小説★鹿せんべいの話

 視界に移るのは、茶色と白色。雑木林の緑。コンクリートの灰色。ドアの軋むような音……鹿の鳴き声があちこちから聞こえる。

 そんな奈良の、日本一有名なお寺の一角。

「せんべい、せんべい、いりませんかー」

 私は売り子をしていた。

 仕事は簡単である。鹿せんべいを売って、お金をもらう。終わった後はおみやげ屋さんのおばさんに報告して、おしまい。ときどき寄ってくる鹿を撃退するのも仕事の一つ。それだけだ。

 陳列もレジ打ちも必要ない。いや、一万円札を出されたり、百円玉が足りなくなって困ることもあるけれど、それもたまにあるだけ。

「楽な仕事だなぁ……」

 つい独り言を言ってしまう。以前やっていたコンビニのバイトとは大違いだ。

「それでは、バスに乗りますよー! ついてきて下さい!」

「次は春日大社に行くんだっけ?」

「お母さん、あの木刀ほしいよ! 買いたい!」

 去っていくツアー客をぼんやり見つめる。団体客が通り過ぎると、暇な時間の始まりだ。すぐ他の団体が来て賑やかになるのだけれど、一カ所に留まったまま、というのはキツい。ましてや、勤務中にスマホをいじるのは厳禁。

 だから、鹿を見つめる。最初は鹿なんて見ても仕方ない、と思っていたけれど、よくよく観察すると、けっこう可愛い生き物だと気づいた。

 くりっとした丸い目はハムスターを連想させ、短いけれどたまに動くしっぽは子犬を思わせる。ぼーっとしている姿を見るのは、お寺の雰囲気と相まって、心が和むものを感じさせる。

 ただし、そんな和やかな雰囲気を持つ鹿も、鹿せんべいを食べる時だけはパワーを出す。

 のそっと寝そべって、テコでも動かない気を出していた鹿も起き上がり、俊敏な動きで鹿せんべいを目指す。食物を求める野生の気迫がそこにあるだ。その姿に大抵の人は驚き、焦り、鹿せんべいを落とす。地面に落ちた煎餅に群がっていく鹿。

 そんな光景を、三日間で十回は見た。

「……え?」

 いきなり五百円玉を突き出された。見ると、金髪の人がいた。目は青く、鼻は高い。外国の人だった。鹿に気を取られるあまり、側まで来たことに気づかなかった。

 Hi! でも何でもいいから、声をかけてくれればよかったのに。と、心の中で愚痴りつつも、表情は笑顔を浮かべる。

「はい、鹿せんべいですね。お一つですか?」

 問うと、彼はぶっきらぼうに頷いた。

「二百円になります。……三百円、お返ししますね」

 三百円と鹿せんべいを受け取った彼は、そこで初めて笑顔を浮かべた。白い歯を見せた、嬉しそうな笑顔だ。だが、一言も喋ることなく、ずっと無言のままだった。

「……ふぅ」

 お金を受け取ってお釣りを渡しただけの関係だが、彼には少し近寄り難さを感じてしまった。できればもう来ないでほしい、とすら思っていた。

 三日間の仕事の中で、外国人のお客さんは初めて見た。
日常生活で出会うこともほとんどない。日本人とはどこが違うのだろうか。

 そう思い、こっそり彼の姿を目で追う。彼はすぐ近くのベンチに腰を下ろした。封のテープを開けると、たちまち匂いを嗅ぎつけた鹿たちが寄ってくる。

 次の瞬間、私は小さく息を飲んだ。

 ばりばりと、小気味良い音が響く。きっと香ばしく焼け、鹿を味覚・食感ともに楽しませるはずの鹿せんべいを。

 外国人のお客さんが食べていた。

 鹿せんべいを食べる人。そういった人がいると噂には聞いていたが、まさか本当に存在しているとは。

 次からは、これは鹿が食べるものですよ、と教えてあげよう。日本語が通じそうな人に。

 こっそり決意する。そして前に向き直った途端、凍り付いた。さっきの彼が、こちらへ近づいてくる。カバンの中から財布を抜き出すと、小銭を取り出す。どう見ても、もう一袋買う気である。そこまで美味しかったのだろうか、鹿せんべい。

 まさかこんなに早く『次』が来るとは思っていなかった。どうすればいいのか決められない私の前に、百円玉二枚が差し出される。

「え、えぇっと……」

 私は口ごもり、指をもじもじさせる。

 彼の喋る声は聞いていない。アメリカ人なのかイギリス人なのかフランス人なのかドイツ人なのかも分からない。でも、ずっと黙っていたということは、日本語は話せないだろう。

 どうやって伝えればいいのか。なけなしの英語をかき集めようとするが、混乱していてうまく思い出せない。「これは食べ物ではありません」といった、小学生レベルの文法すら頭から消えている。

 いっそ、このまま何も言わない方がいいのか。少なくとも、激しくお腹を壊すことはないだろう。日本のお寺で買ったお菓子、で終わるはずだ。今伝えなくとも、何も変わらない。

 そう思いこもうとするが、やはり伝えなくては、という妙な意地が生まれていた。せっかく奈良まで来て、お金を出して鹿せんべいを買っているのだから、鹿ともっと触れ合ってほしい。

「あのー……」

 とんとん、とせんべいを指で叩く。お兄さんの目が、せんべいを見る。私はせんべいを両手で持ち、口へ運ぶふりをした。続いて両手で大きくバツ。次に鹿を指してから、せんべいを突き出す。今度は大きくマルを作った。

「オ、オーケイ?」

 英語で駄目押し。日本語丸出しの発音だったせいか、彼は眉をハの字に曲げた。鹿せんべいを受け取った後も、しきりに首を傾げていた。

 伝わらなかっただろうか。不安な私の目の前で、彼は鹿せんべいを、自分ではなく鹿に向かって突き出した。たちまち鹿が群がり、我先にとかじり始める。

「ワオ!」

 驚き半分、楽しさ半分の声。後はよく聞き取れない、英語みたいな感動の台詞。

 とりあえずは伝わったことに安心しながら、私は本日三回目の鹿せんべいを彼に渡した。

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