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僕にとっての「大衆の原像」

村上春樹が小説の読者は二種類しかいないと言った。「カラマーゾフの兄弟」や「ジャン・クリストフ」を読む読者と、読まない読者だ。僕は高校1年の晩秋に「ジャン・クリストフ」を読み始め、年を越して春に読み終わった記憶がある。

屋根裏部屋のような自宅の勉強部屋でFMでクラシック音楽を聴きながら、非日常の小説空間に浸り込んでいた。それが僕の少年時代の日常だった。

作者のロマンロランは10年の歳月をその創作にかけている。高校に合格したことで安心してしまい勉強しなくなり、世界文学全集を読み始めて面白く、現国の小浦場先生に休み時間を利用してよく会いに行き、文学ばなしを持ちかけていた。先生は僕を追い払うために、超長編の「ジャン・クリストフ」を必読書として勧めた。(実際それ以後行かなくなった)

さて、定年退職後の僕は軽度のアイデンティティ障害(つまり自分を見失う)から、もう一度自我形成時に戻って何が以後の自分を作ったのかを点検してみようと思い立った。そこで突如として浮かんできたのが「ジャン・クリストフ」だった。「車輪の下」や「若きウェルテルの悩み」や「異邦人」ではなく、なぜ「ジャン・クリストフ」なのかというと、超長編小説だからだ。「罪と罰」も長いが、その3倍ぐらい長い。

昨日、文庫2冊目を読み終えた(あと3冊ある)。「広場の市」という章で、ドイツのライン川沿いに生まれた主人公がパリに出てきて、当時の音楽界や文芸界、思想界の状況の中でもがき苦しむ章となっている。

天才音楽家であるからピアノの教師や作曲で食っていけるし、貴族やブルジョアのサロンや令嬢との接点もある。ほとんどの著名な音楽家やニーチェやゲーテやヘーゲルやマルクスまで名前が出てくる。文化的には混乱と退廃の極みなのであるが、パリ人は平気にとりすましているという感じ。そんな中で純で激越なジャンは疲れ果て病に倒れた時にシドニーという女性の介抱を得る。

僕はシドニーという女性に「大衆の原像」を見た。「大衆の原像」とは芸術家や自由人がドロップアウトしてしまった元の普通人の状態(像)のことだ。芸術家や自由人はイメージや概念を食って生きているので、生身の人間を時として忘れてしまうことがある。そうすると苦しくなって「狂気」に近づくことになったりする。その狂気の解毒剤が「大衆の原像」であり、そのことに昨日いたく気づいて今日書き止めておこうと思った次第だ。

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