「サビタリティ」について

今日の個人的な感慨として、下記のFacebookリンクにあるような記事を見るにつけ、「いま、人々が知る必要があるのは、『ホスピタリティ』よりも『サビタリティ』なのでは」ということ、その記録がこの記事です。


まず、ロジックとしてのサビタリティのことをざっくり共有。

<資料> サビタリティとホスピタリティ( jpg と pdf )

※ これらの資料は自由に使ってもらって構いません。
(出典を明らかにしてもらえると嬉しくはありますが、強要はしません)


仕事と自分の事をしていると、2ヶ月半はあっという間なのだということがブログなるものを開設してみると分かります。

前回の投稿が5月1日なので、令和という時代もそのくらい経ったのだなと。

そして、なるほど、不特定の他者のために発信をするのは本当に大変な仕事だと思ったりもします。

そういう意味で、粛々と発信をし続けておられるメディアやブロガーの方々というのは本当にすごい存在だと思い知らされますね。

Facebookで自分のコミュニティに発信することは、「したいこと」として日々やっているのに、「このnoteで不特定多数に発信することは何故しないか?」という問いを自分にもたらしてくれる機会がここにあるのだな、とここまでは徒然を吐き出しておいて本題。サビタリティとホスピタリティ」を独自に提言し運用を今年の1月に開始してからはや半年。

 サビタリティとホスピタリティ」を独自に提言し運用を今年の1月に開始してからはや半年。

「ホスピタリティでないもの」としての定義であった「サービス」という哲学用語を捨て、それまで自分自身でも「サービスとホスピタリティ」という二律ロジックを使っていたことから脱却と転換として「サビタリティとホスピタリティ」を独自に提言し運用を今年の1月に開始してからはや半年。

ずいぶん、サビタリティという言葉で会話ができるようになってきましたし、そうした相手が増えていくこと、私たちの関係以外でもこの言葉を使う人がいることを嬉しく思っています。

「サービスとホスピタリティ」をつかっていた当時は、「サービスはホスピタリティの対義語なんです!分かってください!」という主張を、アウターマッスルへの力み全開でやっていた未熟な私がいましたね(笑)

「ホスピタリティ」という考え方の理解を促進し、そのロジックとしてのホスピタリティ・ロジックⓇを世に広める、という意識(自己主張的な意識)に主眼があったことが今になってうかがえます。

下記はそのエビデンスなので見なくても本稿には全然影響は無いのですが、もしその当時の主張なるものに興味があればこちらをご覧いただくか(古い記事ですが)、

■ 「ホスピタリティ」とは何か?-石丸雄嗣さんインタビュー

もはや、買ってまで見るものでもないですが、歴史的なログとしてこうしたものか、

■ 宿屋大学 - ライブラリーショップ
 【Vol.11】ホスピタリティ・ロジック ~ おもてなしの罠
 (2012年4月23日に実施した講座のDVDビデオです)

神田昌典氏との対話でも、そうしたことを述べていたり、

■ ダントツ 2013/8/25配信号 Vol.165 ホスピタリティ革命!
 (前はCDがあったのですが、今は入会しないと聴けないようです)

要するに、こうしたことが「もはや古いこと」となったことを、これからの未来のポジティブにしていきたいと思えている今を確認できます。

自分がもしサビタリティの企業にいたら、自分がもしサビタリティな考え方に基づくマネジメントを受けていたら、自分がもしサビタリティなサービス(無形の価値提供)を受けていたら、自分がもしサビタリティな形で商品販売を受けていたら、自分がもしサビタリティな環境で働くのが嫌なのにサビタリティであることを強いられていたとしたら。

それは、一考察してみる必要があります。

もし、なんらかあてはまるようでしたら、いま自分は、なにかに隷従しているか、隷従させられているから。

その状況下では、「自らで見つけられる幸せ」に近づくことが難しくなってしまうということも。

なぜなら、隷従させているその主体者(雇い主や契約主や、場合においては近親者)は、「あなたのポジティブな感情を起点に何かを考えることをしない」ということが確定している可能性があります。

無論、もし彼らに問えばそうは言いません。

彼らは堂々と、「あなたのことを考えている(一番に考えている)」とにこやか言うでしょう。

でも、もし、あなたが実質的に「自分の事を起点に考えられていない」「自分の感情が大切にされていない」と思うことがあるのだったら、それはサビタリティ状態である可能性があり、知っていて搾取されるか、知らず知らずの内に搾取されるかの可能性があるということです。サビタリティな状況におかれているかどうかの判断を間違わせます。

無論、誤解や認識の齟齬もあります。サビタリティな状況におかれているかどうかの判断を間違わせます。サビタリティ状態から抜け出すには「自分自身で決断して行動する」ということが必要だということ。

そうしたことの可能性も、自分がサビタリティな状況におかれているかどうかの判断を間違わせます。サビタリティ状態から抜け出すには「自分自身で決断して行動する」ということが必要だということ。サビタリティかどうかを、なるべく事が起こる前に察し、見抜き、防衛し、回避していく必要があります。

そして、ここからが一番難しいのですが、そのサビタリティ状態から抜け出すには「自分自身で決断して行動する」ということが必要だということ。サビタリティかどうかを、なるべく事が起こる前に察し、見抜き、防衛し、回避していく必要があります。サビタリティ状態、サビタリティ環境におかれているとしたら、「個人にとっての幸せ」を望むことが困難に近づくことを知った上で。

冒頭の記事のように、「その状況から抜け出せない契約になっている」ということすらあるので、その相手がサビタリティかどうかを、なるべく事が起こる前に察し、見抜き、防衛し、回避していく必要があります。サビタリティ状態、サビタリティ環境におかれているとしたら、「個人にとっての幸せ」を望むことが困難に近づくことを知った上で。

自分が、サビタリティ状態、サビタリティ環境におかれているとしたら、「個人にとっての幸せ」を望むことが困難に近づくことを知った上で。

無知(知らないことを知らない)を利用してくるのがサビタリティ状態を強いてくる人たちの常です。

私たちは知る必要があります、無知の鳥かごのなかに閉じ込められてしまわないためにも。

そう、「なんか変だな?を我慢しなくていい時代」に私たちはいるのです。サビタリティを見つけてみることから始めてほしい。

「ま、いいか」と放置していると、自分の人生を誰かに対して隷従することへ使ってしまう、しかも一所懸命、自分自身が良いことだと思っていることとして。サビタリティを見つけてみることから始めてほしい。サビタリティな状況を強いられていないかどうかを検証してほしい。

世の中のサビタリティを見つけてみることから始めてほしい。サビタリティな状況を強いられていないかどうかを検証してほしい。

そして、自分がサビタリティな状況を強いられていないかどうかを検証してほしい。

私たちは、ちょうどそういう時期にいるので。

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