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「言ったのに、なんでできないの?」の幻想 | きのう、なに読んだ?

「ちゃんと言ったのに、なんでできないの?」

よく大人が子どもを叱るときに聞くセリフ。

耳にするたび、「言ったからって出来るわけ、ないじゃん」と悪態をつく「リトルしのだ」が心の中に立ち上がる。人に何か伝えたら、その人が理解をするとか、言った通りの行動ができるようになるなんて、フィクションもいいところだ。機械じゃあるまいし。

「伝えれば、言うことをきくはず」という前提は、例えば交通標語とか、電車のアナウンスにも感じる。言うことをきくはずなのに効果が見えないからか、アナウンスがどんどん多く、長くなる。

「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」とか言ってるだけのうちは、飲酒運転事故は減らなかった。罰金を大幅増額し取り締まりを強化したら、事故は減った。そして標語はあまり見なくなった。

むかし留学してた時、仲良しだったフランス人が「イギリスの地下鉄、うるさすぎ。ドアが閉まるたびに "Mind the doors, please. Mind the doors."(閉まる扉にご注意ください)っていちいち言うの!パリの地下鉄は、無言でさっぱりしてるよ」ってプリプリ文句を言ってた。東京に来たら、気が狂うよきっと、って笑いながら教えてあげた。

若い頃はけっこうあちこち海外旅行した。ほとんどの国では標語やアナウンスのたぐいが少なめで、帰国すると「日本、いちいちうるさいよ…」ってちょっと思ってた。でも1カ国だけ、入国するなり、日本と同じくらい標語があちこちに掲示されていて「おお…」となった国がある。中華人民共和国だ。

こんなことを芋づる式に思い出したのは、Why books don't work というブログ記事を読んだのがきっかけだ。「本だとうまく行かない理由」というニュアンスのタイトル。

記事の主張はだいたいこんな感じ。

「本」というものが、当たり前になりすぎている。ノンフィクションに限って言えば、本は「人は、文を読んで知識を吸収する」ことを暗黙の前提においている。本は、言葉が連なり文になりページになり章になる、という構造なんだけど、この構造に、暗黙の前提ががっちり組み込まれている。

でも、この暗黙の前提は、人が学ぶという認知モデルからすると、残念ながら、うまく行ってないのだ。

例えば講義というフォーマットは、それを下支えする有効な認知モデルがない。講義の前提は「講師は考えを言葉で伝える。聴衆はそれを聞く。すると聴衆は理解する」という間違った認知モデルだ。これを「伝達主義」と呼んでおこう。

ノンフィクションの本も、同じ「伝達主義」に則っている。

もちろん、ノンフィクションを読んで本当に学べる人もいる。この人たちは読みながら「これで思い出したけど…」「この主張はあれとは矛盾するなあ…」「この論点はよく理解できない…」など自問自答を重ねている。読んでいる最中に内容を要約し、意味合いを抽出し、分析している。これは学習の科学において「メタ認知」と呼ばれるスキルで、できない人が多いし、できる人にとっても負担が大きいことが、研究で知られている。つまり、本を読んで学べる人は、ごく少数ということ。

例えば大学の授業(少人数形式)が前提とする認知モデルは、本とは異なる。本を読むだけでなく、シラバス、授業中の議論やレポート、先生の個別指導などを通して、メタ認知の負担を軽減している。また、学びにはメタ認知だけでなく人間関係や感情的なサポートも必要だ、という前提がモデルに織り込まれている。授業のほうが本より、知識を獲得するには効果的だ。

だとしたら、「本」というフォーマットを、もっと効果的になるようアップデートするにはどうしたらいいか。

この記事の著者は、ソフトウェアエンジニアで、Khan Academy から独立したらしい。上の要約は記事の前半部分で、後半には著者の考える本のアップデートの方向性が示されている。それを実験的に実装したコンテンツ "Quantum Country"へのリンクもあった。量子計算を分かりやすく説明したそうなんだけど、線形代数の知識もアヤシイ私は、まだ読んでないです。

私はノンフィクションが好きで、よく読んでるけれど、この記事の主張はよく分かる。もし著者に会って話したら「ちゃんと書いたのに、なんで分からないの?」って言われちゃうかも。

今日は、以上です。ごきげんよう。

(photo by 【J】

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