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ヘルマン・ヘッセ「デミアン」読書会

どんな名作と言われている小説であっても、自分が読むことで感じたり考えたりしたことのほうが意味があり、その小説で受けた影響に正直になることをぼくは読書の第一義に置いている。その影響を語り合うのが読書会の実質であり、自ら語ることで自分の考えを定着できる場とすることも可能だ。

今回の「デミアン」読書会では、作者のヘッセという人にナイーブな幾分厭世的なイメージをこれまで抱いていたが、自分の内面と外の戦時体制化する世界とを対決させている真摯な文学者だったことが分かって収穫だった。文学者の政治参加という、もう少し歴史を経てからの枠組みで見ると、ヘッセは反ナチの同盟には組しなかったという非難が下されるが、作家として一人で小説創作(「デミアン」以降、ナチ政権時代にスイスで書かれた「ガラス玉遊戯」がある)で、ナチ第三帝国に対置しうるユートピア(ビジョン)を描き出した偉業は高く評価されるべきと思った。(実際はこの小説でノーベル文学賞をとっているので知らないのはぼくだけなのかもしれない。)

もとよりドイツでは哲学によって現実世界の成り立ちに対抗しうる体系化された言語世界というものが作られている。ヘーゲル、カント、ニーチェ、ハイデガーなどがドイツの国民意識の中に深いところで影響力を宿していると思う。(ヨーロッパでは頻繁にどこかでデモが行われており、市民レベルで哲学が語られている現状は日本では考えられないが、、、)だから「デミアン」のような哲学的な小説が第一次大戦のドイツ敗戦後間もなく出版されて、熱狂的に多くの国民に迎えられたというエピソードがぼくにはドイツらしいと思えた。

さて高校の同級生と二人で始めた読書会の2回目を昨日6時間かけて(後半は居酒屋に移って飲み会になるが)行ったのだが、もう一方の友人の方の感想はどうだったかを自分なりにまとめてみたい。彼は長年教師をやっていたこともあるのかもしれないが、もっと本の中身に即して、つまり現実的に感想を述べた。以下記憶のままに列挙してみる。

この小説は大河小説のように、主人公の10歳から20歳までの物語を順序良く書いたものではない。登場人物は主人公の分身のように思えた。(ほぼ、ぼくも同意したがクローマーについては明らかに他者と思える。)デミアンとは4回の出会いがあるが、後半にはリアリズムによる出会いを描いていない。両親や姉たちが属する善の世界と、カイン、グノーシス派、アプラスカスの悪を含む世界の二つの世界が平行して描かれている。デミアンがどのようにしてクローマーをやっつけたのかがなぜ書かれていないのかに疑問を持った。ジンクレールがビストリウスを「古い」と批判したことに反論されなかったくだりが今ひとつ分からなかった。デミアンの母のエヴァとジンクレールの「恋愛」関係の意味(この物語における位置)がつかめなかったこと。戦場で負傷してとなりに寝ていたのがデミアンかどうかわからなくしていてミステリー小説のようにも思えた。、、、他にも細かい感想はあったが、要するにこの小説で君はどう感じたのかと改めてぼくは質問してみたが、よく分からなかったという返事だった。

ぼくの友人は「デミアン」をつかみ損ねていると、チラッと頭に浮かんだがそれを口にはしなかった。読むということは分析ではなくて、追体験なのだということを言いたかったのだが、彼にとっては何が書かれてあるかを分かる方が読んだことになるらしかった。 ついでに書いておくと、グノーシス派などの世界は現状に対する反体制であり、現実には裏の世界としていつも存在しており、覚醒者には両方見えるということ。デミアンとの出会いの神秘性はユング心理学の理論を踏まえていること。デミアンがクローマーをやっつけた場面は、物理的な暴力ではなくて、威圧して恐怖を与えたと考えられること。ビストリウスに古いという批判が効いたのは、彼が過去だけにしか生きていなかったからだと思うこと。エヴァ夫人との恋愛は思春期の女性崇拝感情を肯定することで、自我がバランスがとれて安定する(これもユング心理学の影響)経験を描いていると解釈できること。以上をぼくの方で説明することで彼は概ね納得したようだった。)

「デミアン」をぼくは2回読了している。2回読むと余裕ができるので読むと同時に味わう感じがあって、やはり1回だけと2回読むのでは体験の質的違いがあった。この小説はこれまでのヘッセ作品とは別格の感じがあって、かなりヘビーな、カミユとかドストエフスキーとはまた違う思想的な作品だった。でもしっかり文学的な文体の香りもあり、世界的な名作であることには違いない。

一言でこの小説の価値を言うとしたら、自我の確立ないし再建というところだと思う。いかに真実の自分になりきれるか、読後しばらく経って漠然と思うのは、ジンクレールがデミアンに到達する物語だったのではないかということだ。デミアンはジンクレールが呼び出した自分の自我だったという解釈が浮かびあがった。読み様によっては第二次大戦の思想的準備をドイツ国民に与えたとも受け取れる部分もかなりあったと思う。

しかしそれは政治的・外面的理解であり、戦争体験が既存ヨーロッパ精神を崩壊させたことの内面化の内面こそ、「体験」とともに理解すべきだと思う。ヘッセは厭世家のイメージがあったが、全く逆で時代と格闘する作家だった。前回読書会で取り上げたサン・テグジュペリや同時代のロマンロランとは違うタイプの大作家と言えるのではないだろうか?

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