私は毎日が辛い
ここのところの不安や情緒の乱れ
職場に対する不満の限界
いろんなことを思ったけれど、それは全部過去に理由があった
Twitterでもぼちぼち呟いてはいたけど、私は何かを頑張ったからという理由で褒められたことがない
承認欲求が満たされることのない日々を送った子供時代だった。
過去を理由に現在の状態を言うのはアドラーの心理学的にはなしなことらしいけれど
私は母の人生を生きさせられていたと、何度思い返してもそう思う
こんなことがあった
母の勘違いで、塾が休みだった日
送り出されたものの、階段を登っていくと中は真っ暗で空いていなかった。当時携帯なんてものはなかったので、ひたすら塾が終わる時間まで待とうと思い。階段の上で座り込んでじっとしていた
そこに上の階のカルチャー教室からの帰りといったおばさんたちが通りがかった
そのまま過ぎていくかなと思ったら、声をかけられた。説明するとその中の1人が家が近いから電話貸してあげると連れていってくれた。
私は何度もお礼を言い、自分で電話をかけようと思っていたが、おばさんに静止されて電話番号だけ告げた。待っている間おばさんはなにかと親切にしてくれた。私はといえば気が気でなかった。というのも、母は他人に私がお世話になることを恥であり、自分にマイナスな評価つくと感じていたらしかったからだ。案の定迎えにきてくれた母はおばさんの前では申し訳ないと愛想良く謝っていたが、車に乗ると表情は一瞬のうちに消え、私をみることもなかった
他の家庭など知らないから当たり前だと思っていたことがある。テストで100点取るのは当たり前のことだということ。たとえ8割取れてても叱られた
私に母はひたすらものに当たるなと言いながら、怒るとドアを音を立てて閉めものにあたった
これらを今になって考えると、私は母を神格化していたのだなと思った。
彼女の機嫌を損ねてはならない
言う通りにしなければならない
他人に優しくせよと言われたら、自分の不利益を被ってまで相手のために尽くした
大学に入り、片道2時間の通学を経験した
そこではいままで常識だったことをことごとく覆された
自分は普通じゃなかったのだ
卒業して会社に入るも、家から出ると言う考えは私の中ではタブーだった
その時点ではまだ母の手から逃れられていなかったのだ。
入った会社はブラックではないが、昭和の働き方がガッツリ残った会社だった。今ではそんな会社があったら、各所から訴えられて労基署にも目をつけられていただろう
モーレツ社員なんて言葉がはやってた時代をそのままひきづっているところだった
先輩より早く帰るな
サービス残業なんて当たり前だ
見て覚えろ
勉強しろ(といいつつ資料を読んでいるとサボるなと言われた)
他にも色々あったがまた語る機会があれば語ろうと思う
結果的に私は軽い鬱になり、交通事故を起こして完全に気力を失った
その間の記憶で母が出てくることはない
会社でどんなことがあったと伝えても無視されたからだ
結局半年勤めて一年たつ頃に辞めますと伝えた
色々あったが、辞めたのちの迷走っぷりは酷かった
うつを抱えたまま職を探した。家族は誰一人うつ病のことで気遣ったりはしてくれなかった
べつに望んでいたわけではないけど、せめて病気なんだということだけでもわかっていて欲しかった
母は頭から否定した
求人中暇があれば本屋に行った
そうやってなんとか気を晴らそうとしていた私を見ていて、そんなに元気な病人はいない、お前はただ甘えてるだけだと母は言った
それから数年私はアルバイトしたり辞めたりを繰り返していたが、病気が一向に良くなることはなかった。当たり前だろう。薬で鈍った感覚のまま仕事をすればミスをするし、覇気もない。職場で煙たがられ、家に帰れば落ち着く場所もなく、常に母に監視されているのだ。
当時恋人だった相方だけが私を懸命に救おうとしてくれていた。一晩中電話を繋げたまま眠ったこともある。眠れない私に子守唄を歌ってくれることもあった。なぜか相方の声を聞いていると安心した。そこだけが現実と繋げていてくれた
ある日とうとう友人が見かねて、相方と一緒に説得しにきた。今のままじゃだめだから、とにかく家を出ろと
この辺りは以前語ったかもしれない
結果的に実家を出た相方の家に居候することになった。同棲といえば聞こえはいいが、そんな甘ったるいものじゃなかった。
毎日が嵐で、私はおかしくなりそうだった
それまで信じてきた生き方が間違っていたのだから、急に足場がなくなったようなものだ。混乱するのもしょうがないと思う。病気が悪くなり、薬が増え、私は現実と夢の境目を生きていた
感情はコークスクリューのように振り回されて
相方はそれを宥めるのに精一杯だった
そんなことを続けていたら、ある日入院した
全部で3週間。うち1週間は絶飲絶食
今まで飲んでた薬は取り上げられ、眠れなくなった
朝なのか夜なのかもわからないまま苦しい時間を過ごした。薬を抜いた反動は凄まじかった。脳がブレてノイズが走る感情が抑えられない
でもベットから一歩も動けなくなっている
朝になれば無理矢理にでも起こされて診察を受けた
拷問のような時間だった
その中で何かが崩れ去っていくのを感じた
残滓は残しながらも、大きな黒い塊が砕けていった
3週間後、退院
私は燃え尽きていた。気力はなく人に会うのが怖くなっていた。それでもなんとかしなければという思いは残っていたから、振り絞って仕事を探した。
ぽつりと、本屋の募集があった
オープニング、しかも大手有名書店
無理だとは思ったが応募した
面接を受け、被れるだけの猫をかぶってやる気満々な姿を演じた
不採用の締め切りの時間になった
今までも経験があるからわかる、ダメだったんだなと
ところがその1時間後に電話があった
採用とのこと
私はなんの感情も抱けなかったが、もう後はないと心に誓った
10月に入社し、最初は短時間しかできないと思っていたが、物足りなさを感じてフルタイムにしてもらった。運のいいことに、フルタイムだと担当を持てて、しかも文芸が残っていた。12月がむしゃらに働いた。働きながら勉強した少しでも店のためにと
朝は9時半から、夜は22時まで働いた。
無我夢中だった
コロナ禍になり、出勤できない間も何かしらをしていた。
しかし、それが最近になって虚しくなってしまった。贅沢を望まず、働かせていただいてると言う気持ちを忘れずに頑張っていたら、私は私の人生の歩き方を置いてきてしまったように何もなくなった
店は落ち着き、安定してきた。
がむしゃらにやるほどの仕事も無くなってきて、ぽつりぽつりと暇な時間ができてきた。
休みの日にすることが何もなくなっていることに気づいた。
生活に目を向けようと思った。
現実はガタガタだった
息抜きでもあり、勉強でもあった本の購入が嵩んで
ギリギリの状態になっていた
本をほとんど買わなく…買えなくなった
そこから落ち込み始めた
今後のことを考えても、以前のように超過した分の給料の申請は御法度になり、頑張っても給料が増えなくなった。それでも一人で頑張り過ぎてきたせいか、周りが助けてくれることがなくなっていた
1日休日を取れば、その日の荷物はほとんど丸残りして、その分時間を取られるようになった
なんでも一人でやろうとし過ぎたのかもしれない
うつはますますひどくなった
何日かして、朝二度寝をしてしまった日があった
それがきっかけだった
なんのためにそんなに働くのか
自分の時間を生きていない。店のため、他人の時間を生きていた
母の残滓が見えた
ああ、もう100点取らなくてもいいんだ
洗濯を干してなくても叱られないんだ
まあまあなところで、休んでいいんだ
そう思った
ここから先はまだ終わっていない
これから作るところだ
どんなものが出来上がるかわからないけれど
そんなに焦らなくていいのだ
まだまだ長い時間生きる可能性の方が高い
もう自分のために生きてもいいのかもしれない
うつは少し陰りを残して消えていた
これからも同じことを繰り返すだろう
そうしたらまたこの心持ちに戻ってこよう
明日は日曜
混むだろう
でもできることは限られてる。ならその中で自分なりにちゃんとやればいい。満点の接客なんて経験の浅い私には難しいのだ。失敗して覚えよう
できるだけお客さんに迷惑のかからない形で
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