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道草』を読む(2) ──批判する〈語り手〉

『道草』冒頭は「遠い所」から帰った健三の思いをたどっている。

《彼の身体には新らしく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着していた。彼はそれを忌んだ。一日も早くその臭を振い落さなければならないと思った。》一

ここで、なるほどこの男は「遠い国」を経てさらに進もうとしているのか、と納得して先に行こうとした読み手は、その後に続く次の文に出会い、はっとさせられるだろう。

《そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。》

それは、それまで健三自身に寄りそった姿勢で感慨をもらしていると見えた語りが、ここで豹変したかのように感じるからである。
そこには、「一種の淋し味さへ感じた」とか「それを忌んだ」といった、主人公の思いを直接伝える部分との明らかなずれがある。「しかし」でなく「そうして」という接続詞の使用も、よく見れば何やら意味ありげである。いうならば、「遠い所」から帰って来た男の感慨に寄りそって以下の物語に向かおうとする読みの始動に、一瞬水が差されるのである。
 この驚きは重要だろう。読者はここに何者かがいること、すなわち〈語り手〉の介在に気づかされるのである。ただ主人公に一体化したかのようにして進む語りとは異なり、これは主人公に寄りそいつつも、一方で、同時に主人公から離れてその実相を見すえる視線をもそなえたものであり、それをいかにもくっきりと提示していくことがこの〈語り手〉の行き方であるらしいという予感が、瞬時にある新鮮さとなって立ちあらわれてくるのだ。
 もし、小説の冒頭が「健三は自身の誇りと満足には気が付かぬ男だった」などと始められていたのであれば、印象は全く異なっただろう。それは〈語り手〉と主人公とのへだたりを既定の固定されたものとし、以後の語りの方向を容易に想像できるものと思わせるからである。
 主人公との共感的一体化と批判的な対象化、この相反すると見える二つの方向がいかに破綻なく保持されていくのか。ここで〈語り手〉の姿勢はいかにも新鮮に見えはじめるのだ。
それは充分に、読者をひきつける語り出しといってよいだろう。

#漱石 #道草 #語り手

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