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Co-readingとは

「共読」という言葉をかの松岡正剛氏が使っている。みんなが読む、という正に読書会そのものを言い表す、概念であるはずなのに耳慣れない言葉である。それほど読書は一人でするものであり、読書会のようにみんなで同じ本を読むことは稀なことなのだと思われる。みんなで読むということは、誰かが選択した本を複数の他人がその選択に同意して読むということになる。誰かがその選択に不服を唱えれば、その本は共読されない。だから、選ぶ方も他者の同意が得られやすい本を選ぶ傾向になる。時には、あの人が選んだからしようがないと幾分不本意ながらも、共読することもある。

本は本当のところは読んでみなくては分からない。ぼくの場合これまで、幾分不本意ながらも読んでみて、何かしら得ることがあって、不満足に終わることはほとんどない。さて、今日書きたかったことは、読書会での共読ではなく、不特定多数を対象とする共読についてである。みんなで読むということが、多くの人にとって得るところが多い、とする本をどのように選択するかという問題なのである。これを単純に「オススメ本」としてしまっては話が始まらない。誰がどういう理由でその本をオススメできるのかが、問われなければならない。かの松岡正剛氏ならば、それをする十分な権利がありそうである。読書の達人であることは、「千夜千冊」サイトを見れば誰もが納得するだろう。

ただ、ぼくが本をオススメするのは、説得力がないだけだ。でも最近推しの本がぼくにも生まれてきている。それは小説ではない。小説だと趣味を押し付けるだけに終わる。趣味は人それぞれで、ビブリオバトルというのをやってみたところで、客観的評価はできないはずだ。すでに評価が定まっている、所謂古典を勧めても、評価するあなたが埋没するだけだ。ここまで考えてきて分かったのは、推薦者と誰に勧めるかの対象者の関係性が肝だということだ。もし、このnoteでぼくの読者の中にぼくに好意的な人だったら、ぼくの本の選択に納得されるかもしれない。それでも、「源氏物語」や「黒い雨」や「死の島」を勧めることはせず、養老孟司の「バカの壁」や、姜尚中の「悩む力」や、福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」を共読のための本として勧めたい。

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