人を主人公にした作品が多い。

トニ・モリスンは、小説のほかにもエッセイや詩も書き、人種問題、人権問題について積極的に発信してきた。その発言は知性と良心とあたたかさにあふれ、「ならぬことは、ならぬものです」という強さも感じさせた。たとえば、こちら。

In this country American means white. Everybody else has to hyphenate.
この国で「アメリカ人」とは白人を指す。それ以外はみんな(「●●系」と)但し書きをつけないといけない。

アメリカでは「巨星落つ」というトーンで、追悼記事が続いている。

私はトニ・モリスンのインタビューやエッセイは少し読んだことはあるが、小説は未読だった。訃報を機に、代表作 "Beloved" (ビラヴド)を読み始めた。ピュリッツァー賞受賞作で、映画化もされている。

読み始めたところだけど、うわー、こういうの初めてだわー、というびっくり感がある。主人公や場面の説明がふわっとしていて、夢の中を探っていく感じ。現実と、妄想と、オカルトがないまぜになっている。文がわざとぶつ切りになっていて、分かりにくいところもある。なのに、ぐいぐい引き込まれる。え、なに、どゆこと?と混乱するのと、何が起きているか理解できることの、ぎりぎりの線をずっとたどっている感じ。

私の読解力がもうちょっとあれば、違う感想になるのかもしれないけれど。

トニ・モリスンの小説を読もうと思ったとき、どれから読んだらいいんだろう、と英文記事を調べていった。その中で、「トニ・モリスンは高校の授業で読んだ」というコメントを複数見た。Belovedのほか, 処女作の The Bluest Eye(「青い眼がほしい」)、Song of Solomon(「ソロモンの歌」) がよく挙がっていた。私にとってもけっこう難しく感じる小説だけど、高校生が読むのね…と感心。同時に、学校の授業だから読みこなせるのかも、と思った。

というのは、アメリカの高校の国語の授業では、小説をまる1冊取り上げるのが標準的な教え方だから。

昔の話になるけれど、私は高校生のとき、1年間、アメリカに交換留学した。行き先はオレゴン州の人口2500人の田舎町。その時の経験は、こちらに詳しく書いた。

町に唯一の高校は、日本でいう普通高校、工業高校、商業高校のカリキュラムが全部あって、私も工業系では「印刷」の授業をとって活版印刷やシルクスクリーンの技術を覚えたり、商業系ではタイプライティングの授業を履修した。同級生で4年制大学を卒業した人は数えるほどしかいない。

そんな田舎の高校の必修の国語の授業で、課題図書となり、私がペーパーバックで実際に読んだ小説は、覚えているだけでも
The Scarlet Letter「緋文字」
The Adventures of Huckleberry Finn「ハックルベリー・フィンの冒険」
Grapes of Wrath「怒りの葡萄」
Old Man and the Sea「老人と海」
と、けっこうちゃんとしたラインアップ。日本の高校では、文学作品の一部を抜粋して教科書に掲載し、それを教材とすることが多い。それとは違って、本まるごとを教材とし、授業は毎日あって、ちょっとずつ読み進めては宿題のプリントと授業中のディスカッションで理解を深めた。「緋文字」なんて文体も古いし、授業でもなければとても読み通せなかった。Adultry という言葉は、このとき覚えた。

あんなど田舎の底辺校でも、必修の授業で文学作品をきちんと読ませていた。

現在のアメリカの学習共通基準 (Common Core Standards) では、高校卒業時にはこのリストの作品を読みこなせることを目指している。シェイクスピア「ハムレット」、ドストエフスキー「罪と罰」、フィッツジェラレルド「グレート・ギャッツビー」などに並んで、トニ・モリスン作品はBlue Eyes(青い眼がほしい)がリストに入っていた。

生徒の立場からすると、ちゃんと読むのは骨が折れるから、Cliffs Notes などの要約&解説のあんちょこ集にもお世話になる。

アメリカでは、本の売上、なかでも紙の本の売上が伸びているというデータがある。それは、こうした教育とも無縁ではないだろう。

日本の高校の国語の教科書はいまも、短編のコレクションと、長い作品の一部を引用するので成り立っている。学習指導要領をさっと見た限りでは、現行のものには必修科目にかろうじて「読書をして考えを深める」という項目があり、選択科目である現代文Bに「読書指導」がある。昨年発表され2022年から実施される学習指導要領では、本1冊の長い作品を読む機会になりそうなカリキュラムは必修科目からはなくなっているようだ。文学を「趣味」と位置づけ、学校では「役に立つこと」を教える、と考えているように見える。新学習指導要領については、一部では批判の声(これとか、これとか)もあるようだ。

アメリカの高校の国語で小説をまるっと読ませる目的は、何か。公式見解は見つけられなかったが、たとえば本(文学に限らず)を読む力をつけること、自分に合った本を選ぶ力をつけること、そして難しそうな本でも読んでみようと思えるようにすることだという先生がいる。人間理解を深めることを目的に上げる人もいる。だから授業では敢えて重い作品をとりあげるのだと。アメリカの大学では大量に本を読まされるため、高校のうちから読書体力をつけさせたいという目的もあるだろう。いずれにしろ、本を読む力を、ライフスキルと捉えているのだと思う。

今も、高校でしっかりした文学作品を読み込むことを必修で教えるアメリカのような国もあれば、もともとあまり教えてなくてさらに減らそうとしている日本のような国もある。うちの高校生の息子の教科書に、こんな1ページがあった。

いま、日本のメディアを見ていると、子どものうちからプログラミングや英語や起業を学ぶことがステキだとされる一方で、大人は「教養」「リベラル・アーツ」をクイックに身につけたいと考えているような印象だ。「人生100年時代」だから「学び続ける力が大事」などというキーワードも飛び交っている。多くの人が高校生までのうちに、本(文学もそれ以外も)を読む力をつけることが、一見遠回りなようで、長期的にはすごく大切なライフスキルなんじゃないか、という気がしてきた。

私もこれまで、しっかりした文学作品はたいして読んでない。ノンフィクション偏重だ。いい機会をトニ・モリスンに頂いたと思って、まずは Beloved と、引き続き格闘しよう。

今日は、以上です。ごきげんよう。

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