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サラリーマン人生(つまらなさを耐えるのではなく、つまらなさを楽しむ)

社畜という言葉を知っていたが、それは自嘲する言葉であって本気で自分たちを社畜だと思っていた人間は稀だったと思う。特に地方の民間会社でそれなりに社歴のある会社では、社風が古くさい面が残っていてよく言えば家族的だったりする。ぼくは紹介された会社に最初の面接に行った時、玄関前の駐車場を掃除しているおじいちゃんがいてろくに挨拶もせず無視して、受付で訊いて専務が待っている部屋に案内してもらった。面接が終わって部屋から出てみるとそのおじいちゃんが社長の席に座っていた。そのころの金沢の老舗企業の中には社長が自ら掃除したりしているのだった。流石にぼくも恐縮して挨拶すると、一緒にやりましょうと返された。今から45年ほど前のことだ。

入社の時は歓迎されていた。結局38年間その会社で働くことになって、三代の社長のもとで使われる身で過ごすことになった。入社した時の社長は創業者であり、どこかに職人気質が感じられてぼくは親父が大工なので少し親しみを感じた。そのころ社員は50人くらいだったと思う。二代目が社長となった時は社員は2倍に増えていた。当然前社長の長男がなったのだが、ある時お前は部長ぐらいにはさせてやるが、専務と一緒になって勝手なことはするなみたいなことを言われてびっくりしたことがあった。専務とぼくは同じ高校だったから警戒されたのかもしれない。ぼくには部長どころか出世する気がほとんどなかったので全く意外だったけれども、小さい会社ではぼくの位置付けではそう見られるのが順当なのかもしれなかった。

ただ順当な道に行くための仕掛けに気づかず、呑気に流されて周りの目に叶わなかったのだろう。将来部長にさせようと思った人間が頼りない時経営者は次を探して補充する。ライバルにして競争させるのだ。ぼくは競争する気がなかった。そこから静かなゆっくりとした転落が始まる。そこから実質的な社畜が始まったのだろう。

ある時競争意識がないぼくを刺激したかったのか、虚をつくようにお前は全然報告のできないやつだと言い放ち、ぼくの転落は確かなものになった。想定外で無防備だったぼくは、相当こたえた。仲間から突然謂れのない追放の言葉を浴びた、多崎つくるのように。その時多崎つくるが変わったようにぼくも人格が変わったと思う。さて思わずサラリーマン時代を書くことになってしまったが、今日は会社というところは油断していると怖い目に合うと書きつけておこう。

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