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「女に生まれてモヤッてる!」 : システムの内側からバグを見つける

「女に生まれてモヤってる!」(ジェーン・スー、中野信子)読了。凄く共感したというのとはちょっと違うし、「モヤモヤする」「モヤる」という言い回しも好まないのだけれど、自分の自分に対する無意識バイアスにどうやって気がつき、修正していくか、という考え方が参考になった。

まず前書きで、社会規範を「システム」、女性であるが故にかかえる課題を「バグ」に例えたのが面白い。バグなんだから直せそうな感じがする。感情的にならずに、淡々と。システムの問題だと設定することで、無駄に女性 vs 男性の構図、あるいは世代間の対立構造に持ち込まずに済む。女性だけでなく男性も、若者も高齢者も、このシステムに組み込まれているのだから。
どういうバグか、というと、たとえばこういうこと。

女らしくない自分は不完全だから、自分に自信が持てない。自分に自信が持てないのはつらい。だから「女らしさ」を手に入れて自信をつけよう。  一見、至極まっとうな考え方ですが、これは罠です。なぜなら本章にもあるように、自信満々な女は女らしくないとみなされるから。(位置: 2,045)

システムとバグ、といきなり言われてもピンと来ないかもしれない。私も途中まで、このたとえの意義に気づかずにいた。私がハッと腹落ちしたのは、読みながら別の本で見た事例を思い出したから。それは、メリンダ・ゲイツの著書にあったエピソードだ。インドのある女子高校生が、空手の国際大会出場のため、初めてインドを出て日本を訪れた。帰国して学校の先生や友達に「みんな、私にお辞儀をしてくれた!」とすっかり感激した様子で報告したそうだ。その理由は、日本の風習が不思議だったから、ではない。その女の子は最下層のカースト出身で、彼女の学校はそうした女の子たちのために作られた学校だったから。インドでは生まれてからずっと、虫けらの同然の扱いを受けてきたけれど、世界には自分を一人の人間として遇してくれる社会がある。自分が虐げられて来たのは、自分に落ち度があるからではなく、社会の仕組みのせいだったんだ。そう気づけて、そのことを友達に教えた、という話だった。


システムとバグ、という構造を説明した前書きに続く前半3章は、ジェーン・スーさんと中野信子さんの個人的な経験談、つまり「バグ報告」。後半の4章から「バグ」を含むシステムそのものの話に進んでいく。

システムの中に組み込まれていながら、システムの存在に気づき、さらにバグに気がつくって、実は相当難しい。映画「マトリクス」で機械に繋がれている人間が自力で「繋がれている」と気づけないようなもの。上で書いたインドの女子高校生が、システムの外(海外)に出かけて初めてシステムの存在に気づいたように、言われただけでは「え?システム?バグ?」「いやいや、これって自然ですよね」と思いたくなる。ジェーン・スーさんは、どうやって気づいたのか。

(それは)他の女たちと話すことでした。「あるある!」「わかる!」となる人数が多ければ多いほど、それは個人の問題ではない傾向にあります。(位置: 2,078)

システムにどっぷり浸かっている私は、「あるある!」「わかる!」となる人数が多いほど「ああ、私だけじゃなかった」と安心し、溜飲を下げて、そこで止まってました…。そういうシステムだとぼんやり認識してたけど、「バグ」だっていう可能性には思い至らなかったなあ。ジェーン・スーさんの俯瞰力たるや。

お相手の中野信子さんも、脳科学、生物学、心理学などから事例をどんどん提示し、システムの由来について、デバッグの可能性について、切れ味よく仮説を繰り出す。

10 代と 40 代の脳って全然違うんだよ。(位置: 1,906)
魚類の繁殖戦略は面白いよ。(位置: 2,197)
鳥の世界もすごいよ。(位置: 2,206)
ただ、どんな種でも有性生殖はすごくコストが掛かるんですよ。(位置: 2,216)

例えば、こんなエピソードも。

たとえば、アホウドリのメスは3分の1がレズビアンなんですよ。その3分の1の同性ペアがどういう風に子どもを作るかっていうと、交尾だけはオスとする。で、またペアのメスのところに帰ってきて、メス同士のペアで子どもを育てる。全体の3分の1もそうなっているというのは、なかなかインパクトがあるね。(位置: 2,233)

中野さんは、さらに「出産、子育てが趣味化する未来」が来る可能性についても、ジェーン・スーさんと語り合い、現在の女性たちの感じる課題を相対化してくれる。

どのようなテーマであれ、他の集団ではどうか(空間軸)と、歴史的な経緯はどうか(時間軸)を見ていくと、課題を理解しやすい。課題を相対化するというか、いい具合に距離を取って落ち着いて扱えるようになる。4章以降を読みながら、私も自分なりの軸を思い浮かべていた。ひとつは、アメリカ人女性がベトナムの少数民族のおばあさんに、結婚についてあれこれ尋ねた話(こちらの本で読みました)。私たちが、例えば「彼は良い新宿区民でしたか」と聞かれてもピンとこないのと同じように、この少数民族では「良いダンナさん(奥さん)だったか」と聞かれてもピンと来ないという。彼らは生活のほとんどを村の女性同士(あるいは男性同士)で過ごし、「妻」「夫」という役割のイメージがあまりないのだそうだ。そういう社会があることを知ると、「女らしくない」「妻の役割」「母親だろう、それくらいやれよ」といった言葉は、案外、底が浅いのかも、と疑えるようになる。

ベトナムの少数民族の話が空間軸の一例とするなら、時間軸の例として、日本で「手料理は母/妻の家族への愛情表現」という考えがいつどのように生まれたか、という問題をあげたい。日本の女性と家事分担に関する論考集で読んだと思うが、その本が思い出せない。記憶が頼りなので間違っている可能性は十分にあるけれど、たしか、まず大正時代に女性向けの雑誌が盛んに出版され、当時の最新科学であった栄養学がよく取り上げられた。その後戦争が始まり、女性誌というメディアを活用して兵隊さんになる男性に栄養を、という文脈が生まれ、さらに食糧事情が悪化して「十分な栄養」がうたいづらくなると「愛情をこめる」という精神論に転化していった…という流れだったと思う。手料理=愛情の図式が、精神論に頼るしかない戦争末期の症状のひとつだったと思うと、ちょっと「敵の正体見たり!」という気持ちになった。(もし文献をご存知でしたら、ぜひコメントください。)

ここまで、女性からの視点でばかり書いてきたけれど、この「システム」には男性も入っており、バグはとうぜん、男性にも悪影響を及ぼしている。本書は男性の課題を特に取り上げて議論してはいないけれど、最後のまとめは男女問わず、「バグ出ししようよ」と呼びかけているように感じた。

誰かに選ばれるのを待たなくていいんです。私には価値があると、誰かに証明し続けなくていいんです。意味のない我慢を、自分に強いなくてもいいんです。自分の欲望をなめるな。(位置: 2,706)
私たちは、迷い、間違える。正しい答えを選べない。何が正しいのかすらわからない。でもそれは私たちが不完全だからではない。論理的に正しい最適解を迅速に選べる個体が優秀なのではない。迷い、間違え、正しい答えを選べない個体が多数派なのは、そういう個体がより多く生き残ったからだ。すみやかに最適解を選ぶ個体が少数派なのは、彼らの戦略が、逆接的だが最適ではないからだ。迷い、選べないというその機能こそが、残るために何らかの理由で必要とされたのだ。(略)一見、想定外であったり、失敗のように見える結果の中に、新しい喜びや未来がある。それを見つけ、選んだ答えを正解にしてきたのが、私たち人類の生存戦略ではないか。(位置: 2,748)

今日は、以上です。ごきげんよう。

(photo by Wendelin Jacober)

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