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就職したことの功罪

ぼくの個人的な体験として地元の会社に就職して、38年間働いたことの自己評価をしてみたい。今になってまだそんなことを考えるのか、過ぎ去った過去をいつまでも引きずるのか、呆れるばかりだと思われるに違いない。生きていくにはそうするしかなかった、よく我慢してきたものだと言うこともできる。でも自分の人生はそれぞれの年齢で、その時その時で1回限りを生きてきているのだ。その掛け替えのなさは残念ながら若い時には感じられない性質のものだ。ぼくの選んだ会社は二人の正社員の死者と一人のパートの女性の事故者を出している。死者の一人は社長が追い出すように辞めさせ、その後転職が思うように行かず追い詰められて自殺した。他の一人は慣れない部署に数年ごとに配置転換をさせられ、鬱になり最後には会社が費用の一部を援助したサナトリウムで、誤飲が元で死亡した。比較的若いパートさんは、工場で印刷機のドラムに誤って手を巻き込まれ指を1本潰している。パートさんも含めて150人ぐらいの会社だが多い時は数人の、鬱で長期休暇を取っていた社員がいた。家族的な雰囲気のいい会社だと言う人もいたが、その雰囲気の中に入れない人には冷たかったとも言える。人事は社長の親族が当然のように優遇され、野球とゴルフで役員と仲が良い社員が出世した。私は自分の方から社長や役員に近づかなかったために、ある時「お前は報告のできない奴」と社内追放された。つまり出世の道らしいものが閉ざされた。もし違う会社に就職していたら違った道が開かれたかもしれないが、そうすれば会社の人間関係にもうちょっと距離を置けたかもしれない。今から思うと過剰に適用しようとしていたように思う。確かにそこで学んどことも大きかったと思えるが、、、

ぼくが会社は人を精神的に殺す場所だと断ずるのは、具体的な体験があるからだ。ぼくがサラリーマンであった会社で友人でもあった仲間が、無理な配置転換を受け続け、鬱になり長期休暇をサナトリウムで過ごすようになり、ある日誤飲が元で死亡したのだった。社長も引け目を感じたのか、社葬がその社員のために立派に行われた。きっかけは彼の落ち度ではなく、社長の友人を自分の会社に引き入れるために、社長の付き合いを優先した人事を行ったことにある。(社長の友人が入ったことでその部署を追い出された格好になった)慣れない部署への配置転換で悩みを聞いていたぼくは、転職を勧めていたが目の前の苦痛の方が身近に感じていたのか、会社を辞める決断ができなかった。最初の配置転換で成績が悪くなると次の配置転換が命ぜられた。最終的に彼が向かないことが明らかな肉体労働が主の部署に移り、年下の上司の下にこき使われていた。とうとう耐えられず鬱となって長期休暇の処置が下された。比較的症状が穏やかになった時は、サナトリウムから出社することがありその時に顔を合わせたが、もうすでにぼくには彼が廃人のように見えて、声をかけることができなかった。その時彼にすまない思いを抱えてしまった。彼はいわゆる人のいい奴だった。会社は人を精神的に殺す場所で、社畜として生きていかなければならないという認識を持てれば、むしろ耐えていけたかもしれなかった。

38年間の会社勤めの生活は、なぜ失敗だったと仮定するかというとその間自分が自分でなかったように思えるからだ。例えば自分が管理職になって部下との関係を作ろうとして、自分の性格を非人間的な殻に当てはめようとした。普通に先輩のように温かく接することをせず、距離を置いていた。分からないことを親身になって何でも相談にのれていなかった。デザイナーという職種では、スキルの差が「作品」の主観的な優劣を呼び込むことがある。下からのプレッシャーを感じる職種だと今書こうとしたが、実力が問われるのはどんな職種でも同じかもしれないと思い直した。会社という環境は、四六時中周りが競争状態でもあることを今になって改めて思う。そのストレスに柔軟に対処できなければそもそも社会人として生きていけなかったのかもしれない。多かれ少なかれ、どんな企業もブラックな要素を持っているし、うまくそれを切り返したり切りぬけたりできるタフさを備える必要があったということなのだろう。

だが、そんな環境は今からするとひどく人間性が失われていたことが分かる。よく考えてみると、自分を保ち続けるには周りの誰かを傷つけていたと思う。傷つけ合うことに不感症になっていたと思われる。


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