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引きこもりの効用について

高校2年の時に10日間ほど不登校で自宅に閉じこもっていた時、日常の時間の流れと自分の世界内の時間の流れのズレを感じた経験から、鬱とか社会的引きこもりの問題には身近に感じている。その時大学病院の精神内科の診察を受け、しばらく精神安定剤を飲んでいたが、勧められていたカウンセリングを受けずに自力でなんとか持ちこたえ、鬱とか社会的引きこもりにはならずに済んだ。みぞおちの辺りに重い鈍痛を感じ、軽度のうつ状態を最終的に受験勉強に集中し大学に合格することで克服することができた。現実には鬱も引きこもりも重度の状態になると日常生活にも支障をきたすそうなのだが、ぼくはそこまで行かなかった。ぼくが経験から何か言えるとしても自分を通して考えられることでしかない。そういうものに価値はないのかもしれない。

ぼくとしては鬱にも社会的引きこもりにもそれ自体に貴重な人生体験としての価値を認める立場を考えてみたいと思っている。鬱や社会的引きこもりになったから、病気を治すという立場ではなく、つまり病気という負の状態と定義するのではなく、ユニークに生きる精神的なバネに転換する素質形成と捉えたいと思っている。ある意味不遜に聞こえるかもしれないが、せっかく鬱や社会的引きこもりになったのに、病気だとして治すことばかりに「矮小化」してしまったらもったいないと思うのだ。実際鬱とか社会的引きこもりになった人に対しては、社会的責任を伴うので何かアドバイスするようなことは言えないのだけれど、自分の経験の範囲内のことは言う権利はあると思う。自分自身の鬱や引きこもりの自由はあると思う。

引きこもりとは、仕事や学校に行かず自宅に引きこもり、家族以外とほとんど交流しない人や状態を指す。日本の厚生労働省は、こうした状態が6か月以上続いた場合を定義としている、とwikipediaにはある。これは現象だけを言って定義とは言えないと思う。一般的に言って、社会的不適応という状態が引きこもりだと思うが、そこでの社会というのは学校や職場のことである。家庭ではない。家族関係とは異なる関係のもとに学校や職場では置かれる。そこには友人もいるが、ライバルや敵対する他者もいるかもしれない。自分を理解してくれそうな人もいるが、全く相互理解が不能な人も中にはいるだろう。

ここで定義をもっと本質的に探ってみるのに、話を極端にしてみると分かった気になるかもしれない。ある意味引きこもったままに生きていけるのなら、理想的な生き方だと言えないだろうか?ここで言っている引きこもり状態というのは、自分の自由感に何の衝突もない状態という意味で、必ずしも部屋に閉じこもっている現象を問題にするのではない。もし友人や恋人もほしくなく、周りの人間を自分に従えるだけの権力の持ち主であれば、そんな生き方もできるかもしれない。ヒトラーやスターリンはある時期そうだったかもしれない。自分を変えずに社会の方を自分に従うように変えればいいからだ。ヒトラーやスターリンは独裁者で権力に「引きこもって」いたのだが、芸術家は自分の作品という絶対的空間の創造者という意味で引きこもりであるとも言える。能力が人並みの凡人には引きこもりは許されないのだろう。社会の方が圧倒的に強いからだ。

現実の引きこもりの中には学校でいじめにあった生徒も相当数いると思うが、彼らは弱者として安全な避難場所を求めて自宅の部屋に引きこもっている。彼らが弱者であり続ける限り、引きこもっていなくてはならない。おそらく解決策は強くなることだと思われる。ぼくの場合も、遅ればせながら切羽詰まって受験勉強に集中し大学に合格できたから引きこもりから脱出できたと思っている。それは幸運だったということもできる。なぜなら多くの引きこもりは強くなろうとしないか、強くなる方法が分からないかであって、強くなれないから引きこもっているのだからである。強くなるには最低限の才能か、武器が必要だ。ぼくの場合は書くことと、英語への興味だ。みんな最低限のどこか小さな部分でいいから、強くなってほしいと思う。

画家が創作に没頭している時間、作家が小説に従事して就筆している時間、アスリートが黙々と練習に打ち込む時間、思想家が大胆な仮定から次々に着想が浮かんでくる時間、詩人が魂の高揚に身を委ねている時間、哲学者が問いの方法と場所を確立しようと思索している時間、職人が道具の手入れを工房でしている時間、大学教授が研究論文に手を入れている時間、これらの時間は内的に閉じられて中で充実していて、主体からすれば「引きこもり」の状態であるはずだ。

だから引きこもることは生産的で創造的な状態に入ることを意味していて、本能的に人間はその状態を求めるものだと思う。引きこもることに問題があるとしたら状態にあるのではなく、主体がすでに社会的に認められているか否かにあるのではないだろうか?画家でも作家でもアスリートでも思想家でも詩人でも哲学者でも職人でも大学教授でもないとしたら、あなたは引きこもることを許されないのではないだろうか?資本主義システムでは労働や生産に従事せず、商品にならない事や物は排除される運命にある。

ふと思うことだが、定年後でよかったことの一番は何気兼ねすることもなく引きこもれることではないだろうか。家に閉じこもってばかりではいけないと言われるが、閉じこもりが快適なうちは良いのではないかと思う。思いっきり内面の自由に冒険してみても良いと思う。一冊の長編小説に耽溺できるとしたら、何よりの快楽だと思う。

いつ頃か、そういう快楽は味わえなくなってしまった。科学は人類が到達した目覚ましい成果だけれど、失ったものも大きいと思う。人間は科学に頼って生活することはできない。もとより愛を科学的に説明したら何の味もないだろう。自由だって合理的ではない。ロシア人や中国人は屈辱に黙っていない。先ごろバイデンはプーチンがいいと言ったことがよい筈がないと語ったらしい。その途轍もない傲慢さにぼくは久しぶりに怒りを感じた。話し合いこそが唯一の解決の道とは思っていないらしい口ぶりにアメリカの傲慢さを感じる。プーチンは怖い男で決して味方するわけではないが、屈辱を与えてはならない男の一番な筈だ。変なところへ話がズレたが、世間とは違う考えを持てるのも引きこもりのせいかも知れない。世間と違いすぎるのも問題ではあるが。



ずっと閉じこもっていたいという欲求がつのってくる。穴があったら入りたいというのはきっと本能の一部だろう。本を読んでもそれで何かが身につくのかと考えたら、もっと意味のあることをしたいとも思う。小説は読んでいる最中は閉じこもっていられる。今はそれでは飽き足らない。読書という行為をそれだけを単純化して、効果の面から見れば学習参考書を読むのは、もし試験を受けるのであればとても意味のある行為なのであるまいか。試験に合格するという明確な目標があり、目標達成を手段に分解して対策法を読んでいけばいいのだから、その過程は全て意味のあることだ。ぼくの人生を振り返ってみて、高校や大学受験の時の勉強ほど、意味のある充実した時間を過ごした気がする。あの学習参考書を読む時間の、意味に溢れる濃密さが懐かしい。そう言えば受験生は勉強に閉じこもっていても非難されない。

小説家や学者、研究者はそういう閉じこもりが社会的に許される。定年退職者は家に閉じこもっていると不審がられる。定年退職者は何者でもないからだ。不審がられても気にしなければいいだけのかもしれないが、どういうわけか不審がられないようにしようとする。だから地域の読書会なんかに参加したり、テニス教室に通ったりして外出の口実を作ってしまった。本当は覚悟の上で、鬱々とした「洞窟」に住み込んで、何かを研究してる方が結果的に何かを生産するかもしれない。

要は、この閉じこもっていたいという欲求に適切な仕事を与えられればいいのだ。意味と価値を生産する仕事を見つければ解決するということだ。学習参考書を読むのは意欲を感じるが、何かの資格を取るための学習参考書はだめだ。もう資格には興味がない。職業というものは今では全く関心がない。働くのは時間の無駄だと思ってしまった。自分だけの研究領域が欲しい。源氏物語やマルクスやサルトルではダメだ。西村賢太の藤澤清造のような全的な研究。森田真生の数学のような価値ある体系を持ちたい。ぼくは残念なことにまだ自分を生きていない。あえて言えば、気になった人物の追っかけをやっている。このまま終わるかもしれない。それを思うと空虚に悶える。しかしそれを見つめようと思う。

会社を定年退職したぼくは排除されずに引きこもる場所をどこかに持たなければならないと思っている。学生は大学や学校に属するように要求される。定年退職してフリーとなって一時は学生の身分に戻ったような気分でいたが、入学試験を受けて合格しない限り学生には戻れない。これは動かしがたい社会的現実である。定年退職して書くことを自らに課しこれまで書き続けてきて、書きながら考えることを覚え、今存在について考えるようになっている。存在を更新するには何をすればいいのだろう?求めよう、求め続けよう、求道者になろう、坂口安吾のように。

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