円滑なコミュニケーションについて考える

こんにちは!元中学校教員です。
今回はコミュニケーションについて語っていきたいと思います。

今後とも教育について書いていくうえで、共有しないといけないと考えている概念が、「コミュニケーション」と「仕事」の二つになるからです。

さっそく考えている結論から書いていきたいと思います。


コミュニケーションにおいて大事な概念は「素直さ」にある

 さっそく大枠として「素直さ」と「コミュニケーション」について話していきたいと思います。コミュニケーションは、意思疎通を図る概念ですよね。それでは意思疎通とは何なのかと考えたときに、一番大事になってくることは何でしょうか?

コミュニケーションとは「意思」を「伝える」こと

 意思疎通とは、自分たちの「意思」が「通じ合う」ことですよね。つまり、意思が「伝わる」ということになります。
 意思というものは、自分が「考えている事」、「思っていること」になってきますが、そこには方向性があると思っています。方向性がある考えとは、その考えを自分の頭の中にとどめておくこととは真逆の、外に出力するという意味で考えています。例えば、部屋が汚いからその状態を脱したいと考えると、自然と片付けや掃除がしたいという考えになっていきますよね。部屋が汚いから「不快」という感覚は自己完結していますが、そこから先の掃除をしたいというアクションを考えるというのは、考えを自分の外の方向に向けていると考えていいと思います。これを私は方向性があると言っています。
 つまり、意思はただの「考え」ではなく、外の何かと自分の関係をつなぐ鎖のような「思い」であると言えます。だからこそ、意思を相手につなぐ行為、「伝える」が必要なわけです。掃除であれば、行動に起こせば形として結果に表れるので、意思を昇華する方向としては最も合理的ですよね。だから、思ったことを行動に起こすというのが、一番の意思を具体化する手段、言い換えると「夢を叶える」手段になるのです。
 しかし、対人になると、この意思を伝えるという行為の難しさに直面してしまいます。人によって、上手く意思が伝わる場合と、伝わらない場合が存在するのです。なぜそれが起こるのかという話を私の中で考察していることをこれから出力していきたいと思います。

聞き手が「素直に」聞けないと、伝わらない

 対人でうまく人に意思が伝わらない理由として考えられることが、相手がどう捉えているか不透明であるということです。
 「私はこんな風に話したけど、この人にどう伝わっているのかな?」と心配になる場面もあると思います。そのような場合は、その人との関係性が大きく影響されることと思います。過去の経験からそう思うわけですね。例えば、以前、用事の関係で頼みたいことをやってもらおうとしたら、全くやってもらえなかったことがあった場合、その人に対する信頼を失った状態で意思の疎通をとるわけです。今回も20%しか伝わらないかもという不安の中の意思疎通なので、今度は伝わるようにいろいろと含みを入れて話すかもしれませんね。
 このように、聞き手側にどのように伝わっているかを考える事が、コミュニケーションの大体を支配をしていると考えてもいいわけですね。そうなると、聞き手の伝わり具合がコミュニケーションがうまく伝わるか伝わらないかに関わってくるといってもいいと思うわけです。
 それでは、聞き手側が気を付けなければならないことは何なのか。私は、「相手の言葉を勝手に解釈しない」が大事だと考えています。極端なことを言うと、「空気」と「行間」を読まないことにあるということです。
 なぜ、これらのコミュニケーションにおいて大事にされている概念をやらないかというと、「相手の意思”のみ”」を意識するためです。どういうことかというと、「空気」や「行間」といったものは、誰の「考え」なのかということを意識する必要があるからなのです。これらの概念は、相手が伝える意思かのように思うかもしれませんが、その「空気」と「行間」を読んでいるのは、あくまでも聞き手の自分であり、その自分が持っている情報から構築されるのが、「空気」や「行間」と言われるものなのです。つまり、相手にあるものから作られるものではないのです。だから、相手の意思とは違ったものになってくるのです。これでは、「伝える」コミュニケーションからほど遠くなるのです。
 逆に、相手が伝えている具体的なものは何かというと、相手の出力しかないのです。つまり、相手の言葉、文字、行動しかないのです。それを素直に聞いて、見て、感じることが、聞き手にとって大事なのです。

話し手が「素直に」話さないと、伝わらない

 聞き手の「素直さ」が大事だという話で、「空気」と「行間」を読むという話を出しました。このことで考えないといけないのは、話しても、「空気」と「行間」を読ませる会話をすると「伝わらない」コミュニケーションになるということです。
 仕組みは簡単で、上記の話の逆なのです。自分が伝える意思は、自分の出力のみでしか、具体的なものは出せないのです。自分が伝えていない部分は、相手の解釈に委ねるしかないのです。でも、その解釈は相手の思考にすべてが支配されています。相手の脳みそを書き換えられるのであれば、わざわざ言葉にしなくとも相手の中に自分の考えを入れられるわけですが、不可能ですよね。つまり、自分の中にあって、相手の中にあるかどうかわからないものを一致させるということは、相当難しいことなのです。
 だからこそ、話し手は、相手にしてほしい意思がある場合は、100%伝えることが必要なのです。本当に伝えたいことは隠さないことが大事なのです。だから、話し手にも「素直さ」が必要になってくるのです。
 あともう一つ重要な概念があって、それは、言葉を飾りすぎないことです。僕もいろいろと話したいことがあって、まとまりませんが(このnoteのように)、伝えたいことを超えた概念は、話さなくてもいいのです。とくに聞き手が「素直」な場合は、話している事すべてを受け入れてくれるので、情報量が多くなってしまうのです。こちらは大事なことを伝えたいのに、伝えたいことの情報力以外が多くなると、情報の重要度がどんどん下がっていくのです。そうすると、伝えたかったことがうまく伝わらないとう現状になっていくのです。だから、人に何かを説明するにあたっても、寄り道をしすぎないことが大事になってくるわけですね。みんな寄り道した情報ばかり覚えてくるので。
 このように、聞き手が「素直」に聞いてくれる分、話し手も隠さず、飾らず、「素直」に話すことが必要になってくるわけです。


コミュニケーションは「言葉だけ」ではない

 これらのコミュニケーションを「素直に」円滑に行うために必要なことがあります。それは、どこまでが自分の考えなのかということをはっきりさせることです。これはNVC(非暴力コミュニケーション)の重要な概念ですが、先ほど「空気」と「行間」について書いたとおり、「自分の考え」が「相手の考え」であると人は考えがちなのです。
 これは普段から「当たり前」という概念を持って生活している事が影響していると私は考えていますが、それも含めて、コミュニケーションの奥深さについて書いていきたいと思います。

「行動」から「意思」を見れる

 私たちが「空気」を読む場面というのは、おおよそ「行動」が伴う場合が多いと思います。
 例えば食事の席で、誰が食べ物を取り分けるだとか、仕事をしていて、誰が来客を対応するだとか、そういった役割に伴う行動を行っていますよね。その行動は、形として出ているわけですが、そこには、例えば、「私がみんなの食べる邪魔をしないためにも、取り分ける役割をやる」とか、「みんな忙しくて来客の対応できないから俺がやるか」みたいな意識があるかないか分からないですが、そういう思いでやるものですよね?
 このように、行動に「思い」が乗るのです。「思いやり」と呼ばれるものですね。この「思い」がどこから出てくるのかというと、やはりそれはその行動主の考えですよね。つまり、その行動を見れば、この人がどのような「思い」を持っているのか解釈できるわけです。ここで注意していただきたいのは、飽くまでも解釈なのです。
 解釈をするということは、「素直」にコミュニケーションをする上では邪魔な概念になってしまいますが、コミュニケーションを考えるうえでのトリガーとしては有用だと考えています。まず、解釈は「自分の考え」であるという前提に立って物事を考えてほしいと思います。例えば、先ほどの「私がみんなの~~」や「みんな忙しくて~~」は私が書いたものですよね。つまりこれは「私の考え」なのです。このことから何が言えるかというと、「その行動を私がとったときは、私はこう考えていますよ。」というロジックになってくるのです。つまり、「行動」と「考え」を一致させることができるわけですね。つまり「自分の意思の出力の仕方」の一つを解明することができるのです。これがわかったうえで、誰かが皆のためになるような行動をしたときに、「いつもありがとうございます!助かってます!」といえる場合は、「私はあなたの行動を見たときに、私はこう感じたから」という自分の意思を相手に表示したことになるのです。その先、その相手が「なぜこのようにしているのか」を聞けることがあった場合に、その時初めて、その人の行動の意思が100%通じるわけなのです。
 必ずしもこのような流れができるわけではないですが、解釈を相手に意思表示をするという行為、つまり「自分の考え」であると理解して相手に表示するということが、コミュニケーションを始めるきっかけになるということが言えると思います。「行動」から「意思」を取り出すことはかなり難しいですが、一旦「自分の考え」というクッションを挟むことが、円滑なコミュニケーションの秘訣だと思います。

相手の考えと自分の考えを同じにしない

 上記のようなコミュニケーションをとるうえで、最も注意しないといけないことがあります。それは、「あなたはこう考えているんでしょう?」というコミュニケーションではなく、「私はこう考えたよ」が大事なのです。
 私が体感として、多いコミュニケーションですが、「あなたがこうするってことはこういうこと考えていたんでしょ?」というパターンです。
 例えば、ダラダラと遊んでばかりいると、「あんたそうやって遊んで家事もしないって、誰かがやってくれると思ってるんでしょ?そうやって甘えるの?」って言われることがあるかもしれません。もしかしたらいう側になるかもしれませんが、確かに、与えられた役割をしないということをしながら、自分がやりたいことをやるというのは、このように「甘えてる」と言われますよね。でも、この「甘えている」というのは解釈なのです。本人が「甘えたい」と明言してやっているならそれでもいいでしょうが、本人が「甘えている」という明確な意思もないのに「甘えている」という評価を下すということは、他人に「自分はこう考えている」を支配されているという状態なのです。これが円滑なコミュニケーションであるとは、私は思えません。
 ここで、考えるのはどこが誰の「考え」なのかということです。遊んでいることと、家事をしていないことは紛れもなく事実です。これは減少として目の前にあるので間違いないでしょう。ここは大丈夫なのですが、そのあとの「甘える」は、明らかに言った人の考えなのです。ここで、伝わるコミュニケーションにする場合は、この甘えると解釈した「自分の考え」の方を深堀りすることが大事なのです。なぜ、甘えと解釈したのかはそれぞれにあると思いますが、例えばそこに自分が「伝えたい意思」があるのです。例えば「家事が大変で片付かないと料理ができない」とか「体調が悪くていつもどおりに毎日家事をするのがつらい」とかあるかもしれません。伝えるのは、「甘えるな」という意思なのか、それとも「助けて」なのか、はたまたは「成長してほしい」なのか、自分の意図するものを言葉にしないといけないのです。

「当たり前」なんて希少だから、「伝える」ことが大事

 なぜ、このようなコミュニケーションが多くなるかというと、私は「当たり前」という概念が強いからだと思うのです。
 ここからは説明というより、個人的な考えの方がマシマシになっていきますので、ご了承のうえでご覧いただければと思います。
 「当たり前」とは何かというと、それがある状態が普通であるということですね。前提条件として、我々が人間として勉強できる能力で生まれ、学校で勉強を行う中で、みんながおなじように成長する機会を持たせられるため、みんなが勉強している状態が「当たり前」になるし、家族で過ごしている状態が「当たり前」だし、いつか自立していくのも「当たり前」なわけですね。果たして本当にそうなのでしょうか?
 私は教育が好きすぎてこのような話をしますが、本当にそれらすべては「当たり前」なことなのでしょうか。みんながみんな「勉強」しているから読み書き算数ができるっていうのは本当のことなのでしょうか。もしそうであるなら、みんなテストの点数はいい状態で保てますよね。しかし、個人差があります。国語が得意だけど算数が苦手な子もいますよね。その個人差を平均してもみんないい点数を取れるので、それが「当たり前」になってきているといえるのかもしれません。
 しかし、それは私は幻想だと思います。それが「当たり前」になるようにみんなが努力しているし、子供本人も努力しているのです。つまり、複数の努力の上に成り立っているのがこの「当たり前」という状態なのです。つまり、あるのが普通になるように、みんなが色んな事に苦労しているのです。これが少しでも崩れれば、「当たり前」ではないのです。だから、「当たり前」という幻想に寄りかかって、「伝わらない」コミュニケーションを行うより、全てが「当たり前」じゃないという前提で「伝わる」「伝える」コミュニケーションをとっていくことが大事だと思います。


「ありがとう」は最強のコミュニケーション

 今回は短めにと思ってましたが、それでもだいぶ長く書いてしまいました。
 まとめると、

  • 「素直に」聞くことで「伝わる」コミュニケーションになる

  • 「素直に」話すことで「伝える」コミュニケーションになる

  • 「行動」を「解釈」するだけでなく、それを伝えるまでがセットでコミュニケーションになる

  • 「当たり前」と思わないでコミュニケーションをとることが大事

って感じでいかがでしょうか。
特に、「当たり前」という概念が私は厄介だなと思っています。みんな「当たり前」という前提があって、コミュニケーションが取れると考えているんじゃないかなと感じることが多いです。共通意識や共通言語も大事ですが、コミュニケーションにおいて私が最も大事だなと思う部分は、相手にない物を伝えて広めることだと思うのですね。だから「当たり前」じゃない方がよいのです。

 最近知った話で、「当たり前」の反対の言葉は「ありがとう」であるとう話があります。これは、「有ることが”普通”の状態」である「当たり前」に対して、「有ることが”難しい”状態」である「有難う(ありがとう)」は反対の意味であるという説です。先ほども書いたとおり、みんなが努力したうえで成り立っている幻想は、「当たり前」だけど「当たり前」ではないのです。でも、みんなが努力して、みんなのために「有ることが”難しい”状態」を「有ることが”普通”の状態」にしているのですよね。それは大変すばらしいことだし、そのことに感謝することは大事だと思うのです。ですから、「有ることが”難しい”」状態のすばらしさに感謝すべく、「ありがとう」は感謝の言葉なのだといえるのかもしれませんね。


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