見出し画像

索引(index)#1

この索引(Index)は 1ページ目です。
ここでは主に発達障害(神経発達症)と社会の関係や、発達障害(神経発達症)を持つ私の特徴を扱います。

発達障害(神経発達症)を持つ私の過去を振り返るエピソードと、自助会の運営に関する記事は、索引(Index)#2 を参照してください。


Who are You ?(まえがき)

Who am I ? #1 当事者目線の記事、書きます。
 居住地の新潟で、発達障害当事者会を主催しながらコツコツと書き溜めたコラム記事を元手に副業ライターとしての仕事を模索中…。
質問・問い合わせがありましたら、
記事最下段「クリエイターへのお問合わせ」からメールにてお願いします。

Who am I ? #2 こんにちは、HOTASです。
 note ではASD当事者コラム Dark Grey Rainbow を連載中。
居住地の新潟市で発達障害者の当事者会「@HOTASの会」を主宰、会の運営告知やコラム記事更新のお知らせは、いろいろ呟く Twitter にて。
その他、見上げる写真に一言添える Instagram もあります!

Dark Grey Rainbow(発達障害のお話)

はじめに

Episode 1 「本当は話がしたいのです。」
このシリーズのコンセプトについて。
 表題はRADWIMPSの透明人間18号に由来します。
善と悪の狭間の色で、虹をかき混ぜると灰色になるのだそうです。

Episode 108 感謝の気持ちでいっぱいです。
目指すのは理論ではないASD思考ブログであること。

 このブログは自分探しの旅でもあり、好き嫌い、良い悪いといった感情論ではない発達障害のリアルを発信したい気持ちの表れでもあります。
感情抜きの思考を扱うブログって少ないと思うから。

Episode 180 私たちは普通です。
ASDという特性を持つ私は「普通の人間」であるということ。

 私がこのブログに託す思いは、発達障害を持つ人のことを「普通」の人に伝えたいということです。
そして、発達障害を持つ人も「普通の人間」だとわかってほしいと言うことです。

Episode 196 改めて思いなおすのです。
感情論ではないリアルに拘るブログを書く理由について。

 少しでもマジョリティにマイノリティの感覚が伝わって欲しい…。
そのためには、感情論ではないASDの思考を扱う話が必要だと思っています。

Episode 275 覚悟をもって生きるのです。
ASDという発達障害を持つことに重要な意味があるということ。

 自らの根幹を成す思考の中心を否定することは苦しい。
キキが魔女としてのアイデンティティを獲得するに必要だったのは、おそらく「覚悟」。
そして私がハッピーに生活するために必要なのも、きっと覚悟なのだろうと。

Episode 308 ハイブリッドな私です。
障害者は「全てにおいて障害者なのではない」ということについて。

 私の生きるこの時代にも、この時代の流れとか仕組みとかがあって、みながその流れに乗って生きようとしているのだと思います。
それが所謂「ふつう」と呼ばれる社会的な常識なのだと思います。
「障害」と言うのはその時代によって、考え方によって枠組みが変わって行くものだと私は考えているのです。

Episode 329 最初から最初から読んで欲しいのです。
このアカウントは、最初からゆっくり読むことをお勧めします。

 最近読者になってくださった皆さま、長くおつき合いしてくださっている皆さま、ご愛読いただきましてありがとうございます。
これからも「5分で読める発達障害のハナシ」というスタイルの一話完結で書いていきたいと思います。
その上で、ぜひ是非、ブログの先頭から目を通して下さい。

Episode 367 原点回帰で思うのです。
ブログ開設一年で思ったこと。

 自分自身の思考整理と定型者が理解しやすい発達障害者(ASD)の感覚の話を書き続けた結果、自分自身を見つめ直す大きな機会になったと思っています。

Episode 369 暫くお休みいただきます。
続けることで得るもの、立ち止まることで得ること。

 このブログを書き始めて皆勤賞で一年が経過しました。
皆様の支えがあって順調に進んできましたが、ここで一度立ち止まって、パートナーや家族との時間をもう少し増やそうと思います。

Episode 654 求めるだけではダメなのです。
2023年の元日に思った、時代の流れに乗れない者へのケアについて。

 社会に変化を与える「多様性」は、この価値観のアップデートにより実現されるとすれば、価値観の急激な変化についてこられない層へのアプローチは必須なのでしょう。
新しい価値観の導入は、古い価値観を捨て切れない人へのケアとセットなのだと思います。


社会と発達障害者の私の間にあるもの

Episode 2「『ここにいるよ』って言えないのです。」
少数派が自らの存在を隠そうとする理由について。
 多数派からは少数派に気が付かないんです。
少数派は多数派の中に居場所を作ろうと努力して本当の姿を隠します。

Episode 3 どこかに線を引きたいのです。
普通を知るために「普通ではない」を確定したいという思いについて。
 精神障害者保健福祉手帳を取得した理由は好奇心でした。
世の中がどこから障害者としての線を引くのかを知りたかったからです。

Episode 4 知ってもらいたい理由があるのです。
自分の難しい部分を伝える勇気について。
 自分の「普通ではない部分」を突かれたくないって言うのが本音なんでしょうね。

Episode 12 自分で選んではいないのです。
障害を望んで障害者になる人はいないことについて。
 高校や大学などの進学先をを選ぶようにLGBTを選んだのかと言えば、確実にNOでしょう。
発達障害や身体障害についても同じことだと思います。
自らの意思で障害者になろうとした人がいると思いますか?

Episode 19 きっとみんなちがうのです。
「障害」を回避する方法と個人ごとの特長について。
 私は聴覚に過敏/鈍麻があり、弱いながらディスレクシアの傾向もあります。
その結果として、無意識のうちに視覚に頼る認知が鍛えられたのではないか、と思うのです。

Episode 24 これは病気じゃないんです。
自分の能力に合わせて適切に発達した結果としての発達障害ということ。
 症例名のある発達障害があるから、過敏/鈍麻のような特徴が発生するわけではない、本当はその逆だと経験的に私は気が付いてます。

Episode 26 ひとりが好きではないのです。
自分の「楽」が世間の感覚と合わないということ。
 「苦手から逃げる≒ひとりになる」は正解でも「ひとりでいる=ひとりが好き」ではないのです。

Episode 31 歪みなんかじゃないのです。
持ち合わせた能力を使って成長するという「当たり前のこと」とは。
 「自分自身に与えられた範囲で出来ることをしようとした」という視点に立って、本を破る遊びをするヘレンと、そばにいて喋らない私と、楽しそうに会話する定型者の違いって、いったい何だろう?

Episode 32 in ではなくて on なのです。
障害者とされる私が社会で生活するとは、どんなこと?
 某大手予備校のCMで、講師が英語の講義をしてる場面があります。
CMの中で彼は「くっついてるから on なんだ!」と言い放つのです。
私は最近、この on の感覚が、私のようなASDの人の感覚と定型者の感覚を繋ぐカギになるのではないかと感じています。

Episode 56 理由はひとつじゃないんです。
見えている状態は同じでも、その中身は人それぞれだということ。

 ASDに限らず発達障害って言葉で一括りにされるものは、たったひと言で括るには広すぎる背景があると思います。
発達障害はウイルスや細菌が原因の病気ではありませんから、特定の症状が出るワケがないのです。

Episode 66 サインはいくつもあるのです。
「ASDの症状があると自覚する≠手帳を取得する」ということについて。

 発達障害を持っている人に共通なのは、困ってなければ手帳を取ってないだろうということです。
発達凸凹で突出した能力を社会的に認められ、収入もあって安定できていれば手帳は要りません…でも。

Episode 72 身に覚えがあるのです。
発達障害の「専門書」の難しさは、具体例にピンとくるものが無いから。

 寝る間も惜しんでボクシングに打ち込み、寝ても覚めてもボクシングと向き合い、白い灰になって力尽きるジョー。
何かどこかで身に覚えがある話です。

Episode 77 自分が基準になるのです。
私が社会と繋がる上で必要な「距離の測り方」について。

 座標軸の中心には必ず私がいます。
比較の対象は常に私…あの人とこの人を比べる時も、基準点が私である以上、ある意味私も含めた比較です。

Episode 100 バラバラなのは当然です。
得意や苦手が違えば感覚が変わるのは当然だと知って欲しいことについて。

 目に見える個性がバラバラなのに、同じ発達障害のカテゴリに分類されるのは何でなのか?
その基本的な部分の説明を丁寧にしていく必要があると思っています。

Episode 105 知らずに擦り切れてしまうのです。
早期に診断されないことによる問題点について。

 私は社会に出て苦しむ前にキチンとした診断を受け、自分自身でそれを理解することが大事だと思います。
それを公表するかしないかは、また別の問題…今の世の中、発達障害への認知は高まってきていますが、それが正しく認知されているかは時と場所に依るのが現状です。

Episode 137 制度だけではダメなのです。
「制度がある」と「理解がある」とが全てイコールで繋がらに事について。

 学校教育に支援級があるのは良いことだとは思います。
ただ、そこにある「線」が気になる。
同じことが障害者雇用の問題でも起こっているのだろうと思います。
障害者雇用の「枠」ってなんだ?

Episode 141 日にち薬が必要です。
巡り合わせによって生まれる出会いで気が付くことが多くある幸運に感謝。

 子どもたちが躓いたことが、私のコミュニケーション能力で折れていた部分に添える添え木だったのです。
ゆっくりと時間を掛けて子どもたちが回復し成長していくように、私の感覚もこの時にちょっとづつ成長したのだろうと思います。

Episode 161 エッセンスにしかなりません。
発達障害は人それぞれで、結局は自分探しの旅であるということについて。

 「ライフハック」は自分で作り上げるもの。
誰かの成功例や失敗例は私の人生の参考になる。
でも、それはあくまでも自分の作り上げる「ライフハック」のエッセンスにしかならない。
そこを間違えてはいけないと思うのです。

Episode 175 女性が道標になるのです。
障害を人権の問題と捉えた時、女性の人権問題は最先端の道標になる話。

 女性の人権問題は、障害者の人権問題の遥か先を行くのです。
私は女性の人権が普通に認められる過程と障害者問題の道程を、重ねてみている部分があるのです。

Episode 176 必要なことが大事です。
雇用と労働を考えた時、その労働力が必要とされることが大事ということ。

 会社の屋台骨を支える現場の熟練工(≒おばちゃん)がいなくなってしまうのはすごく困るワケで、現場の作業員への福利厚生は必然的に厚くなっていくのです。

Episode 177 まだまだ道の途中です。
女性労働者の地位向上を障害者雇用と比較検討してみるというハナシ。

 会社は社会通念を壊す目的で女性が仕事をしやすい環境を整えていったのかといえば、明らかに No なワケでして、必要に迫られた施策が女性の労働環境の向上に繋がっただけなのだと言うことです。

Episode 178 そこにジレンマがあるのです。
発達障害者のカミングアウトが難しいことについて。

 発達障害をカミングアウトすれば、収入が下がるかもしれない、でも言わなきゃ発達障害者の地位は向上しない。
発達障害をカミングアウトする人が、ごく一部の成功者になってしまうのは、公表しても揺るがない立場と収入がある人じゃないと自分の生活が脅かされるからなのだと思うのです。

Episode 179 技術だけではダメなのです。
発達障害者の就職支援が就職する技術だけでは意味がない件について。

 詳しくは知らないのですが、あの指導って「一般枠での就労」を目指している、就職することだけを目的としている様に見えてしまうのです。
本当に重要なのは、仕事を始めてから後のこと、あの指導はそこのケアが含まれているのか…それはすごく気になります。

Episode 181 そして前を向くのです。
発達障害を受け入れて絶望したその先にあるもの。

 前から何度も言っているのですが、早い段階で発達障害に気が付くことが重要です。
でも気が付くだけではダメなんです。
自分のその特性を劣等感なく受け入れて、どうやったら社会で生活できるのか自分のやり方を見つけることが重要です。

 Episode 182 ルールが無いのが痛いのです。
社会がシンプルをシンプルに考えられないことへのジレンマについて①。

 障害者の雇用って、数ばかりに目が行っていませんか。
キチンと自転車が走れる環境を作るためのルールが欲しい…私はそう思うのです。

Episode 183 普通の流れに乗りたいのです。
社会がシンプルをシンプルに考えられないことへのジレンマについて②。
 自転車の車道左側走行。
それは「普通に仕事をする」という流れに乗る例えです。
企業は「ゆっくりでも良いから、自転車も車道の左側を走るんだよー!」ってアナウンスしなければならないと思いますし、そう言う環境を作っていくべきなんだろうと思うのです。

Episode 184 走れる場所を選ぶのです。
社会がシンプルをシンプルに考えられないことへのジレンマについて③。
 
障害者雇用の法律とかルールとか、どこか的外れなことを言っているような気がしてしまうのは、きっとこの根本的な「仕事」という行為に対しての発想からズレたところで議論が起こっているからだと思うのです。

Episode 189 私も捉われているのです。
既定の概念を崩したい思いと、乗らないと生きられない事実との間で。

 どうやって生きていくのか。
価値観という社会通念と自分の意見のギャップを埋められずに、保守に座って流される自分がいます。

Episode 195 それはきっと両方です。
 発達障害が個性か障害かと聞かれたら、きっとそれは両方なのです。

 マジョリティ側から押し付けるように「個性」だとか「障害」だとか言われて線引きされるから問題になるような気がします。

Episode 205 助けを求めても良いのです。
発達障害は、通常の通学路が工事中なら迂回路を考えるみたいなもの。

 アウトプットされてくる目的地が同じである以上、プロセスの部分はあまり評価されないのが今の世の中です。

Episode 210 「一緒に出来る」が欲しいのです。
ハンデを障害と見るか、一緒にプレイするゲタと見るかの違いについて。

 「合理的配慮」とはゴルフのハンディキャップと同じであって、一緒にプレーして楽しいコンペになるように、不足を補うものだと思うのです。

Episode 211 全て同じではありません。
障害の啓発の難しさとは、当事者視点に立てないことによる。

 メディアでカサンドラ症候群の特集があったようです。
ASD者と定型者カップルの関係が、洩れなくカサンドラ症候群になるような偏見が広がらないことを祈ります。

Episode 212 原因ではなく症状です。
ASDが見た目の症状により原因が違うとは限らないことについて。

 人によって表現される形が異なる…その種類が大きく分けて3種類って考えれば、原因が1つで答えが3つの理由が見えてくるのです。
つまり、スペクトラムなのはアウトプットされる症状で、原因ではないってことです。

Episode 215 練習すればできるのです。
ASDだから得意とか苦手ではなく、その人が得意とか苦手ということ。

 こうやったら上手く行く…を作り上げるのに要領が悪いがゆえに時間が掛かっても、作り上げられた「上手く行く」を実行するのは、どれがどんなに複雑な同時進行を含んでいようと関係ありません。

Episode 217 衝撃の「水」が必要です。
ASDの私がASDであると気が付くためにはインパクトが必要だということ。

 定型者であるあなたと、発達障害者である私の感性の差を私が理解するのか?
それには、ヘレンケラーの「水」が必要です。

Episode 230 人生を否定できません。
ASDが治るとして、では今までの私の人生とは何だったのか?

 根本の原因である「過敏/鈍麻」が何らかの方法で定型者と同じ「正常な感覚」に治せる治療法があったとして、あなたの自分自身が積み上げてきた「経験値」を放棄できるのか?
リセット…つまりそれは、自分自身を捨てられるかを問われることになると私は思うのです。

Episode 244 これはOSのバグなのです。
ASDで言われる「型」っていったい何だろう…。

 物理的におきている脳機能の問題の深刻さ(物理的な問題の範囲)、
不具合を感じる位置(過敏/鈍麻を感じる感覚の数や位置)、
後天的な環境と回避法の獲得(両親や周囲との人間関係や環境から得る知識)
…がミックスされて、独特な世界観が作られるということだと理解しています。
こう考えた時に、それぞれの「型」の特徴を、いくつも併せ持つ私が見えてくるのです。

Episode 247 後悔先に立たずです。
私が発達障害の早期発見を勧めるのは、自分自身の経験による後悔。

 もっと早く気づいていれば…。
私が発達障害の劣等感のない自認を強く訴えるのは、私自身のパートナーに対しての後悔があるからなのです。

Episode 248 「がんばらない」が大切です。
社会適応を、努力する意味と努力しない意味と。

 私自身が痛い思いをして、出世のコースから完全に外されて、その結果ようやく「がんばらない」という気持ちの獲得に繋がったように思います。
今思えば、私のASD自認の第一歩は「がんばらない」だったのです。

Episode 256 ユニバーサルデザインを目指すのです。
多数派と少数派の関係は、分母の数で意味合いを変えること。

 私たち夫婦が目指すのは、左右対称のスプーンを出すケーキ屋さん。
それを「ユニバーサルデザイン」というのだと、私は最近そんなことを思うのです。

Episode 257 「擬態」を自覚するのです。
擬態が世の中を渡る「命綱」だとしたら、それは本当に悪なのか?

 私はASDを自覚する過程では、この「擬態」そのものを否定する必要はないと思っています。
でも「擬態」であるという自覚は非常に重要だとも思います。

Episode 258 伴走者が必要です。
見ている世界が共通でも、見ている人の感覚が違うとは?

 定型者であるパートナーは、ASDである私が「ズレている」ということにいち早く気が付きます。
つまり、結果的にそれを指摘して調整するのは定型者であるパートナーの役目になってしまうということです。

Episode 262 弓矢で狩りをするのです。
自己肯定感と発達障害の自覚/自認には大きな関係性があると感じること。

 成長していく過程で突き抜けた自己肯定感を持ち得るかという点で発達障害の自認時期が変化する様に感じるのです。
裏を返せば、どのタイミングで迷うのか…という話です。

Episode 273 アイデンティティが大切です。
「魔女の宅急便」に見る、マイノリティのアイデンティティとは何か?

 「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」
糸井重里氏による、このコピーに唸る。
そうか、マイノリティであることに対してのアイデンティティか。

Episode 309 棒グラフのイメージです。
障害者手帳を持ち、それを使うことに対してのイメージはなにか?

 障害者手帳ってあるじゃないですか。
あれって、取得する前と後で、ものすごく印象が違うんですよ。

Episode 314 2度目の検査で気付くのです。
WAIS検査でわかるものとわからないもの。

 2回目の結果で発見したことは、「問題は、インプットとアウトプットのバランスが悪いこと」…ということです。

Episode 316 ピラミッドではないのです。
ピラミッド型社会が全てにおいて優れているワケではないと感じる件。

 能力があっても社会の仕組みが邪魔をしてプラスの部分を活かし切れない「隠れギフテッド」は、きっと多数存在すると思います。
それは、この社会が人を束ねるピラミッドの形をしている場合が多いからなのでしょう。

Episode 317 自分で才能を作るのです。
私が思うギフテッドとは、ダイバーシティの結果として成立する。

 私の思う発達障害に絡む「ギフテッド(2E)」像とは、先天的な突出した才能がある人…と言うよりは、発達障害があることで発生する凹部分をカバーするために、結果的に使える凸部分を強力に鍛え上げることになっただろう…と、いうこと。

Episode 322 女性は男性とは違うのです。
男女の差が身体能力・機能以外の何かにも影響されていると感じた件。

 原因が特定できるウイルス性の疾患などと違って決まった症状が現れるわけではないのですから、発達障害などは診断する人の「主観」が、少なからず診断名に影響すると私は思っているのです。

Episode 331 ナマズが地震を起こします。
「社会モデル」で考える障害者就労政策の限界について。

 この時に発生する巨大な力が大地を大きく揺らす地震…というのが、誰もが知っている地震発生のメカニズムです。
発達障害と雇用の関係は、当にこの地震が起きるメカニズムそのもの。
定型群という雇用者(会社)側の大陸の下に潜り込んだ発達障害プレートが、その摩擦に耐えられなくなるワケですよ。

Episode 339 海水浴場で思うのです。
多様性を阻害する一元性が覆う社会で生きるということ。

 私と同じように考える人ばかりがこの国に住んでいるワケではないのです。
実際に泊まった宿の温泉施設は「刺青・タトゥーのある方の入浴を禁止します」との張り紙があってですね、当然のように刺青やタトゥーのある方は入ってこないワケですよ。
でも、宿にはタトゥーのある方が泊っているのも事実なんですよね。

Episode 355 自分のスタイルで良いのです。
ニューロダイバーシティの基本についての自己解釈、その初版。

 私はASD者です。
定型者の思考に寄せようとしても完全に寄せることは出来ないし、それは自分の思考とは違う借り物のハリボテ。
私の短所に気が付いても尚、一緒にいてくれるパートナーなのだから、パートナーに気持ちを伝えるスタイルを作ろう!

Episode 357 声に出すのが大事です。
介護現場で働くパートナーに思う、福祉とそれを取り巻く環境について。

 パートナーが言うに「育児と介護は自宅で嫁が担ってきたことだからな」…です。
女の家での「家事」が「仕事」として分離独立したって、「女仕事」の基本給が付いてまわる。

Episode 373 最優先は「認める」です。
障害の理解は、その障害を認めることから始まるのだと思う件。

 努力しなくていいとは言いません。
努力することによって広がる世界があるのは明らかです。
でも、努力して完全を目指せば、失敗することで挫折し、疲れて、絶望してしまうかもしれません。

Episode 377 手帳の更新で考えます。
2年ごとの手帳の更新で感じる、ASDを障害と見るモヤモヤについて。

 発達障害という脳機能特性を精神障害の枠組みでとらえることに一定の違和感を覚えつつ、更新手続きをしなければならない…。
このモヤモヤした釈然としない感覚を、どうにかしててマジョリティの皆さんにお伝えしたい。

Episode 378 正義が勝つとは限りません。
世の中を作りあげるのは為政者の都合であることを知ったキッカケとは。

 必ずしも正義が勝つとは限らない…ということを知らしめたこの二作品は、私の歴史学への興味を掻き立てるのです。
兄弟で銃口を突き付け合う悲劇を生んだ戦争も、それぞれの立場からは正義しか語られない…ガンダムも、そう。
多分…このあたりの思考が、私の人生観に影響しているのです。

Episode 381 民意が先は当然です。
行政/政府が主導する対策はリアクションで、アクションではないのです。

 私は学生時代から、少数派が生き残る知恵として自助・共助が生まれることを知っていました。
社会の支援は自助・共助がムーブメントとなって世論を押し上げることによって生まれるのです。

Episode 385 保険を掛けているのです。
障害者手帳を「お守り」として持つということ。

 手帳を持っていること、ヘルプマークを持っていること。
それは私に必要な「お守り」という自衛手段だと思うのです。

Episode 392 「チン」を抱えて生きるのです。
トンチンカンという言葉と「チン」を抱えて生きるということの意味。

 in ではなくて、on。
定型者の社会(≒世の中)といかに接続するか、という大命題をみんなそれぞれ抱えているんだと思います。
私は、無理矢理 in してストレスを抱えるより、違う部分があることを認めて、必要なところが必要な時に on できればいいのではないかと、感じるのです。

Episode 393 認めてこその平等です。
平等を理解するためには違いがあることを認める必要があるということ。

 私は人間という動物として、性差…男女の違いは当然あると思っています。
その上に個体差があり、環境差もあるワケです。
先ず、差があるということを認めること…それが平等の前提なのだと思うのです。

Episode 458 寄せると治るは違うのです。
「普通」に寄せるほどに上がってしまうハードルがないか…と考える。

 ASDはこれ(擬態)をすることで定型社会で活動できるワケですが…残念ながら、これが「頑張ってやっているもの」なのか「定型の方のようにナチュラルに出来るもの」なのかの判断が、発達障害の当事者にも、それを見ている定型者にもできないのです。

Episode 461 自覚は難しいことなのです。
ASDの自覚が想像以上に難しいという現実について。
 何故ASDの自覚が出来ないのか?
それは、既得権益の上での安定を目指す保守の思想を持ち続けるから。
困りごとを問題提起するには、困りごとの理解が必要なのですよ。
ところが、困りごとの自覚が持てない…なぜならば先天的で比較すべき対象がないから。

Episode 462 保守ではないと気付きません。
自覚したマイノリティ(ASD)がマジョリティの世界で生きるとは。

 ザビ家が権力を失い、ファシズムの看板を降ろすに至ったジオンは…それでも本来持つ革新の意志に気が付き、勢力としてあり続ける。
大きな犠牲を払って自覚したジオンは、それでも保守優勢の社会で生きていかなければなりません。

Episode 463 トロイの木馬と気付きません。
未自覚ASDの「仮想保守」が作り出す「トロイの木馬」とは?

 カサンドラになってしまったあなたに向かって「何で相手がASDだと気が付かなかったのか?」みたいな話を耳にすることがあります。
カサンドラに追い込むASDの最大の問題は、「保守の仮面をかぶった革新」という思考パタンだと思っています。

Episode 464 大きな振れ幅が惑わします。
アスペルガー症候群に由来するタイプ分けの功罪について。

 外に向く傾向と、内に向く傾向の差が大きい。
それが同一の人間に起こるから、見ている人は驚いてしまうワケです。
この振れ幅の大きさがカサンドラを生み出してしまう要因なのかも…と思うのです。

Episode 465 人の評価が気になります。
ASDの「タイプ(型)」を巡る内側と外側の感覚に差があることについて。
 皆さんの身近にいるASDさんを「積極奇異型」「受動型」「孤立型」のどれかに当てはめようとしているように感じます。
それはまるで、ASDという3両編成の電車を外から見ているような感じ…あなたの知っているASDさんはどの車両に乗っているのか…を、探している感じでしょうか。

Episode 466 自分の意思がわかりません。
ASD者の価値観と社会的常識の関係性について。

 パートナーが言う「ちゃんと」とは、「社会的価値基準ではなくて、あなたはどう思っているの?」ということを聞いているのだと思います。
それを度々指摘されるほど、自分の考えが空洞化しているということ。
指摘されるたびに「私はどう考えるのか」を突き付けられるのです。

Episode 467 常識は厄介なものなのです。
自分の意見を主張してダメ出しを受け続けることで何を学ぶのか?

 私が掴んだ「常識」とは、いったい何だったのか?
世間の言う「常識」とはいったい何なのか?
それに気が付くということが大事だということになるのでしょうが、生きるためのライフハックとして外部から「常識」を取り込むことに慣れているASDの私は、未だにこのトラップに嵌ることがあってですね…。

Episode 470 自分を知るのは大事です。
発達障害は個性か障害か…を考えるベースになるモノは私自身かも。

 ASDという「特性」をもつ私。
それは、社会生活やコミュニケーションの困難を抱える「障害」の原因であり、私という人間を作り上げている「個性」の一部であるってこと。
どちらかではなく、その両方であるということ。
そして、それが私のアイデンティティを作り上げる大事な要素であるということ。

Episode 471 そんなに閉じてはいないのです。
ASDが、なぜ「自閉」として捉えられるのか?

 怒られることが多くて、コッソリ隠した「私の気持ち」。
持っていることも忘れるほどにホコリを被ってしまってますが…。
それを表に出すのに、敷居なんてないハズなんですけどね。
本当は見せたいと思っている…だと思うんですけどね。

Episode 472 自問自答をするのです。
色んなタイプの「自閉」がASDに統一されたワケを考えてみる件。

 合意を求めようとしないから自己完結してしまう…周囲からは周りと係わろうとしない人…で、自閉。
乱暴な言い方をすれば、「それではマズい!」と気が付いた自閉症者の中に、合意できないことを「誤魔化そうとする」ヤツがいる、それが一見して同じ症状だとわかりにくくしている…ってだけのことです。

Episode 477 自覚が寂しさを生むのです。
ASDのアイデンティティとは、いったい何なのかを考える、その1。

 私の中の「オオカミ」は、消えない。
その寂しさから、自分自身のアイデンティティを見つけられるのか。

Episode 478 里が居場所とは限りません。
ASDのアイデンティティとは、いったい何なのかを考える、その2。
 
必ずしも人間が住む「里」が、全てのASDの居場所だと思っていないのです。
野生生物が住む「山」を居場所とし、里の人間と適正な距離を保ちながら良好な関係を築く…そんな生き方もアリだと思っているのです。
そのために重要なのは、ASDの自覚があること。

Episode 494 線を消していくのです。
スタートラインに惹かれた線を、どのように消していくのかを考える。

 「診断を受け入れる」とは、この「引かれた線を受け入れる」ということになるのだろうと思います…でも、それだと「先にお話ししたASDの医学的知見」と相いれません。
つまりね、「引けない線を引くのが普通」だというダブスタを受け入れるってことになるのだろうと私は思うのです。

Episode 497 新語が死語を生むのです。
日本で暮らすとは、日本語の影響を受けるということ。

 日本語で「人 with 障害」の考え方は、なかなか難しい…。
日本で各種の啓発活動が難しい理由は、このあたりの言語構造上の理由もあるのではないか…「障害者」という単語を眺めて、ボンヤリとそんなことを思うのです。

Episode 499 欠損の自覚をするのです。
障害を自覚するという本質は、自分の位置を正確に測定すること。
 発達障害の場合、見た目や性質上の問題で「欠損」の感覚が薄いのは構造的に「自他ともに仕方がないこと」だと思います。
だから定型に寄せようと努力してしまうのだと思います。
「発達障害を受け入れる」とは、"person with disabilities" の感覚を理解することだと私は思うのです。

Episode 503 ネガとポジがあるのです。
障害のカミングアウトに必要な環境とは何か?

 配慮してもらうためのネガティブなカミングアウトと、発達障害と "with" する私を認識してもらうポジティブなカミングアウト。
おそらく、ポジティブなカミングアウトには「見返り」はないし、そんなの期待もしていないハズ。

Episode 507 氷の城の希望です。
自己をコントロールするために必要なのは自己の解放だと思うハナシ。

 自分の障害を認めるためには、障害を制御せずに解放する空間が必要なのだと私は思います。
己を知った上で、どのように共存するかを考えることが大事なのだと思います。

Episode 516 蟹工船の上なのです。
発達障害を「資本論」的に読み解くと、現在の立ち位置が見えるかな。

 私たちASDは、定型というマジョリティが優位の社会においてマイノリティの立場に置かれているワケです。
マイノリティがマジョリティに対して権利を主張して行く…とは、先に出した例に喩えるなら「労働者側」であり「革新派」という立ち位置になるワケです。

Episode 518 ふたつに分けて考えます。
渦中にあると、社会の認識とズレることがあることに注意が必要で…。

 あなたとわたしという個人的な関係と、私と社会という社会的な関係は同じにはならないハズです。
発達障害に関する「プライベート」と「パブリック」…この二つを切り分けて管理することは、すごく大切なのだ…と、私は思うのです。

Episode 531 二種類の強情があるのです。
融通が利かないASDの拘りの発生個所はひとつじゃないよね。

 「ASDの融通の利かなさ」にぶつかった時、その原因がどこから来ているのかを考える必要があります。
融通が利かない理由が「自分の意思の暴走」なのか、社会性を隠れ蓑にした「常識の思いこみ」なのか。

Episode 532 伝わらないことが障壁です。
理解する、理解させるとは、一体どういうことなのか?

 発達障害などの目に見えない障害の場合、定型の方が「普通に」持ち得る理解に足りない部分を「壁」とする…ということになるのでしょうか。
これを作っているのは、「理解する」ではなくて「理解させる」が基本の教育と社会構造なのかもしれないと、私は思うことがあるのです。

Episode 533 一択だけだと窮屈です。
経済成長と人権には一定の関係性があるかも知れません。

 「豊かになるため」に追いかけている内は、選択肢が限定される…これが勤勉性と同調圧力を作りあげるという辺りは、日本より後発で、今このタイミングで経済発展著しい国々を見れば一目瞭然です。
韓国然り、中国然り、東南アジア諸国然り…それは、日本の通ってきた道であると思うのです。
後発になればなるほど、自らの意思で決められる範囲が狭まるのではないか?

Episode 534 制動力が重要です。
自分の凸を生かすために必要な、最も重要な能力とは?

 細田守監督のアニメーション映画「時をかける少女」で描かれる、下り坂の途中で自転車のブレーキが壊れる、目の前に遮断機の下りた踏切、あの息を飲む「止まれない恐怖」を味わってほしくないから…。

Episode 537 華麗にステップを踏むのです。
マイノリティって何だろう…を左利きを題材に考えてみるハナシ。

 ひと昔前は右足でクロスを上げる様に練習した人が多かったけれど、最近では左でもキレイにクロスを上げられるようにステップの腕を磨く人が増えたってことでしょうね。
そして華麗にステップを踏む人を多く見かける様になって、見慣れた…これが、サウスポーというマイノリティを取り巻く現状です。

Episode 538 アシンメトリーな社会です。
マイノリティが求めている「平等/公平」とは何なのか?

 不便そうに左を使うのを見かねて「専用品」を用意するのは、右回りの野球を準備するみたいなものだと思います。
そこを見誤って欲しくないのです。
左利きにしか使えないものを、右利きの人は用意すべきではありません。
左利きの人が左専用のものを用意するときは、自分で自分用として用意しますから。

Episode 539 当事者抜きでピンボケです。
専用の道具が効果を発揮するのは、個人が独占して占有するから。

 左利きのプロの理容師が「自分の仕事の為に左手用のハサミをフルセットで用意する」…は、アリです。
プロのハサミですからね、他の誰にも使わせないでしょうし、出張で仕事に行くときも仕事道具として持って行くでしょう。
でも、どこの家にもどこの事務所の机にも、左手用のハサミを用意してあるか…と問われれば「No」ですよね。

Episode 540 当事者専用は不便です。
少数派の主張が多数派のガマンを強いてはいけない理由とは?

 何度も言うのですが、世の中はマジョリティに有利にできているのですよ。
マイノリティがその中に「不便さ」を見つけ、改善を要求したとしても、マイノリティのみにしか効果が表れないような施策を求めれば、必ずマジョリティに「ガマン」を強いることになります。

Episode 541 工夫の中身が違うのです。
ライフハックと合理的配慮の決定的な違いとは何か?

 「ライフハック」は個人が生み出した「上手くいく方法」なのだ…ということをお話ししたかったからです。
この方法は右手首から先がない彼がプレーするには理に適った方法だったのです…が、果たして彼以外の誰かがやってみて、上手くいくかは…かなり難しいでしょうねぇ。

Episode 542 配慮は支援ではないのです。
配慮する側が「気に掛ける」ことは配慮とは呼ばないのではないか…と。

 「配慮」とは、機材や位置取りを調整することでマイノリティの生活の不便を緩和することで、マジョリティから「支援」を引き出すためのディール(「取引」「対応」)の意味合いは、ない…と私は思っています。
一方で、どうしても出来ないことを手助けしてもらうことが「支援」だと私は思うのです。

Episode 543 企業の文化の問題です。
合意した配慮が定期的に見直されることは、とても重要なことなのです。

 「合意」を大事にしているか…というのは「一般就労」「障害者雇用」という枠で考える話ではなくて、「企業の文化」としての従業員との接し方の問題であるように感じるのです。

Episode 546 スタート地点の確認です。
配慮の本質を考えるほどに、自己知覚の重要性が見えてくるということ。

 私の立ち位置を知る。
それは「ライフハック」や「合理的配慮」のスタート地点なのです。
スタートがぼやけていては、「ライフハック」や「合理的配慮」の方向性が正しいのかもわかりませんよね。

Episode 547 自分の座標を知るのです。
全ては自分の立ち位置が、比較の対象からどの位置にあるかを知ってから。

 ここまでの話はを振り返れば、全て私が「発達障害(マイノリティ)だと気が付いてから」感じた「社会との距離感」のハナシだったワケです。
例えば、地球と月は「天文学」という学問で正確に位置関係を測定されているワケです。
では、定型の社会は「地球」、ASDの私が「月」だとした時、地球と月の位置関係は正確に測定されていますか?…ということです。

Episode 548 "Water !"の衝撃が必要です。
ヘレン・ケラーに思う「自閉症の自覚」に周囲ができることとは?

 その「Water !」にたどり着くまでに周囲の人ができることは、手が届くところに「水」と言うモノと「Water」という表記を置き続けることです。
「Water !」にたどり着くには、それらを当事者が能動的に結び付けること以外ありません。

Episode 554 仮面が無いのが自閉です。
社会性を身に付けるとは、仮面を身に付けることかもしれない件。

 社会性という仮面を被ることで、世の中の摩擦を極力抑えることに成功したのが定型と呼ばれる人だとしたら、ASDの私は「仮面を持たない人間」ということになる…と思います。

Episode 555 面が割れてしまうです。
仮面を身に付けることに失敗した私が付けたモノは、お面だった件。

 おそらくASDの人も、社会で生きていく上で「社会性を身に付ける必要がある」ということ自体は気が付いているのです。
ただ、その社会性が形成されなかったから、必要に迫られて「顔を作る」ということを行うのだと思うのです。

Episode 556 聞けない理由があるのです。
指摘を受け入れることが難しいASDの心境は、お面を身に付けているから。

 「指摘される」とは、自分のやり方の「理に適っていない部分を示される」ことになるワケで、そこの部分だけを修正すればより良い状態に近づくことになるハズ…なのですが、「ペルソナ」の形成が弱い私は、指摘を受けた部分を「私の侵害」として受け取ることになるワケです。

Episode 560 型が全てではないのです。
「ASDのタイプ分類って、結局何なのだろう」を考える件。

 カサンドラ症候群と呼ばれる「ASD×定型」のパートナーシップでよく聞く「外では良い人だけでど、家ではモラハラ…」って言われる類の人って、孤立型なの?
家の中では「オレ様キャラ」だとすれば尊大型だろうけど、それって職場の上司に向かって通用するの?
そこは多分…尊大の部分が影を潜め、上司に「良い顔」をする受動傾向が…あれ?

Episode 567 パラリンピックに思うのです。
パラリンピックに思う、障害の受容とはどういうことなのか。

 手帳を取得して変わったことは、この考え方なのだと思うのです。
確定診断や手帳取得で「ライン」が引かれるのは必要だと思うのですよ。
その引かれた「ライン」をどのように取り除いていくのか…それが配慮であり支援である、と。

Episode 568 相対基準がデフォルトです。
偏差値への信憑性が作り出す、相対性が絶対性に化ける危険性とは。

 本来は「相対的な判断基準」であるものに、社会的に絶対的であるかのような確固たる地位を与えることで本質を見失うことがあるのではないか?
定型と呼ばれる「発達の程度に大きな凹凸がない人たち」がファジーに作りあげた価値観からいち早くこぼれ落ちたのは、発達障害と呼ばれる「発達の程度に大きな凸凹を持つ私たち」だったワケです。

Episode 569 疲弊を理解するのです。
人権に基づく支援や配慮であっても、受ける側の態度の問題は当然あって。
 
パートナーシップが「50:50」の関係性であることは重要です。
でも、それはお互いの意思を以って共に進む方向を決める…という部分の話であって、「障害に対してのケア」という視点は、それとは別に考えないとならないのだろうと思うのです。

Episode 572 治るの思考は危険です。
障害は「治す」ものではなく「付き合う」ものだということ。

 「出来ないこと」を、「できる様に振る舞う」こと「できる様に振る舞わせること」が障害の傷を深めることになる…当事者も、支援者も。
目には見えない障害に対しての、見えないが故に「治せる」方向への力が働くことは、危険だと私は思うのです。

Episode 575 穴は塞がらないのです。
社会に合わせる努力があることは理解してほしいと思うところ。

 障害者を支援する立場に立つ人に、
障害者とともに生活する身近な人に、
是非とも障害者の「努力」がどのようなものなのかを知って欲しいのです。
そして、違和感が出たときに「理解できてない」とガッカリせず、ウッカリ穴に落ちたのだ…と、手を差し伸べてほしい、私はそんなことを思うのです。

Episode 576 2度目の更新で思うのです。
精神障害者手帳の更新で感じる、社会と当事者の思いの違いについて。

 障害者と診断されることは、障害者らしく振る舞うことを要求されることとイコールではないし、障害者手帳を取得することは、施しを受ける権利をもらうこととイコールではありません。
私は「障害者である私」を受け入れて、出来ないことは出来ないと言い、できることは自ら行動することを、この2年間で思うようになったのだと思います。

Episode 577 「融通が利かない」が楽なのです。
ASDは理系分野が得意という「一般論」を哲学して見えてくるもの。

 良く分からない「ブレ」と関係ない世界がラク…。
そう考えると、STEM分野をはじめととする、融通をすればバグになる可能性がある「具体的で客観的であることを求められる分野」がASD気質にフィットする可能性が見えてくるよね。

Episode 578 得意な理由が違うのです。
ASDのタイプ分けが相対評価でしかないと思う理由について。
 もちろんこれは芸術的分野で活躍するASDを、ASD特性的にどの様に説明できるか…という実験的な仮説に過ぎません。
ただ、この仮説を考える過程で、「ブレない分野の比較優位」という比較的消極的な傾向からの得意の発揮もあれば、「自分自身がブレない」という積極的傾向からの得意の発揮もあるのだという理解には繋がった気はするのです。

Episode 579 補正の方法はイロイロです。
同じ1秒の差を語るのには、その比較の対象の位置が重要でして。

 以前からIQの高さと発達障害の有無は関係ない…を、どうやって説明しようかと考えていたのですよ。
同じ見るでも老眼になれば焦点を合わせるために必要な「補正量(度数)」が距離によって異なるから、遠くから近くに焦点距離が変化するすれば、必ずそれに合わせたアクションが必要になる…ここが重要なポイントなのですよ。

Episode 585 「水」の中身が違うのです。
ヘレン・ケラーが理解した「水」は、サリバン先生と同じものなのか?

 ヘレンは "Water" を理解しました…が、そのキラキラ光る「見かけ」や涼やかに流れる「音」の理解はできていないワケです。
この「理解している内容の差」は、十分に意識されないといけません。

Episode 594 技術は万能でないのです。
ライフハックのを自分の役に立てる位置で上手く使うとは?

 必要なのはライフハックに至るまでの障害受容や自己知覚です。
分かった上で、自分の不安を緩和するためのライフハックなら、上手に使えば良い…ということです。
あなたと私の平等性をナチュラルに考えて行動することが苦手な私が、あなたと私の平等性を機械的に確保できる部分を探し出してルーティンに組み込む…結果としてのライフハックなら、上手く使えばよいと思うのです。

Episode 595 普通は普通じゃありません。
あなたの考える「普通」は、何を基準にしたものですか?

 あなたが指す「普通」は、何を基準にした普通なの?
私が指す「普通」は、何を基準にした普通なの?
「自分が思う普通の枠」から出ないまま相手に「普通」を求めることの危険性は、もっと議論される必要があると私は思うのです。

Episode 596 "Away"の不利を知るのです。
「ホーム」の有利の裏には「アウェー」の不利がある…ということ。

 アウェーの環境というのは、こういう「心情的アンフェア」が既にベースに敷かれていることが多いのです。
先に書いた通り「Jリーグ」のゲームは基本的に「ホーム&アウェー方式」ですから、同じチームとそれぞれのホームで1回ずつ対戦して「あおいこ」です。
これがずっとアウェーで対戦することになったら…どうかな?

Episode 597 受け手のメリットの問題です。
「告白」に思う、「カミングアウト」の本質とは?

 「告白」というのは、私の思いを込めた言葉を受けて「あなたがどのように感じるか」なのですよ。
その個人的な出来事を「障害と社会」という福祉的な一般論に乗せるからおかしなことになるのだと思うのです。

Episode 598 全てを変えなくて良いのです。
「合理的配慮」が適用される範囲を具体的に考える必要があると思います。

 研修や応援などで現部署以外の場所に出向くことがあった場合、私の「合理的配慮」をそのまま適応できるか…と言ったら、NO でしょうね。
他所の部署に行ってヘッドフォンを使っていたら、「何聴きながら仕事してるんだよ!」って怒られるでしょうし、第一その行為自体が失礼にあたる可能性があってですね。

Episode 599 当事者の視点が重要です。
有名人の「カミングアウト」で思う「当事者感覚」のこと。

 有名人の「発達障害カミングアウト」は、私の発達障害の代弁ではありません。
それは、その方ができる「発達障害を持つ私」の発信であって、当事者の声でしかないのですよ。

Episode 605 用語が先は危険です。
発達障害やASD/ADHDとは…という言葉から推測してしまう危険性とは。

 ASDの専門書からASDの特徴として「シングルフォーカス」を知ったあなたは、「私の『シングルフォーカス特性』を持っている」部分を見つけることで、私のシングルフォーカスを既定の事実として確定させてしまう…という可能性があるということです。

Episode 606 経験も背景も違うのです。
ひと口に「障害」と言うなかれ。

 その支援者の方は、支援無くして生きることが難しい障害者が「安心して生活できる居場所」を作ることに腐心されてきたワケです。
どうやったら「普通の社会」に居場所を作れるのか…という視点で「普通」が語られるのですから、私の視点と共通の「普通」になるワケがないのですよ。

Episode 614 大きな主語は危険です。
主語を大きくして語る効果と危険性について思うこと。

 精いっぱい自分の能力を駆使して生きようと努力した結果が「非定型の思考」で、それを「認知の歪み」という一言で社会からバッサリと切り捨てられる無念さは…どこで成仏させれば良いでしょうかね。

Episode 615 言葉の二次元性を知るのです。
言語を立体化するのは個人に資質で、言語自体は平面だと思う仮説に思う。

 私の言葉を介した「伝わらない感」の理由は、そもそもの言語性コニュミケーションが持つ平面性特質にも由来することなのかもしれない…などと思ったのです。

Episode 616 面ではなくて体なのです。
理解の平面性が安定を作るとすれば、平面の方向性の統一は必須かも。

 「あなたがどのように考えているか」を予測して自分が社会的にはみ出していないように見せかける行為がそこにある…あなたが私の理解できるルールを外れて行動すると言うことは、私の思考をフリーズさせる危険性を持つと言うことです。

Episode 623 線の向こうは限界です。
障害の早期発見が作り出す「デメリット」の背景にあるものとは?

 「潜伏型(≒良い子)ASD」が早期に発見されたとして、ケアが必要なラインの「障害者側」の枠の中で、何をケアすることになるのか…という問題は発生すると思うのです。
早期に発達障害に気が付くことで発生するデメリット、障害者という枠がASDである私を閉じ込める可能性…というのはそう言うことです。

Episode 633 同じ土俵に立てません。
障害者施策の今の今をめぐる問題と、その先の有用性は、別のハナシ。

 ただ、短期スパンの「生活」でのハナシは「それはそれ」であって、その短期スパンの話題と長期スパンの話題を同じ土俵に乗せて、息の長い働きかけの話を「即効性がない」ことを槍玉に上げるような意見が出たことに対して、「そうではない」とひと言いいたかったのです。

Episode 634 分かりやすさが欲しいのです。
発達障害をめぐる「分かりやすさ」の罠とはどんなことかを考える件。

 スペースの中で、3人の先生方は「しっかりと時間をかけて個別にあらゆる可能性を考えながら診断や支援をする」ことの重要性を説きます。
特定のひとつの分野で「パン!」と図解され、分かりやすく診断されることはない…と分かっていても、わかりやすい説明を求めてしまう理由は、当事者が抱える「伝わらないストレス」なのかもしれません。

Episode 637 劣等感は要りません。
あなたと私の間に「平等」がどれほど大切なのかを考えます。

 「ニューロダイバーシティ」の入口に立ち、先ず「受け入れる」を考えたくなる気持ちは分からなくもありません。
でも、準備が整わないうちから「受け入れる」を考えるのは、受け入れる「仕手」と「受け手」を作ることにならないか…と思います。

Episode 638 次世代の思想が必要です。
今の仕組みの「障害」は、次世代の仕組みでも「障害」なのか?

 「5G」の世の中を生活する上で障害を取り除く必要がある…この手助けになるのが「手帳」だとします。
例えば…通信規格なら、世の中が「6G」にアップグレードしたときに、「5G」の弱点をそのまま放置するとは考えられないのですよ。
ASDの立場も同じように考えられないか…ってね。

Episode 639 過去が良いワケないのです。
「あの頃は良かった」は、本当のその通りなのかと思う件。

 TVやスマホのキレイな画面を見て、過去のアナログ放送や粗いドットの二次元デジタルの時代に戻りたいと思う…ワケないじゃないですか。
自分も十分に時代の進化の恩恵を受けている、その中で自分の都合の悪い部分だけ「元に戻せ」って、何ともムシの良い話だと思うのですよ。

Episode 643 遊び心が必要です。
ASDのタイプ分けが外見だけでなく性格診断で出来たらキャッチーかな…。

 発達障害の診断が「ポジティブ」な表現と結び付くことは、極めて少ないのが現状なのだと思います。
だからこそ、「遊び心」のあるポジティブな仕掛けは、この先の発達障害特性の自己理解には大事なのだろう…と。

Episode 656 前準備が必要です。
対話のテーブルに着くための準備は出来ていないなら、何をするべき?

 今でこそ弊害でしかない日本的な「意見が通りにくい文化」の成立には、「意見を主張しないことによる利益」という理由が存在していたのだと私は思っています。
とても残念な話をすれば、モノゴトの本題に入る「前準備」が終わっていないのだ…というのが私の意見です。
社会に対話を求めるのなら、対話ができる環境が必要なのです。

Episode 661 それは受け取るものなのです。
権利の主張して強行な態度に出れば、願いが叶ったあとの処理が厄介。

 権利を盾にして戦う方向性は、考え方としてはアリなのでしょう。
でも、私はそれを好まないのです。
なぜならば、対決する方向での調整は、必ず次の分断を生むということを歴史が教えてくれているから。

Episode 662 熱いうちに反省です。
マイノリティが「人権」を主張する効果と弊害について。

 「6G規格の開発という次世代に向けて、定型/非定型を問わず共に良い方向にアップデートする方法で考えないと、また新たな分断を作ることになるよ」…という長期的展望に立った大局観のハナシです。
他方、「人権」を持ち出さねばならぬくらい追い詰められている層…という視点は、5G規格の障害復旧という切羽詰まった喫緊の課題であり、「6G規格の開発」などとノンビリしたことは言っていられないワケですよ。

Episode 668 普通が「不通」を招くのです。
「普通できるでしょ?」の指す「普通」とは、何でしょうか?

 定型(典型)発達者側から見たASDの苦手を探るための「クルマの運転はできますか?」という問いの根本には、社会を作りあげているマジョリティ側のクルマの運転ができるレベルの…という「普通」の感覚が滲み出ているのだと思います。

Episode 669 地動説を知るのです。
「私の普通こそ世界の普通」という普通の感覚が作る「天動説」の話。

 この「地動説という真理」がありながら、日常生活は「既存の天動説で十分」という感覚が、(ニューロ)ダイバーシティをめぐる社会の現状とよく似ている…と私は感じるのです。

Episode 670 地球を回す知識です。
「普通とは何ぞや」を考えることが導く「地動説」の話。

 「定型(典型)×非定型」の対比を「天動説×地動説」の構図に置き換えた時、相対的な視点を持ち自らの立ち位置を把握する地動説的な立場に定型側が立ち、自己視点単体からのものごとの見え方によって理解を進めようとする天動説的な立ち位置に非定型ASDが立つことになる…と。
そうすると…このハナシは前回のハナシとは違い、多数派が地動説で、少数派が天動説の立場になると言う「逆転現象」が起こることになるワケです。

Episode 671 飲まない理由があるのです。
「ASD改善薬を飲むか?」の問いに、ASDの悩みの根を感じる件。

 「魔法の薬」を飲むか否か…という最初の質問に立ち返った時にポイントになるのは、この「ASDの弱点とされる(現代社会に対しての)社会性のハンディキャップを超える長所を自分自身が認められるのか」と言うことなのかな…などと私は思うのです。

Episode 672 「できるを求める」は限界です。
「ASD改善薬を飲むか?」の問いに、ASDの悩みの根を感じる件(その2)。
 
「魔法の薬を飲む」というのは、できることを基準にした社会で生活するために「できるようになる」を求めるという「医療モデル」だからこその発想なのだと私は感じます。
そもそも「できないことは求めない」という社会なら、薬を飲む意味はないハズです。

Episode 673 努力とストレスは見えません。
「ASD改善薬を飲むか?」の問いに、ASDの悩みの根を感じる件(その3)。
 
できることが標準であるから「出来る」への単方向で物事が語られる、「できることが当然で幸せである」とした時に、障害を持つ方は「出来る方向への努力」を強要されるワケで、出来ないを抱える当事者の気持ちが取り残される可能性は考慮されない…。

Episode 674 宇宙戦艦の艦橋です。
できる人ができないことを理解することの困難とは、きっとこんなこと。

 私は障害者と呼ばれる人たちに求められる「できるようになる」方向への療育/教育の裏に、「できない」ということを想像することの困難を感じることがあるのです。
それはまるで「宇宙を行く戦艦の艦橋」のように、無重力空間であるとわかっていて尚、重力に支配されてしまう描写のようにナチュラルに出てしまうものなのだろう…と感じるのです。

Episode 680 外から内は見えません。
近づかない理由は、「嫌いだから」とは限らないワケですよ。

 長女の猫アレルギー発症という残念な出来事に思う、外から見える「ネコに触れない=ネコ嫌い」とは限らないあたりに、ASD的な「人に触れない(ひとりている)=ヒト嫌い」とは限らないということがリンクするのです。

Episode 682 「普通」を哲学するのです。
「普通」は多数を構成するスタンダードである点を深掘りすると…。

 「普通」という数的な物理的優位性で成り立つ概念から「障害」という事案を眺めると、「普通」という概念の社会的な役割が見えてきます。
「普通」には世の中を効率良く回転させるための不文律の側面があり、コレに乗ることで社会は円滑に動くということは、先ず間違いないでしょう。

Episode 692 自分のことを話すのです。
冷静に淡々と、自分のことを話すことが持つ意味とは?

 ASDは何も考えていないのか…に対して、ASDの私は、私が思う「何も考えていないと思われる私自身の中にある理由」を考えて書きました。
コレに文句を言う人は(今のところ)ひとりもいませんでした。
では、ASDは何も考えていないのか…に対して、定型(典型) のあなたが思う「何も考えていないと思ってしまうあなた自身の中にある理由」は何なのでしょうね。

Episode 694 裏には「生きる」が隠れてます。
「カサンドラ」の裏側には、ASDの「生きる努力」があるのだと思う件。

 結果として「私の生きるための知恵」があなたのストレスを生み、「カサンドラ」と呼ばれる「誰にも理解されない」苦しみを作ってしまったとしたら、それは大変申し訳なく思います。
一方でそれは、私も生きる道を探した結果だったことは、間違いないことだった…とも思います。

Episode 695 スイートコーンにはなれません。
ASDがASDのやり方で…は聞くけれど、その「やり方が不明」は多くて。

ASDの自覚とは、つまり私はスイートコーンではなくデントだったのだ…と、理解することなのですよね。
だから、スイートコーンの調理法で美味く焼ける…ではないのですよ。
でも、デントに馴染みのない私たちの社会は、デントをデントとして美味く調理する方法を知らないことが多いのだと思います。

Episode 699 わかっているけど我慢です。
足元の地面がどのように成り立っているのかを知るのは、重要だと思う件。

 現代社会は、成る可くして成立した…それは良い悪いの問題ではなく、事実として見なければならないと私は思っています。
現実の社会で生活できる方法があって、その上で何をどのようにしたいのかを考えなければ、私は生きて行くことはできません。

Episode 716 "D" の削除を考えます。
「自閉」と「自閉症」の違いを考えたことはありますか?

 「モノ」をアンカーポイントにすることが私にできるスタイルなのならば、それを「自閉的だから」と封印するのではなくて、上手くいくように磨きを掛けるのは、アリなのだよな…と。

Episode 722 それは"THE"ではないのです。
専門用語が先行することで起こる「弊害」があるということ。

 発達障害の診断名でその人を推し測る感覚は、発達障害の「スペクトラム性」からとても危険な発想なのだと私は思います。
ただ…それを理解しながらも、その見掛けから本人のイメージを推し測ることを、私も普通にしているのは事実なのですよね。
その感覚は、恐らく誰もが持ち合わせているものなのだと思います。

Episode 724 成り立ちを知るは大事です。
現代社会には、今の仕組みになった理由が必ずあるのだと思う件。

 私は今の世の中がイビツであることを「良し」と思っているワケではありませんが、イビツでありながら今の世の中の形になっているには、それなりの理由がある…と思っています。
つまり私たちの権利を主張するには、今の世界がどのように成り立ち、それをどのように評価するのかを考える必要があるだろう…と。

Episode 740 「気付きの断崖」から飛ぶのです。
ASDの特性理解は必要…でも、特性理解だけで解決するものはあるのか?

 ところが、どんなに「自分の Autism 性を理解した」と思っても、あなたとのコミュニケーションは一向に改善しません。
それはそうですよね…私は自分自身で「自分の Autism な部分」を理解しているだけなのですから。


発達障害を持つ私(聴覚)

Episode 5 キュウリが食べられないのです。
感覚過敏があることで起こることについて。
 苦手な食べ物があるというと、味が嫌いという理由で苦手なことが多いと思いますが、私のキュウリが苦手な理由は味ではありません。
その理由は「音」なんです。

Episode 6 テレビの音量が大きいのです。
「聴覚」の苦手と過集中の関係について。
 私が経験から編み出した方法が、「大事なことを聞き漏らさないようにするために(テレビの)音量を上げる」…つまり、強制的に耳から情報が入るようにするということでした。

Episode 7 歌は言葉にならないのです。
「聴覚」の苦手と聞き取りにくさの関係について。
 私の場合、(ファンである)RADWIMPSの曲に限らず、音楽(music)は基本的に聞き流します。
上手く聞き取れないから、頭が勝手に聞くことを諦めてしまうんです。

Episode 8 耳にスイッチがあるのです。
苦手な「聴覚」と得意な「視覚」の関係について。
 意識的に耳から入る情報に注意を傾けていないと「何かがなっている(noise)」が「音楽(music / sound)」や「言葉(voice)」になりません。
私の感覚はそのくらい「目から入る情報」に偏っていて、それがニュートラルな状態なのです。

Episode 9 居酒屋トークが苦手なのです。
周囲のザワツキから必要な音(声)を拾う難しさについて。

 集中力を高めれば高めるほど、後ろの雑音も耳に入ってきてしまうのです。
音の洪水に呑みこまれて溺れ、耳から入る情報の全てが聞き取れなくなってしまうのです。

Episode 10 大きさは関係ないのです。
「聴覚過敏=大きな音が苦手」とは限らないことについて。
 どんなに大きな音であっても、自分の視点から理解できる音であれば過敏には影響しないのです。
道を歩いていてクルマのクラクションに驚くことはあっても、自分で車を運転していてクラクションを鳴らしても驚かない…そういうことです。

Episode 11 聞くために塞ぐのです。
聴覚過敏対策のライフハックを編み出すことについて。
 目の前にいる人との会話を成立させたい、そのためには聞く体勢を作らなければならない、でも聞く体制を作れば必要ない音も耳に入る、世の中しんと静まった場所の方が少ないわけで…さぁ、どうする?

Episode 214 全てが過敏ではありません。
過敏や鈍麻が、その感覚の全てを覆うフィルムではないということ。

 同じ過敏とよばれる症状でも、全てが全てじゃないということを分かって欲しいなぁ…と思うのです。

Episode 452 気付け薬になるのです。
敢えて雑音を混ぜることで過集中を防止する件。

 得意なことがあるのは素晴らしいことです。
その得意が「毒」にならないように「苦手という毒」を匂わせる手段を経験から編み出したASDがいる…ということです。

Episode 600 鈍麻が過敏を隠すのです。
「日常」すぎる環境がストレスになっていると、なかなか気づきません。

家の生活臭って、他所の家に行くと気付くけど、自分の家の臭いって気づかないじゃない?
そういう類の気付かなさは、身の回りにいっぱい溢れているのだと思うのです。
その本来は掛かっているハズのストレスに気が付かないのが、即ち「鈍麻」ということですよね。

Episode 621 車内で聴くはアリなのです。
カーステのラジオが適度に集中を散らしてくれる役割を果たす件。

 最新の楽曲からオールディーズまでをカバーし、パーソナリティのトークが挟まり、リスナーからのメッセージが読まれる…という基本設計はどの番組もほぼ同じで、ただ、その変化に富んだリズム感はサブスクのミュージックを流しっ放しとは違うワケです。


発達障害を持つ私(視覚と言語)

Episode 13 文字が記号に見えるのです。
苦手なひらがなと「逐次読み」という現象について。
 私にとって「ひらがな=発音記号」です。
例えば「さくら」。
それを[sa-ku-ra]と一文字づつ音に直して聞き取り、「あぁ、春に咲きほこるキレイな花」と認識するわけです。

Episode 14 文字は遠回りするのです。
視覚優位の私の「理解と記憶」について。
 ひとつひとつの記憶が動画と関連しています。
その頭の中の動画を再生していると、関連動画が次々とヒットしていく感じです。

Episode 15 対面通行ができないのです。
映像記憶と「聴くと話す」の関係について。
 片側交互通行って私に似てるな、そう(片側交互通行箇所を)通るたびに感じるようになりました。
道路事情やクルマの運転の話ではなく、私との会話…というお話です。

Episode 16 テレパシーが欲しいのです。
映像記憶を言葉にすることの難しさについて。
 私は「自分の頭の中の動画をダイレクトに誰かに伝えられたら良いのに」と、思うことがあります。
無数に湧き上がるイメージがあっても、それを言葉にするスキルが足りません。

Episode 17 だから文章を書くのです。
文字が苦手でも文字が扱い易いことについて。
 書くということは、自分の気持ちを一番素直に伝える方法なんです。
私にとって文章を書くとは、最も自己表現しやすいメディアでの自己表現です。

Episode 18 思考が音を閉め出すのです。
音声と映像を行ったり来たりする思考パタンについて。
 私の思う「考える」という動作は、こういうことなのです。
ヤジロベーの(映像記憶の)端から逆側の(言語受信/発信の)端へ、音を介してイメージの編集をすることが「考える」ということなのです。

Episode 20 秋刀魚を食べながら思うのです。
「苦手」の回避が「得意」を鍛えるということについて。
 美味しいハズの旬のものだって、香りが無ければ魅力半減でしょう?
でもこれは、鼻詰まりではご飯が美味しくないって知っているからわかることです。
知らなければ最初から「そんなもの」でしかないのです。

Episode 21 地図で景色が見えるのです。
「3D映像認知特性」の記憶パタンについて①。
 地図を見ていると、行ったことがない場所でも、本当に走ったことがあるような記憶を合成して理解できてしまうんです。

Episode 22 知ったかぶりではないのです。
 「3D映像認知特性」の記憶パタンについて②。
 知らない駅でも、構内の写真と構内案内図で売店の位置や様子は大体想像できます。
街の規模や電車の本数などで、混雑の具合も予想できます。
でも、この感覚は理解されないことが多く、行ったことがない場所についてそんな描写をすると「知ったかぶって」と言われてしまいます。

Episode 38 シフトチェンジが必要です。
表面的な受け答えと、そうではない受け答えの違いについて①。
 私の会話は2段シフト構造になっている…と最初に説明しておきます。
ハイギアは、自分の考えを挟まない言葉だけの会話、ローギアは自分の考えを絞り出さないとならない会話、そう思ってください。

Episode 39 タコメータが欲しいのです。
表面的な受け答えと、そうではない受け答えの違いについて②。
 私の中では「クラッチ踏んでシフトチェンジ」ってタイミングがあるはずなんですけど、周囲にはそれが見えません。
「軽めな三人称の私」と「内向的な一人称の私」は同一人物ですが…。

Episode 67 苦手をカバーするのです。
自分の得意を生かすための考え方を編み出すことについて。

 文章を読む能力の低さをカバーする方法…どうやったら点数が取れるか?
使える能力を使って苦手をカバーすることを、発達障害をもつ人は小さい時から自然とやっているのだと思います。

Episode 68 火が通れば平気です。
日本語の特長である「漢字かな交じり」が意味を明確にすることについて。

 漢字やカタカナが入ることで日本語の文章に「強弱」がついて、記号にしか見えなかった文字が初めて文章に見えるようになったのです。

Episode 327 記憶の洪水で溺れます。
映像という膨大な情報量を解凍することで意味の洪水が発生する件。

 小説やマンガの数ページにわたる「一瞬」が、映像という尺の概念を含む記憶に「圧縮」して保管されているということ…だと思うのです。
だから、それを記憶から引き出してきた時に、「圧縮」された記憶が「解凍」されて、膨大な量の描写が溢れてくることがあって…。

Episode 328 ミスタッチが多いのです。
あなたと私の間のテンポでなく、私の中でテンポが合わなくて苦労する件。

 ブログを書き始めて、PCでもミスタッチが多いことに気が付いたのです。
多分ですよ…自分のアタマからアウトプットされる言葉のスピードに、手がついてこられないのです。

Episode 337 連続性がないのです。
言葉から連想されるイメージ(映像)描写が暴走することがある件。

 この刺激に対してはこの箱が開く、
その刺激に対してはあの箱が開く…。

Episode 408 入力特性は変わりません。
持って生まれた感覚を使わないということは難しいと思う件。

 この認知特性という「入力特性」を、意識して変化させることが出来ないワケです。
もしそれが出来ていたら、自分の意思で定型の真円になるように認知特性をコントロールしているでしょうしね。

Episode 409 凸が野暮を作るのです。
自分の凸部分の大きさが理解できないと、オタク的な野暮を作るかも。

 一点集中の「野暮」「オタク」とは、陰に隠れた死角が見えないことで発生する凸か作る「影」。

Episode 412 不安を生成するのです。
意味の関連性を繋ぎ合わせて考えることが難しいということ。

 大人に向かうに従って当然、その見えない理由も手洗いが必要な理由も「理論として」理解するワケですが、その理論と実際に行う手洗いがイコールで結びついているのか…と言うと疑問なのです。
そこには帰宅後にうがい手洗い、食事の前に手洗い…といった「ブラックボックス化されたルーティン」が存在するワケです。

Episode 413 乱視のメガネで感じます。
レーダーチャートの重心を意識すると原点0との差があることに気付く件。

 「独特な認知とはどういうことなのか」をイメージするのは、なかなか難しいことだと思います。
私は自分の認知特性が「乱視の人がメガネをかけずに生活するイメージ」なのだろうと想像します。

Episode 425 カメラとビデオは違うのです。
見ることが得意であっても、得意な記録媒体が何なのかで感覚が変わる件。

 今のテレビに変えた時、それはもう映像がキレイで…「『地デジ』ってこんなにすごいのか!」って思ったのですが、家電量販店で4K映像を見た時は、初めての「地デジ」ほど感動しませんでした。

Episode 565 ちがう技術の話です。
歩いた道順を地図に書くが得意とは、視覚優位の問題ではないと思った件。

 私の「地図読み」で登場するランドマークは、登場する順序を気にしていない気がします。
目的地までの方角でザックリ進み、ランドマークを確認することでその方角が正しいことを確認する…だから、ひとつふたつランドマークが発見できなくてもあまり気にしていないように思います。

Episode 566 ザックリ掴んで考えます。
自分の得意とは、持って「生まれた資質」だけ…ではないよね。

 WAISの「絵画配列」や「組合わせ」はIQを構成する群指数には反映しませんが、同時処理を構成する要素として重要な位置付けにあるように思います。
全体の情報をザックリと取り入れて、組み合わせて配列し直す…というのは、得意を使って苦手を回避する手段、つまり作動記憶の弱さをカバーする方法だったように思うのです。

Episode 608 違いは発見を生むのです。
得意が記憶の定着に繋がるとは限らない…から分かる「特性」とは。

 Aさんが「さらり」と一回で済ませた作業を3往復も4往復もしているということです。
ここで反復という動作による「記憶の定着」が起こるとすれば、Aさんの「忘れてしまう理由」も、私の「覚えている理由」も説明できる…と、思うのです。

Episode 625 優位が全てじゃありません。
言葉というコミュニケーション糸電話が作り出す認知優位性イメージとは。

 (視覚優位であろうと言語優位であろうと)…あれあれ、それが「どうしたら伝わるか」を考えた結果として「あなたが理解できるであろう表現」を探し出すことであるとすれば、やっていることは私と同じなの?

Episode 663 同じで同じじゃありません。
脳内イメージの解像度が認知特性の癖によって変わるかもしれない件。

 あなた、わたし、話した。
あなたが、わたしに、話した。
映像を作るなら後者が必要ですが、話した事実だけなら前者で十分ですよね。

Episode 666 一緒にしてはいけません。
理解の方法には彫刻と彫塑の二種類があるような気がしたハナシ。

 どうやら認知特性は、言語系/映像系/聴覚系などという入力系統で分けられる以外に「彫塑(modelling)型」と「彫刻(carving)型」があるらしい…という気がするのです。


発達障害を持つ私(触覚)

Episode 23 おんぶとだっこは違うのです。
「触る」は得意でも「触られる」が苦手なことについて。
 手を繋ぐときって、「握る側」と「握られる側」があるじゃないですか。
どうしても手の甲が前を向く「握られる側」がダメなんです。


発達障害を持つ私(両極思考とルーチン)

Episode 25 クイズ番組が好きなのです。
ASD的な両極思考はなぜ表れるのか(導入部)。
 「過敏/鈍麻があるからASD的な思考回路になる」って理解できるようになってから、「両極思考についても逆なんじゃない?」って思うようになったんです。

Episode 28 先回りして動くのです。
時間に正確なASDが重視するものについて。
 作業の目的は「キレイに作る」じゃなくて「納期に仕上げる」、これが最優先。
この時に、納得のいく作品を作る方を優先事項にしていたら、未だに「段取り八分」なんて理解できないどころか…遅刻魔でしょうね。

Episode 29 朝は気持ちが楽なのです。
ルーチンワークを好む私の思考の成り立ちについて。
 幼いころに標準時間に出来ない苦い経験を積んでしまった、それは自己評価を下げる重大な出来事だったのだと思います。
だから、予定通りに事を進めていくことに注力するのです。
これは自分を守るための必然でもありました。

Episode 30 予定変更が怖いのです。
ASDの私がルーチンワークを守りたい理由について。
 「予定が変更されてパニック」とか「自己中心的な行動に走る」とかは、自分で想定している予定調和を壊されるとか守り抜こうとするとかの行動の表れなのだと思うのです。

Episode 40 コンプリート感が重要です。
ASDの私の「予定を倒す」ことの重要性について。
 時間内に作業完了できればミッション・コンプリートです!
因みに、この「コンプリート感」は、極めて重要です。
あぁ、清々しい朝、雨が降っていても、清々しい朝。

Episode 41 達成感は大事です。
投資の回収が重要な達成感をもたらすことについて。
 禁煙外来は保険適用とは言え、医師に診てもらうわけなので無料ではありません。
コストが掛かるからタバコをやめると言うのに、やめるために禁煙外来に行くハメになったワケで、新たに掛けた投資は回収しないとなりません。

Episode 42 褒められると嬉しいのです。
達成感と両極思考の密接な関係性について。
 地図を組み立てて完成させる「達成」が「褒められる」とリンクすれば、自信になるのは当然です。
なぜ達成感が重要なのかを自分史の中でひも解くと、どうやらこの辺りが出発点のようです。

Episode 43 全てが欲しくなるのです。
コンプリートできないと冷め易い気持ちについて。
 「完成」「達成」「褒められる」がセットになっていると、それが出来上がっていくのが楽しいのです。
酒蓋、集めても楽しくないんですよね…だって完成しないんですもの。

Episode 44 見えてることが大事です。
予定を○で倒していくことの重要性について。
 私にとっての安定とは、到達したい着地地点が見えていることなのだと思います。
完璧主義だということですかね、完璧にするにはキチンとしたゴールラインがなくてはいけません。
なせなら、ゴールまで「〇」で埋めることが完璧ということなのですから。

Episode 45 左利きがツラいのです。
左利きの劣等感が「できる」を渇望する原動力だったことについて。
利き手絡みの凸凹が劣等感を増幅させていたのでしょう、後ろを向いて泣きながらコソコソとハサミを使い、どうしたら褒めてもらえるか考えたんだと思います。

Episode 46 見られているのがイヤなのです。
「できる」を渇望することが「できない」を見せられない原因になったことについて。
 文字を書くこと以外は右手で何も出来ない私は、コッソリ左手で作業して、完成したものを見せるようになっていました。

Episode 47 モノがあると安心です。
同じ映画を見るのならソフトを購入した方が良いと思う理由について。
 感動を共有するためには、目に見えるモノが必要…。
その裏側に、モノが存在しないと社会と接続できない不安感があるってことです。

Episode 48 できないことが不安です。
形のないものに投資できないから上手くならない、それが不安材料になることについて。
 人よりも劣ることに恐怖を感じる…完璧主義が邪魔をするのです。

Episode 49 一級品が欲しいのです。
自分の選ぶものに自身がないから、評価のあるものがほしくなることについて。

 私の場合、ASD的な完璧主義がモノにこだわる形に進化しました。
モノがあることこそが社会との接点として機能するからです。
だからこそモノに注目が集まらなければならないのです。

Episode 52 流れ作業は苦手です。
ルーティンワークを好む≠流れ作業を好む…であるということ。

 一言で言えば「定型・定例」が「安心・安定」につながるから…なのですが、ルーティンを好むからと言ってラインの流れ作業が好きかって言ったら、一概にそうではないじゃないですか。

Episode 53 自分で作り上げるのです。
ルーティンとは、自分が上手くいくための工夫であるということについて。

 出勤するまでの家でのことを「一連のタスクの塊として処理していくためにどうしたらいいか」を考えて編み出した自分なりの方法がルーティンということです。

Episode 54 マルチタスクも可能です。
ルーティン内の複合作業が傍目に「マルチタスク」に見えることについて。

 自分なりに組み合わせて、同時作業をひとつの塊にして捉えるようにする…これが朝の作業をマルチタスク化する方法です。
組み合わせるものは基本的に決まっていて、別の組み合わせにすることは殆どありません。

Episode 55 諸刃の刃でもあるのです。
ASD的なルーティンは単独作業であることが多いことについて。

 ダルマ落としの必勝法は「安定して素早く水平に叩く」という点です。
宴会芸とかである「テーブルクロス引き」とかも同じ原理ですよね。
テーブルに沿って水平に引き抜く…これが成功のポイント。
守るべきポイントを押さえて行動すれば安心安定して目的を達成できるってワケです。

Episode 69 試練の道を行くのです。
自分の好きなものにのめり込みやすい性質について。

 今になって思えば、これは典型的なASDの過集中だったって思います。
「プラモデル作成こそが自分の選んだ道であり、そこに命を掛けるのだ!」…みたいな。

Episode 70 コツを獲得するのです。
特定の分野で上手くいく方法を編み出すことに長けていた件について。

 塗りやパテ埋め、ヤスリがけなどの制作そのものに関する技術は重要ですが、工程を理解しておかないと細部まで上手く作れないことが多いのです。
そういう意味では、プラモデル作成と本物の建設現場での建設作業は共通するところが多いかもしれません。

Episode 71 ダムが決壊するのです。
のめり込む歌集中の最後に迎える「終焉」について。

 「もっとできる、もっとできる」…いつしか100%を目指してしまう気持ちにブレーキを掛けないと、身動きの出来ないネガティブ期を作ってしまう気がします。

Episode 73 物覚えは良いのです。
求める結果には、それに至る理由が必ずあると思う件について。

 その結果に到達するのに必ず理由がある。
いつも「コツ/ノウハウ」を求めて行動するのですから、物覚えが良いのは当然です。

Episode 74 今と言ったら今なのです。
「今=right now」の感覚が生み出す、理詰めの不安定さについて。

 工程管理された自分の感覚を乱す「今」の存在が、私の人との係わり方を象徴する「鍵」になることだと理解できたのは、それからだいぶ歳をとってからのことです。

Episode 75 全てを比べてしまうのです。
あなたと私が違うと困ってしまうから、全てを比べてしまうことについて。

 その人がどのように考えて行動しているのか本当の部分は理解できないのです。
だから記憶の中に貯め込んだ似たような状況と照らし合わせて「こうだろう」という仮説を立てるのです。

Episode 76 ダイヤグラムが拙いのです。
予定変更が苦手なASDの頭の中は「時刻表」である件について。

 一所懸命になり過ぎたときは危険です。
イロイロと思い描くあまりに、私自身の基準のみで人の行動を仮定してスケジュールを立てていることがあります。

Episode 78 カブの料理で気付くのです。
苦手な食材を美味しくする方法で、お互いの「違う」を感じる件について。

 思考の原点がみんな違う。
言葉ではわかっています。
でも、気が付くと自分が基準の数直線を振り回す私がいます。

Episode 186 ズーム機能の故障です。
ASDやADHDの引っ掛かる部分を、野球の応援に例えてみた件。

 結局のところ発達障害の問題って、この脳内ズームの動きが悪いってことなのではないかなぁと思うのです。
どのように動きが悪いのかによって見た目の特性が替わって呼び名も変わる。

Episode 191 趣味にお金がかかるのです。
完璧主義で良いものが欲しくなる「モノから入るタイプ」のASDな私。

 ADHDの衝動買いとは方向性の違う、ASD的な衝動買いというものが存在する…。

Episode 193 水玉模様ができるのです。
興味があるものを極端に深掘りしてしまうことで起きること。

 「広く浅く」全体的に…が一般的な人の社会の認知方法なら、私は過集中と解除を繰り返すことで畑のモグラのような社会認知を作り出しているのだと私は思うのです。

Episode 260 自分で選んで買うのです。
自分で身に付けるものは自分で納得できないと買えない性分について。

 外目から見れば、ただ「地味」に見える私の趣味ですが、何でもいいワケではなかったのだと思います。
そこには完璧主義を起点にするモノ選びの工程があり、納得して購入するという「自己肯定感」があったのだと思うのです。

Episode 263 ブルーバードが良いのです。
「受動型」を自負する私が受動型を捨てるタイミングがあることについて。

 狙いどころとしては、絶対に被らない、そこそこ走れるヤツ。
もうね、典型的ですよ…自分の価値基準で我が道を行く自己肯定感の塊。

Episode 264 クルマがオーラを放つのです。
発達障害者に自己肯定感がない…とは言い切れないのですよ。

 クルマに興味がないヤツならそれで問題ないのかもしれません…が、ピカピカに磨かれた型落ちのブルーバードの存在感は、明らかにそれには当てはまらないワケですよ。
職場の駐車場に停められたブルーバードが、「私はこれで良い」という強烈なオーラを放つのです。

Episode 265 独りで作った世界です。
ASD的な自己肯定感は、社会で磨かれていないのではないか?
 残念なのは、そのアイデンティティが社会の中でコミュニティに揉まれて作り上げられたものではなく、ひとりで作り上げた世界観だと言うこと。
自分とは違う価値観の人と、価値観のすり合わせをした経験がないということ。

Episode 267 評価をリセットするのです。
残せるものを残して過去を抹消する「黒歴史」製造機になる可能性。

 この封印できる原動力が、学業成績で裏打ちされた「私はこれで良い」という自己肯定感だったと思うのです。
学校生活で一番の評価基準という飛び抜けた価値を持つ学業成績は、私がクラスで浮遊してようが滑ろうが、対外的に揺るがない価値観であって、学年が上がろうとこの価値は変わらないのです。

Episode 268 Continue ではないのです。
ASDがルーティンを好んでも、必ずしも同じ環境を望むワケではないこと。

 しがみついた自己肯定感を誰にも触れさせない聖域にしてしまった以上、傷ついた上に人生を繋げる "Continue" はあり得なかったのかもしれないと、そんなことを思うのです。

Episode 289 興味が根気を生むのです。
興味があることが練習の結果として出来るようになるとはどういうこと?

 私にとってクルマの運転やフォークリフトの操縦は、それぞれを運転や操縦の一言で片づけられる単体の作業であって、ひとつひとつの操作の集合体であるという認識はありません。

Episode 312 野球とフィギュアの違いです。
スポーツ観戦に絶対的価値観という安心を求める白黒思考がある話。

 「コンマ1」の点数でしのぎを削る一流選手の戦いで、その「コンマ1」を私が実感できないのです。
スポーツと言う単体の「勝負の世界」に、「美しさ」を連動させる感覚が苦手。

Episode 379 俯瞰するのが好きなのです。
歴史学とASD思考の親和性について。
 本能寺の変で言えば、織田信長はこう考えた、明智光秀はそう考えた…これを上空から俯瞰しないと事件の全体像は見えないということです。
つまりね、圧倒的に第三者視点を必要とするということ。

Episode 380 大手を振ってボッチです。
ASD気質をポジティブに支える環境があることについて。

 置かれた環境が偶然にもボッチを容認する…。
自分ののめり込みやすい分野の勉強を、居心地の良い環境でするという偶然がありました。

Episode 411 予定が立たずに迷子です。
ASDのルーティンにはいくつかの種類が存在するということ。

 あぁ…わかった。
なんでこんなに休校絡みの生産増にイライラしているのか、その理由。
三次元映像タイプの時間軸で考えられる未来予想が立たないからだ。
着地点が不明では予定調和しない。
目標物が見えなくて迷子になっているんだ…。

Episode 453 回転数を上げるのです。
快適な思考量をキープしたいASDの私…というハナシ。

 3,000回転キープで80km/hにする。
ポイントは3,000回転をキープするということでした。
残念ながら、それをキープするためのトランスミッションは、全て手動のマニュアル式だった…というワケです。

Episode 723 脅迫性だけが残るのです。
ASDライフハックの代表格である「ルーティン」には光と影があってね。

 「ルーティン化」や「時刻表管理」と言う時間管理のライフハックは、私の時間管理の難易度を確実に下げただろう…と思います。
ただ、それはあくまでも社会生活に支障をきたさないようにするための「対処法」であって、そこには他者との関わりや自らの客観視で予定変更して行動修正する視点が存在しないのだと、私は思ったのです。


発達障害を持つ私(コミュニケーション)

Episode 27 反応をみてしまうのです。
苦手なコミュニケーションを何とかして取ろうとすることについて。
 私には心地よい無言の世界が、相手には重い。
重い空気を払う方法はコミュニケーションを試みるか、逃げるかの二択しかありません。

Episode 33 ドラマと現実は違うのです。
サリー・アン課題にに代表される心の理論について(導入部)。
 ドラマだと心理描写が読めるのに、現実世界だとできなくなってしまうのか…ずっと謎でした。

Episode 34 空から眺めているのです。
ドラマは理解できるけど現実は理解できない理由について。
 He と She の世界の理解はできる、彼がこう言ったのを彼女はどう受け取ったのか…という流れを意味を持って追いかけることは可能なんです。

Episode 35 全てが他人事なのです。
観客席にいる私の視点は、フィールドプレイヤーではないことについて。
 実際にフィールドに立って、トライ and エラーを繰り返して覚えていくんだろう…と。
ところが、私は全く以ってフィールドに立っている実感を持ったことがありません。

Episode 36 会社の同僚が苦手です。
ハンパに身近な関係の人が苦手ということについて。
 業者さんが職場に入ってきて、挨拶してきたとします。
それに対して「おはようございます。今日もいい天気ですね。」と一言つけることは出来るわけですよ。
ところが職場の同僚相手に、いつもいつまでも天気と野球の話だけ…と言うわけにはいきません。

Episode 37 一人称がないのです。
恋愛ドラマは理解できて、自分の恋愛が理解できないことについて。
 その場面を想定して、私がいま同じことを言ってみたところで、目の前にいる彼女が映画の中と同じ考えを持ってアクションを起こすかと言ったら…まず起こさないでしょうね。

Episode 50 プレゼントは必須です。
言葉が苦手な私がプレゼントに託す思いについて①。

 なかなか上手く人とのコミュニケーションが取れないことの多い私としては、プレゼントに託す気持ちが人よりも大きくなっているのかな…と思うこともあります。

Episode 51 貰う方はニガテです。
言葉が苦手な私がプレゼントに託す思いについて②。
そもそも人間なんて、どんなに親密な間柄だって相手のすべてが手に取るように分かるわけないのです。
私が選んだプレゼントだって、相手が本当に喜んでくれているかなんてわかりません。

Episode 194 地下鉄乗換えで迷子です。
会話の飛躍が起こるのは、「知識の地下鉄」の乗り継ぎがあるからかも。

 乗換駅が地下に潜っているのでどこをどのように乗り換えたらその話に繋がるのか…と思うような「会話の飛躍」がASDの人の会話には起こったりすることがあるのです。

Episode 204 意見をすり替えてしまうのです。
「サリーアン」課題はクリアしても、類似した「スマーティ」課題がダメ。

 それが「似たような」シチュエーションだとどうなのでしょう…私はあまり自信がありません。
子育てで子どもと接するとは、まさにこう言う「似たようなこと」だったのだ…と、今になって思うのです。

Episode 208 目に見える指示が必要です。
手に付いたバイ菌を落とすではなく、帰宅⇒手洗いの指示が必要な件。

 私には、汚れを掃うという感覚が欠けているのです。
それは、目に見えない「ばい菌さん」の理解が出来ないことが原因です。
埃がたまっていたり、カビが生えているとか、具体的に目に見える汚れを認識して退治ずることは出来るのですが、目に見えない「ばい菌さん」の理解が苦しい…。

Episode 209 配慮=カイゼンです。
合理的配慮は「トヨタ式カイゼン」で説明すると分かりやすい件。

 難しく考えてしまいがちな「合理的配慮」ですが、核心の部分ではそんなに難しいことを言っているようには感じません。
要はその人のパフォーマンスを向上させるための「チューニング」と「カイゼン」だということです。

Episode 216 予定通りに愛するのです。
タイムテーブルがあることは、あなたとの平穏を作る大事なもの。

 私にとってタイムテーブルとは「家族を愛するための重要な管理項目」です。
これを「無機質で味気ない」と見られてしまえば、その通りでしょう。
ただ、家内安全・無病息災という、普通に家族に求める幸せをどうやって実現しようか
と考えた私なりの努力の結果がこれだったのです。

Episode 266 前年並みが重要です。
保守という発想を軽視してはならない理由は、そこに生活があるから。

 地域や学校の発展のために、役員は働け?
無理でしょ、自分たちの生活を維持するために仕事もしなければならないし、自治会やPTA活動に全精力を傾けてなんかいられない。
自治会やPTA活動に企業の論理は通用しないのです。

Episode 269 失敗を糧にできません。
失敗の中から成功する方法を見つけられない具体的なイメージとは。

 遊具を撤去された児童公園で、子どもたちは何をして遊ぶんでしょうね。
心に小さな擦り傷を作ってこなかった私の中も、きっとこんな風に遊具がなかったのだろうと思うのです。

Episode 270 失敗のイメージがありません。
両親の昔話がチクチクと刺さるのは、何故なのか?

 私の経験には成功例しか存在しない。
吾輩の辞書に失敗はない。

Episode 271 「分からない」でも良いのです。
予定調和の世界には、分からないが存在しないということの理解について。

 私は、現場合わせが苦手だから先に回って落としどころを見つけ、そこを目標に行動することで社会で生活する道を作ってきました。
失敗したら "Reset" してやり直す…それは、予定調和することが前提だからの発想なのだろうと思います。

Episode 272 拠りどころは必要です。
失敗と自己肯定感の喪失を切り分けて考えることの重要性について。

 人は失敗する。
失敗を糧にして生きていく。
それを理解することが大きな意味を持つと思うのです。

Episode 276 プレゼントで考えます。
あなたが喜ぶプレゼントは何か…という他者視点の想像力の話。

 私はずっと物に拘って、相手に似合うかどうかを一生懸命考えてきました。
でもそれは私だけの考えで、私が良いと思ったものをあなたが良いと思うかは別だと、なかなか理解できなかったのだと思います。

Episode 277 過去の失敗を飲み込むのです。
過去の失敗をどのように自分で消化するのかを学んだような気がする話。

 クラッシュして、はじき出された運転席を空っぽにしていられませんから、またハンドルを握って走り出すんですよ。
上手くいかなかった「父親業」を認めて飲み込んで、ここから先。
それぞれの人生を歩き始めた子どもたちとの関係をどうしていくのか。

Episode 278 消去法で拡げます。
ひとりでする消去法ではなく、消去法を共有することによる効果とは。

 限られたフィールドから合わせられるものを探そうとすれば、自ずと消去法が身に付くのだろうと思います。
その一方で、積極的な消去法を使うことで、フィールドが広がることもあります。

Episode 284 「一緒に遊ぼう!」が大事です。
ASD的な「共有の難しさ」って、つまりこう言うこと。

 夕飯で家族団らん。
パートナーは「一緒に美味しく食べること、その時間をシェアする」と考えているのでしょうが、私は「一緒に美味しく食べること、その時間がシェアされている」と考えてしまう。

Episode 285 ずぶ濡れにさせてしまうのです。
ASDの私はが自分の感覚を融通することが苦手であるということ。

 バンドを組むとは、背の高さがバラバラな人たちがひとつの傘に入って雨を凌ぐようなもの。
プールで水を掛け合って子どもと遊ぶとは、しゃがんで子どもと一緒にひとつの傘に入るようなもの。
雨を避けながら一緒にいることを楽しむようなもの。

Episode 286 あいまいを理解するのです。
ASD的な完璧主義は「売り言葉に買い言葉」になりやすい件。

 あなたの考えを受け入れてるつもりで、全て「私の視点」というフィルターが掛かった私の意見に置き換えられていたのか…。
解釈して自分の意見を組み立てる前に、あなたの意見を正しく私が理解しているのかを確認しなくてはいけなかったのか…。

Episode 287 二人三脚を始めます。
あなたが私に求めるのは、私を不安にさせないで…なのだと言う件。

 私はふたつの課題を考える必要があるみたい。
ひとつ目は、この大発見をきちんと理解して、自分だけの世界に落ちないように相手を意識すること。
ふたつ目は、「違う」を指摘されて発生する感情をコントロールすること。

Episode 288 「とろさ」が性格を作るのです。
出来ないをカバーする方法が正確を作る可能性について。

 ASDが私の「とろさ」に影響しているかは分かりませんし、それが「発達性協調運動障害」と関係しているかも分かりません。
でも、「とろさ」が私のASD的な行動パタンに影響を与えたことは事実でしょう。

Episode 290 独り相撲で完敗です。
ASDの予定調和が崩れると、ちょっとしたことが諍いの原因になる話。

 ボタンを掛け違えて最悪の結果。
結局、私のひとりで作った予定表に乗せようとしたことが問題。
パートナーにも長男にも意見を聞いていない…。

Episode 291 朝ルーティンで祈るのです。
ASDの私の朝ルーティンは、スポーツ選手の勝負前の「それ」と同じもの。

 当に "Build up" という言葉が適切な、今日を構築する時間。
私を立て直すには、この時間から。
上手くいかない時は、上手くいかない時こそ、この時間の「ひとり」を正確に実行する。

Episode 292 パンドラの匣の希望です。
自分の特性に気が付くことで発生してしまう「壁」について。

 私が地球人とのズレを認めることは、自分の気持ちが標準的な地球人とイコールで繋がっていないことを認める作業です。
今回、パートナーの地球人としての棘に気が付いてしまった…。

Episode 293 オオカミ少年ではダメなのです。
「分かった努力する」という言葉が持つ軽さについて。

 「オオカミ少年を卒業します!」って宣言したって、何の信憑性もありません。
「きちんとしたボールが投げられるようになったね」と感じるのはボールを捕る相手であって、私ではない。

Episode 294 過去を許せとは言いません。
自覚があろうとなかろうと、積み上げてしまったあなたの痛みは消えない。

 パートナーのココロの中には「積年の恨み」があるはず。
私はその恨みを含んだ全てを受け入れる必要があるのでしょう。
傷を癒し、成仏させるのはパートナー自身。
私が出来ることは、パートナーに安心してもらえる私になる努力をすることだけ。

Episode 295 懲りずにやらかしてしまうのです。
自分を知ることが結果的に苦しさを作るかもしれない件。
 会話は、お互いが向き合わないと成立しません。
どんなに私が真剣でも、相手が疲れていて向き合う気力がない時に、何を言ってもお互いが納得できる良い答えが引き出せるわけがなくて…。

Episode 296 ボードゲームが苦手です。
勝ち筋を読むことが求められるボードゲームが苦手な理由は?

 私は、その卓上の盤面だけで精いっぱい。
「私はこういう勝ち筋を考えるから、ここにこれを」…と考えるのです。
それと同じことを、相手も考えるのです。
それだけのことなのです、分かっているのです。
でも、相手がどのように考えているのかの視点に立って、それをゲーム中に瞬間的に自他の思考を切り替えるとか、難しくてできないのです。

Episode 297 不得手に気が付かないのです。
あなたの「できる」と私の「できる」は違うものを指しているかも?

 もしかしたら、不得手なことに気が付かない?
「出来る・出来ない」と「得意・不得意」がまったく噛み合っていないのかも…。

Episode 298 修飾されるに気付きません。
日本語の特徴は「主語」が省略されるだけではないことが問題かも。

 「上手に」「キレイに」「時間内に」「速く」などの形容(動)詞が付いて、「出来る」の範囲が場合によって限定的になるということが、自発的には私の思考に現われてこないのかも…と言うことかと思うのです。

Episode 299 流れに乗れてないのです。
出来ると思われる評価に出来ない私が帳尻を合わせるとは?

 私の学生時代を振り返って、学業成績はかなり良い子どもでした。
前に成績が良いことが自己肯定感に繋がるという話をしましたが、勉強ができてしまうことが自己肯定感を作り上げるのと同じように「できる」の感覚を作ってしまったとしたらどうか…?

Episode 300 ズームアウトが出来ません。
相手に合わせて言葉の意味の範囲を変えられない件について。

 脳内ズームの動きの悪さがASDの特徴とした場合、から揚げが揚げ物に含まれると知っていて、スッとズームアウトして単品からカテゴリにピントを変えて話題を継続することが出来なくなるような気がします。

Episode 301 「範囲が変わる」ができません。
ASDの私が同じ作品を2回以上見る理由について。

 ひとつのドラマを必ず2回以上は見てます。
ひとつの小説を必ず2回以上は読んでます。
それは私が言葉の意味をズームして理解することに問題を抱えていて、一回だけでは作者が伝えたいと思うことに到達できないからだと思います。

Episode 302 書くと話すは違うのです。
同じ言語でも書くと話すがこれほど違うと感じるワケは何か。

 私にとって「書く」は、自分の表現方法の中で…それでも一番自分の表現したいものを実現できる方法だと思っています。
それは、書いたものを眺め、自分で読み返して意味が通じるのか確認し、自分が言いたいことが表現できているかを確かめて、ダメなら書き直す作業を「相手不在」でジックリと行うというASD的な自己完結の世界で作れる言葉だからだと思います。

Episode 303 冷静に煽ってしまうのです。
あなたの気持ちを知りたいという気持ちの窺い方に難がある私の話。

 私が理解できる物差しに乗せようとすることは、極めて冷静に相手を煽っていると、自分自身も相手も、なかなか気が付いていないような気がしているのです。

Episode 304 グズを成仏できません。
私のイライラを言葉に乗せて言うことは「危険球」を投げるようなもの。

 言葉が得意でないと自覚している私が、
相手の気持ちを察して上手く立ち回れない私が、
相手の気持ちを確かめるために「ちょっかい」を出すような私が、
チクリと刺す程度の「力加減」をコントロールできるわけもなく…。
直撃したら救急車で病院送りのような危険球を投げつけてしまうのです。
周囲から見れば、立派に「キレてる」大人…です。

Episode 305 想いが声に乗りません。
書き言葉と話し言葉は同じカテゴリ内の全く別の能力だということ。

 日常生活の中心は「書く」ではなく、「話す・聞く」といった会話を中心にしたコミュニケーションです。
「書く」と「話す・聞く」は、言語を扱うひとつのカテゴリとして扱えるほど単純な仲間…ではないと思います。
でも、言語というひとつのカテゴリでもあるのです。

Episode 306 失敗の容認が出来ません。
期待された出来るに人一倍拘っているのは、私だよね。

 得意と苦手の凸凹が大きいと、自分自身の中でも「上手くいく」から「上手くいかない」を見るようなことが起るのではないか…と私は思います。
それが、自分自身を苦しめるような気がします。

Episode 307 新たな課題も見えるのです。
共稼ぎの夫婦がお互いの時間をどのように共有するかという課題について。

 大好きなパートナーと、家事は"50:50"で出来たとしても、共有する気持ちが"50:50"になっているのか…と考えることがあります。
この辺のバランスをどうするのか。

Episode 310 理由が後付けされるのです。
プロセスの理解は理由ありきで「どういうこと?」がベースになる可能性。

 自分自身で考えて行動するのなら、私の理論で考えたすじ道で答えを出すので「理論→結論」の発想が出来ます。
でも「摺り合わせる」とは、相手がいて、相手の考え方があって、その気持ちを汲んで…が必要なわけでして。

Episode 311 伝わる価値観が優先です。
ASDと定型には「社会的(にんげん)情報の重視の差」があるという話。

 子どもに対して注意しなければならないことは理解している状況の中で、どちらが明確な基準として子どもに伝えられるか…ということを考えた時、「絶対的な傷」という目に見える評価を前面に押し出した方がキチンと伝わると評価してしまうということなのだろうと思うのです。

Episode 313 そのまま扱ってほしいのです。
ASDの私をどのようにあなたとコネクトするのかというハナシ。

 私とパートナーは、お互いに「違う」を理解しながら、接続できる接点をたくさん作る努力をした方が上手くいくのだと思います。
それは宇宙ステーションに連絡船がドッキングするようなものなのでしょうかね。

Episode 315 ペットが欲しいと思うのです。
ペットという物理的な愛玩動物が異文化コネクタとして機能する件。

 パートナーも私も、分かっているのです。
ふたりの間に入って関係を保ってくれるコネクターが必要だということを。
パートナーと私を「on」で繋ぐコネクターが要るってことを。

Episode 318 罠を仕掛けてしまうのです。
自分の特性を知ることが、かえってマイナスになることもあると思う件。

 振り返ってみて、私の分析は常に「独り」でした。
これではパートナーと良好な関係を作ることが出来ません。
私は結局、ひとりで分かった気になっていたのではないかと、改めて思うのです。

Episode 319 素直に聞くができません。
私の行動の前に、あなたの意見を聞く…がぬけることで起こること。

 「なんで」「どうして」という言葉は、基本的にネガティブなイメージを含む表現です。
悪いことをしたり、意見が噛み合わなかったりするときに出てくる言葉です。
ただ厄介なのは、発言した本人は「あなたの考えを知りたいだけ」というネガティブな要素を含みながらも冷静な態度だと言うこと。

Episode 320 鏡を持っていないのです。
ASDの当事者である私が思う「自他境界の緩さ」の感覚とは。

 一人称の私が「いなければならない自分の居場所」を放棄して二人称や三人称に入り込む…と言ったら良いのでしょうか。
「相手の立場に立って」と言われた時に、私が二人称のあなたの立ち位置に動いて…一人称の私は私の本当の立ち位置にいない。
たから、私があなたの視点に立った時に、私の姿は見えない。

Episode 321 呑み込んでしまってはダメなのです。
ASDの自我は存在する、問題はその表現が苦手なコト。

 カオナシは己というものを持たない…と評されることもあるようですが、「己を持たない者が居場所探しなんてするのか」と私は思います。
本当は自我をキチンと持ち合わせていて、でもそれが表現できないから借り物の姿を用意して、相手が喜ぶことを探して、自分の居場所を作ろうと努力するのだろうと感じるのです。

Episode 322 小骨が抜けてジャンプします。
ことばの意味に引っ掛かり、会話が大味になることがあるということ。

 耳に小骨が引っ掛かっているからといって、小骨にばかり気を取られて「聞く」が成立しないわけではありません。
ただ、のどに魚の骨が引っ掛かっている状態で食事をして、食事の美味しさが半減するようなのことと同じような感じが続くのです。

Episode 323 古い話に注意です。
ASDの私は記憶を捏造してしまうケースがあるという話。

 今となってはどこまでが実記憶で、どこまでか合成なのかが私自身で分からなくなるほどに「外部知識の組み込み」が行われているという自覚があります。

Episode 324 楽しさを模倣するのです。
誰かの楽しいを私に取り込むと、みんなの楽しいに化けるASDマジック。

 「作って楽しい」の部分を創作で混ぜ込んでいると気が付いた時、これも結局のところ「誰かの楽しい」と「私のたのしい」が緩く結合して混ざっているのではないかと思ったのです。

Episode 325 間に小川が必要です。
どんなに親しい間柄でも境界線があると理解できない私の話。

 「仲良くなると、いきなり距離感が近くなるよね。」
だいぶ昔にパートナーから言われた一言を思い出しました。
ずっと言っている意味が分からなかったのです。
これはどういう意味だろう?

Episode 326 緩やかな「間」が必要です。
会話の意味をロードする時間が必要なタイプの人はいるよね。

 私は聞くのがあまり得意ではないので、この流れに乗り切れないのです。
聴いて理解するのに時間が掛かり、そこから言葉にして会話に参加しよう…って時には、もう流れに乗り遅れているんですよね。
だから、聞くだけに徹して話さなくなってしまう…それが一番「場」を荒らさない方法なので。

Episode 330 ココロを押していないのです。
運動の第三法則は、言葉のキャッチボールでも発生するのかもしれない件。

 私はこの作用反作用の法則って、人間のココロにも起こっているのかな…と思うことがあります。
私があなたのココロを押した分だけ、私のココロも押されている…そう感じることがあるということです。

Episode 356 貴女がいての私です。
ASDであろうがなかろうが、気持ちが伝わることは最初の一歩である件。

 発達障害が原因の「社会的な躓き」があって、苦しい時期があったのも知っているけれど、「あなたは私を好き」であることをいつも表現してくれていた…ってね。

Episode 365 責任逃れではないのです。
ASD的な正解探しは、実は不正解潰しと言う方が合っていると思う件。

 私自身を表に出せば、「あなたの考え方が私とどうして違うのか」ということに理解が追い付かなくなる。
自分の考えていることを封印して状況的に正しいと思うものを選択するのが、波風を立てない現実的な方法だったのです。

Episode 366 必死でカードを切るのです。
私は間違えていないを押し切るためには、理論武装する必要がある件。

 自信があるように見える、本当は自信がないASDの姿。
イロイロと気にして見ているのは、持ち合わせている選択肢のどのカードを切れば良いか探しているから。
切ったカードが合っているのか確認したいから。

Episode 368 雨降って地を固めます。
イロイロ自己分析しても私のASDがなくなることはないということ。

 ふたりでいるのに一緒にいる気がしない…というのは典型的なカサンドラの症状のひとつで、共感・共有という「お互いを繋ぐものが欠乏している」と感じるから起こるのだろうと思います。
私はその理屈までは分かるようになったのです。
でも、そう思わせてしまう行動が抑えられない…。

Episode 372 居場所があることが大事です。
障害を隠さずにいられるコミュニティが重要だということについて。

 ASDの自認という大きな課題と向き合うなら、共通の達成感を一緒に感じあえる趣味の仲間を見つけるのは「手」だと思います。
その達成感を掴むことに、定型者も発達障害者も関係ない…と、私は経験上、そう思うのです。

Episode 374 低気圧の中心です。
ASDの私をイソップ寓話「北風と太陽」をモチーフにした例え話①。

 私の周りでは、いつも冷たい北風が吹いているように感じる…。
それはそうですよね…低気圧の中心は私のココロなのですから。
でも、北風を吹かす根本が私自身にあるなんて思わないじゃないですか。
この「社会」を生き抜く知恵こそが北風の原因だと誰が思いますか?

Episode 375 動いて汗をかくのです。
ASDの私をイソップ寓話「北風と太陽」をモチーフにした例え話②。
 
太陽の温かさは、北風に凍えるだけの旅人には届かないのだと思います。
だって、北風を吹かせる原因が私であることに変わりはないのですから。
だから…北風の中で太陽の温かさを感じるには、私が動いて汗をかく必要があったのだと今は思うのです。

Episode 376 北風の中の太陽です。
ASDの私をイソップ寓話「北風と太陽」をモチーフにした例え話③。
 
どんなに北風が強くても、北風と太陽は同居できるのです。
私は自分で汗をかきイロイロと自分自身を振り返る努力を続けます。
そして空には光り輝く太陽があって、私とパートナーは出来る限りの努力で体温を上げるのです。

Episode 382 リベラル思想が曲者です。
ASD的なリベラル思想が意固地をつくる原因になりかねないことについて。

 お互いの意見を第三者的に比べて検討しようとするなんて、ハッキリ言って無理なんですよね。
相手の立ち位置が私と同じように「物事を俯瞰できる位置」になることを求めるなんて無理なんですよね。

Episode 383 「スマブラ」のステージで気付くのです。
ゲームキャラを集合させたステージは、ASDの世界観に似ているかも。

 「大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ」を見ていて、思ったことがあるのです。
私の思う世界観は、スマブラのステージである…ということ。

Episode 386 引っ掛ってしまうのです。
ASDが相手をイラっとさせてしまう会話のスタートにあるもの。

 アンデルセンの童話絵本の挿絵みたいな話です。
オオカミが腹いっぱいにご馳走を食べ、それでもグラスを片手に食べ物を探すみたいなエゲツナイやつ。
「もうひと口、何かないかなぁ」
腹ぺこオオカミな私は、美味しく料理を食べつくして…そんな一言を発してしまったりするのです。
いや、ペロッと食べるくらい美味しかった…という気持ちなのですよ、でも。

Episode 387 意識しないと聞こえません。
ASD当事者が感じる聴覚過敏について。

 パソコンがバックグラウンドで何かの処理をしていて重い…。
つまりそれは、他の場所にメモリとCPUの処理を取られていて、目の前の作業に使える処理の「余裕」が少ないワケです。

Episode 388 プツプツプツプツ切れる感じです。
言葉に引っ掛かることで会話の針飛びが発生しているかもしれないハナシ。

 アナログレコードの倍速再生なら、プツプツと音飛びすることもないのだろうけどね。
どうやら私のアタマの中は「旧式のPC」で出来上がっているようなのです。

Episode 389 稲妻と雷鳴の違いです。
認知の「得意」に引っ張られた結果として凸凹がおおきくなるかも。

 私には聴覚に過敏/鈍麻があって、それ故に聴覚の割合が定型のバランスよりも明らかに低いのだろうと思います。
そして、それを埋めるように視覚の割合が高くなる…。

Episode 390 スピード感がズレるのです。
心理検査の「凸凹」がもたらす違和感の正体とは。

 私の最大の欠点は、インプット情報に対しての凸凹。
正確に入ってくれさえすれば、キチンと理解できる…見るも聞くもね。
瞬間的に理解できてしまう視覚の大枠に対して、理解に時間が掛かる視覚の細部と聴覚。

Episode 391 運動会で考えます。
自分のWAISの結果という特性を考慮して、最強の騎馬戦の騎馬を作れ!

 どういう特性があるのか、それぞれの検査項目を「かけっこ」「綱引き」「二人三脚」でふたつずつ比較すると、特性の理解に繋がると思います。
それをどのようにして騎馬戦の騎に仕上げるのか。

Episode 400 ヒヤリ・ハットを考えます。
氷山の一角の海の底にひそむ「小さな事故」に思うこと。

 何か…Twitterの発達障害からみのツイートを見ていると、重大事故の「1」とか、軽微な事故の「29」ばかりが話題になっている気がするのです。
でもね、実際の生活の中ではヒヤリ・ハットの「300」が圧倒的に多いワケ。
そこに目を向けずして重大事故を指摘しても、きっと当事者は「チンプンカンプン」だよな…って思うのです。

Episode 401 「忘れる」ではなくて「違う」のです。
ASD的な「融通が効かない」を楽譜を読むということに例えると…。

 私の感覚では…昨日が「ドレミ」なら、それに似たような今日は「ドミソ」です。
同じ五線譜に並んだ四分音符のオタマジャクシ3つですが、並ぶ位置が違うから別物です。
それが分かるからこれも分かる…にはならない。
「昨日も言ったでしょ?」と指摘されて、「そうか?」と思ってしまうくらい「ドレミ」と「ドミソ」は違うもの。

Episode 402 繋げるものがないのです。
ASDの「翌日ゼロスタート」には、共通点の理解が難しいことがありそう。

 聴覚に過敏/鈍麻がある私は、苦手な「聞く」というコミュニケーションを避けて生活する知恵を身に付けてしまいました。
結果的にこの感覚が対人コミュニケーションの弱さを生み出すわけですが、それ故に耳に入ったことの「正確さ」には敏感だったのだと思うことがあります。
音と映像の完全一致…という表現が分かりやすいでしょうかね。

Episode 403 得意が苦手を作るのです。
WAISの指数凸凹がどうしてASD的な難しさと繋がるのかを考えると…。

 動画で記憶するタイプの私は、映像で単語を包み込んでしまうのです。
映像の網を振り回して、言葉というトンボを捕まえる感じ…。
コントロールできるのは網、つまり映像側を拡げて言葉を捕まえに行くワケです。
振り回した網に何種類もの単語を捕まえて言葉として理解するのが一般的なのでしょうね。
でも、私はトンボ一匹を捕まえた時点で、映像に突き刺さってしまう…。

Episode 404 欲しい科目は「演劇」です。
私が学校教育の「道徳」に違和感を持つ大きな要因になった本のハナシ。

 なんかね、本を読んでいて思ったのです。
学校教育で「道徳」とかを強化して教えるくらいなら「演劇」の方が良くないか?
日本が発達障害大国なんて言われているのが透けて見える…だって、教えないのですから覚えられないですよね。

Episode 405 「感情」と「符号」の違いです。
ASDと定型の思考根底は、やはり違うだろうと言う思考実験のハナシ。

 職場での「おはよう」の意味は「私が出社しました」「あなたが出社しました」という確認作業ということ…そこに「感情」を入れる必要を感じないし、入り込む余地はないのではないかということ。
こう考えると、定型タイプとASDタイプの思考の拠りどころが全く異なることが鮮明になるのです。

Episode 406 「できる」が「できない」を隠すのです。
できるとみなす「推測」が、勝手に期待値の落差を作っていると感じる件。

 ツイートで示された「みなしできる」とは、ひとつの指標を見て全ての指標を推し量るという定型発達をベーシックにしたときに良く行われる能力測定の方法だと私は思っています。

Episode 407 状況とタイミングの問題です。
「できるとみなす」の裏側にある「できないとみなされる」ということ。
 この話は認知特性だけの話ではなくて、定型の方が自然に持ち合わせているであろう「丸く発達する」という感覚からの逸脱がもたらす「評価基準」の話なのだろうと思うのです。

Episode 410 裏から見たらカーブです。
会話飛ばしと呼ばれる現象の回避に必要なこととは?

 ASDを自認しても、未だになくならない「ボタンの掛け違い」に有効な手立ては、意外とシンプルな合言葉の指差し確認なのかもしれません。

Episode 415 「察し」に種類があるのです。
ASDの察する能力の弱さは、気が付かないだけなのか?

 ASD的な察する能力がない…とは、気が付かない(ロックオンしていない)ケースと、気が付いていても感情の折り返しが上手く出来ない(I know ! を表現できない)ケースの二種類があるのだと私は思います。
私はこの私に内在する二種類の「察する能力がない」を、明確に区別する必要がある…と思うのです。

Episode 416 照準合わせが出来ません。
会話に付いて行けずに会話を諦めることが「興味がない」と捉えられる件。

 家庭の夕食の会話レベルで照準が定まらずにあなたに「ロックオン」できなくなる…ってことです。
この世の中で、対面で「ロックオン」できるタイミングがどのくらいあるか…と問われれば、それほど多くないでしょうね。

Episode 417 トラクションが掛かりません。
未舗装道路に舗装道路の走行性を求めることは無理だろうと思う件。

 私が取り組むべきは、私のココロというトレイルの摩擦力を上げること。
定型の人は普通に舗装された道路を何の不思議もなく往来しているのでしょう。
でも、あなたは山の中のケモノ道に足を踏み入れてしまったワケでして、そのケモノ道を舗装することはなかなか困難なことでして…。

Episode 418 区切るパワーが必要です。
ASDの私が「あなたは別の人」ということに感じる漠然とした不安感とは。

 あなたと私が違う個人だと分かって、私と違うことを考えてあなたが汗を流していることを、私が認めないといけないのです。
でもね…ASDの私には、あなたが私と違うことを考えているという事が、ものすごく不安なのです。

Episode 419 白素材の映像です。
あなたの言葉以上に私の感情を表現する方法はないから、返答に困る件。

 喜怒哀楽に代表される自分の意識する感情とともに映像が記憶されているワケではなくて、白素材としての映像データがライブラリとして並ぶ…と表現したらよいのでしょうかね、そんなイメージなのです。

Episode 420 感情が消去されるのです。
他者視点が欠如することで言葉から感情を消去される装置が装着される件。

 折角「3Dの感情を含めた言葉」を渡してくれたのに、理解する過程で「感情を抜いて2D化」してしまうのがASDの認知特性…ということになるワケです。

Episode 421 子どものころから変わりません。
他者視点の弱さが作り出す感情の消去は言葉だけに留まらないということ。

 私のようなタイプのASDは、言葉を自分の理解できる映像に変換する過程で理解不能な感情部分を抜き取るワケです。
当然、理解できて映像変換される部分は、具体的な事象だけになる…。

Episode 422 上と下とは違うのです。
受動型ASDを作る環境に「下の子」という理由がありそうな気がする件。

 私は高校生ぐらいの頃まで、歳上の人が好きだったのです。
それは「恋愛対象として」も、あるのですが…男女問わずでして、それはなぜかと問えば、知的に先に進んでいる方が多かったから…と言うのが一番の理由だったのだろうと思うのです。

Episode 423 潤滑油ではなく塩水です。
雑談は人間関係の潤滑油である…とは限らないのではないかというハナシ。

 汚い表現をして申し訳ありませんが…。
そのくらい苦労して手に入れた音声・文字情報が「クソ」だったら…という想像ができますか。
一生懸命に聞いた内容がたわいもない雑談の場合、労力に見合うだけの実がないワケです。

Episode 424 同じバージョンを求めます。
自分の意思を相手に100%伝えようとする無理難題をイメージする件。

 ブラウザを超えて「如何に同じように見せるか」は、非常に重要なことでして…逆に同じように見えないと困るワケですよ。
だから、なるべく違うブラウザで同じように再現できるような配列に神経を尖らせていたように思います。

Episode 426 スキが一番ヤッカイです。
ASDの私の精一杯の思いがあなたを傷つけているかもしれない件について。

 物語の中で、カオナシが考えた「千の欲しいもの」は、全くの的外れでした。
この時点でカオナシは「千が悲しんで(怒って)いる理由」を見失います。
でも…「千が悲しんで(怒って)いること」は、カオナシにとっても不本意なのです。
だから、カオナシは悲しい…その理由は分からない。

Episode 427 想いが焦げてしまうのです。
ASDの私は「好き」と「嫌い」の中間の感覚が難しいかもしれない件。
 大っぴらにスキを表現すれば良いのですから…その表現が「カオナシ」になるって問題は、また別のハナシなのです。
でも、パートナーではない「スキな人」には、スキを公に表現できません。
何を言っているんだ…と思うのかもしれませんが、私は「仲良し」と表現できる対人的な "Like" の感覚に乏しいのです。

Episode 428 痛みを模倣するのです。
あなたのことを理解しようとあなたの思いを再現しようとしてしまうこと。

 何であなたの悲しみや怒りを拾うと増幅してしまうのか?
それは、きっとあなたの悲しみや怒りを、私が経験し得る「同種の何か」に置き換えることで、あなたの悲しみや怒りを共有しようとしてしまうから。

Episode 447 歩き方を覚えるのです。
スタートラインに立てば歩き始められる…とは限らないこと。

 網は暴れるほどに食い込み絡みつくのです。網に掛かった白鳥が網を外すには…という話をしました。
網を外すには暴れずに、丁寧に食い込んで絡んで場所を解いて行くしかない…と。

Episode 449 話の枕で考えます。
会話と語りの違いは、何なのかを考えると…。

 私も時候のあいさつや世間の話題をすることはある…けれど、あなたがどのように感じているのかを「探しに行く」のではなくて、私の振ったネタに「乗ってくるか」を見ていたに違いないのです。

Episode 450 答えが違って凹みます。
あなたの意図と違うことを言ってしまうことに対する恐怖心。

 後から感じる「ズレた」感覚は、自分の答えの自信のなさに繋がるのは否めない事実です。
それが正解か誤答かはあまり関係がなく、人と違う部分に興味の力点が置かれることに気が付くことが問題なのです。

Episode 451 レーダーから消えてしまうのです。
定型×ASDの「何を考えているかわからない」の意味するところ。

 大好きなあなたの「異常」を「見て」察知した私は、脳内で「言葉を発しなさい!」という警報を鳴らします。
でも会話が途切れている…つまり、レーダー波は途切れてしまっているワケで…仕方がないので話題を置きに行くワケです。

Episode 454 止める術がありません。
ASDの私があなたの視点を受けとめる余裕を持てないことについて。

 定型というAT車は「車速ありき」なのでしょう。
その車速で走るためにシフトを自動選択し、エンジンの可動域の中でフンワリと出力調整をするワケです。
この場合であれば、ASDが足りないと感じて紛らす何かで埋めてしまった「会話の受け答えのための余力」は、余力として放置していられる…ということなのかな…と。

Episode 455 メインの感覚がないのです。
他者視点がないということは、自己視点に100%で構成されるということ。

 定速回転型のASDの頭脳は、自分の求めている回転数を越える過負荷が掛かると、並行処理のいずれかを切り離すのです。
例に上げた料理とドラマであれば、自らの意志で巻き戻すなり、包丁の手を止めるなりして仕切り直すのでしょうが、基本的に日常の生活の中では巻き戻しをすることは難しいのです。

Episode 456 ピーキーな特性のエンジンです。
自ら動くことのみに特化した思考は、合わせて動くことに弱さを見せる。

 Switchにしても単車の教習にしても「リアクション」なワケですから、受動的なタイミングからの能動的な動きを要求された時に、どうしても過回転が発生する…とすれば、なぜ操作が上手くいかないのかの説明がつくワケです。

Episode 457 苦手と得意は一体です。
ASD的な忘れっぽさを作り出す原因は高回転型の思考パタンかも?

 ASDの頭脳は多くの並行処理をしているのではないか?
問題は「ピーキーなエンジン」が快適であるために、常に高出力状態を作り出してしまう…だから、いざと言う時の「対応できるキャパが狭い」ということなのではないか?

Episode 459 平面の安定が厄介です。
あなたは一体何なのかというものを探しても答えは出ないですよねぇ…。

 キープレフト的な「変えようのない極めてシンプルな大原則」は、ペラペラの紙みたいなものです。
立体的に捉えるもなにも、これ以下に分解することのできない「素数」。
ところであなたは「素数」ですか?

Episode 460 聞くことだけなら出来るのです。
「会話」と「傾聴」は違うのですよ、その差は明白なのです。

 一緒に仕事をしていた同僚は、私のことをよく見ていました。
「HOTASは学生と話している時に、いつもボールペンを分解しているよね」ってね。
聞くのに面白みがない学生さんに当たると、脳作業量をキープするために手作業を始めるってことだったのでしょう。

Episode 469 聞かれて困ってしまうのです。
「あなたはどうなの?」を突かれると、答えに窮してしまうこと。

 「私はこう思っているけど、あなたの意見は?」
「私に合わせるではなく、あなたの意見は?」
「世間はそう言っているわね…それで、あなたの意見は?」
さて、困りましたね…子どもの頃から上手くいかずに心の奥底にしまい込んで封印していた私の意見…ですか。

Episode 473 「投了する」ことが大事です。
障害当事者が「このままでは壊れる」を読むことの重要性について。

 擬態は、ASD者が定型優位の社会で生きていくために自ら編み出した「技術」です。
だから、それを使うことにASD者の躊躇はありません。
それを使うことが定型社会で有利であるわけですから、ASDのパートナーであるあなたも「ラク」かもしれません…でもね。
この対応では「もぐら叩き」にしかならないことは、先に指摘した通りなのですよ。
その先に待ち構えているのは、消耗し切った私とあなた…。

Episode 474 「感想戦」をするのです。
対局終了後の「感想戦」こそ、ASDの私には必要なことだということ。

 ASDの自認とは、何度も何度も、感想戦を行う勇気を持つこと。
それの相手をしてくれるパートナーに感謝すること。

Episode 475 二重構造の罠なのです。
「あなたの気持ちに応えたい」が、袋小路に迷い込むワケとは。

 わかっていてもできないのは、私の気持ちの二重構造に気が付いていないから。
私の気持ちが不安なのか(単構造)、あなたの気持ちがわからないという私の気持ちが不安なのか(二重構造)の区別がついていないということです。

Episode 476 セッターをイメージするのです。
ASDの自己完結をイメージするのに、マンガ「ハイキュー!!」はいかが?

 ASDの思考乗っ取りを止めるのは、バレーボールのセッターをイメージするといいかもね。
『ハイキュー!!』の中で描かれる天才セッター・影山飛雄の人間的な成長は、ASDの自覚・自認に通じる「あなたと私」が描かれていて面白いのです。

Episode 479 違いを認めるのが大事です。
ASD×定型のパートナーシップで絶対に必要になると思うもの。

 ASDの私が白鳥(オオカミ)であることを隠さずに内包する…の裏側は、定型スズメであるあなたも、私がスズメではない…と認めるということです。
白鳥(オオカミ)である私の姿を認める、それが定型のあなたがASDの私と上手に生活するための、大きなポイントだと私は思います。

Episode 480 あなたが決める話です。
ASD×定型のパートナーシップで、定型側に必要になると思うもの。
 
パートナーシップを結んだ後のASD発覚の場合、ASD自覚・自認は大きな鍵にはなるけれど、最も重要なのはそれではないと思います。
最も重要なのは、「傷ついてしまったココロ」を治癒して前を向くことができるのか…ということ。

Episode 481 押し付けられると楽なのです。
受動傾向の強いASDと軍隊的組織の親和性の高さが作り出すもの。

 組織として絶対的な価値観が最優先され、擦り合わせるまでもなく意思統一を図ることができる軍隊的な組織の居心地の良さに、学生時代から気が付いていたということ。
それは体育会的ではなく確かに軍隊的、「理不尽<ルール」であるということ。

Episode 495 根を下ろす土壌に感謝です。
ASDの私が自覚した、その「後の世界」に誰が付き合ってくれるのか?

 パートナーと私が「ここから一緒に歩いていく」上で、この過去に起因するイロイロを、今後の生活で気にする必要はない…と思います。
でもそれは「水に流してハイお終い」ではないのですよ。

Episode 498 小回りできない船なのです。
ASDの私は、誰かの作った情報をそのまま載せるコンテナ貨物船かも。

 大量のコンテナを積み込んだ船の総重量は恐ろしく重く、それを積み込んで洋上を航海するには相当なパワーが必要で、直進安定性を最優先に考えるがゆえに旋回性能に劣る特性は、予定変更に弱いASDの思考パタンそのものではないか…と。

Episode 501 "Reset"せざるを得ないのです。
ASDの "Reset" 癖は一体どこから来るのかを考える。

 私自身を守るための拠り所とする社会的規範は「確立された決定事項」であって、それを調整して変更を加えることは許されないから…。
社会的規範には自分の意思が含まれていないから、自分の思うように変更することが許されないワケです。
必要に迫られて "Reset" を選択せざるを得ないのではないか?

Episode 502 経験するしかないのです。
知識は本から得られるけれど、経験は本から得られないというハナシ。

 お互いの意思疎通のために「どうしたら良いか」を探す目的で本を読む…これが「お互いの意思疎通」の邪魔になる可能性は、大いにあると思います。
私には、自分の足りない経験の代替えに、誰かの経験や知識を頭に注いで穴を埋めようとしてきた苦い経験があります。

Episode 504 「正論」ゆえの「飛ばし」です。
ASDの私が会話飛ばしをしてしまう、その失敗に気が付かないのはなぜ?

 私の答えは社会的価値観で担保された「正論」で、私の考え得る「ありとあらゆる角度」…どこから見ても間違いはないハズ。
正論で間違いではない都合で「失敗した」という認識が持てないなら、「失敗を糧に」…という発想にはなり得ないワケです。

Episode 505 置いて探ってしまうのです。
ASDが「正解置き」に行く理由とは何だろう?

 あなたからのアクションには「いいと思うよ」と答え、私からのアクションは「あなたは何を考えているのか」を探る「(正解)置き」を使うのです。
そこに「私のきもち」は、1mmも現れていませんよね。

Episode 506 視点のズレに気づきません。
ASD的な論点のズレは、自分の納得がベースにないと不安だからかも。

 「自分が持ち得る知識で自分自身が納得できるのか」がポイント。
自分のフィールドで理解できる…即ち自己完結で答えが出るのであれば、自分で自分の気持ちは治められるから、それを守った上であなたにご機嫌でいて欲しいワケ。

Episode 508 中間点ではダメなのです。
ASD×定型の関係で求める着地点の現状は中間点ではないよね。

 お互いの努力量は「50:50」であっても、たどり着く「着地点」はASDと定型…お互いの距離の中間、というのは現実的に難しい…と考えます。
なぜならば、世の中は「定型が標準」で動いているから。
世の中で生きていくためには、マイノリティがマジョリティに寄せていった方が安定しやすいのは事実なワケです。

Episode 509 飛びつく距離感があるのです。
距離が近い人のおススメが何となくに苦手な理由を深掘りすると…。

 あなたは不思議に思うのでしょうが、私が勧められたものに飛びつく…には、覚悟とパワーが必要なのです。
あなたがどんな風に「愛の不時着」が面白いと感じたのか…を探してしまうから。
映画やドラマを見て「みんな同じように感動する」ワケがないのに、感動の中身までの共有を求めてしまうワケです。

Episode 511 手出しをするのは不安です。
あなたの「夢中」に躊躇する二つの理由は…。

 「あなたに付き合ってもらっている」…は「あなたの楽しさを奪っている」になるし、「あなたに付き合っている」…は「私の楽しさに届かない」になる。
だから、あなたがやっていることに手を出すのは「リスク」以外の何物でもない…になるワケです。

Episode 512 「歪み」の尻尾を掴むのです。
社会的常識から突き出る自我がアンバランスに見える件。

 「みんなこう考えているに違いない」は、私の「常識的な意見」だとして、私の恋はどうなのでしょうかね?
受け入れた「社会的常識」は、無意識の内に「みんなこう考えているに違いない」という理由で「何の不思議もなく」自分の意見にすり替わる、それは自分自身の意見だと自分自身が信じて疑わないワケです。

Episode 513 「素」がトンチンカンを作ります。
ASDの天然ボケは、どのように作られるのかを考える…。

 ASDの、質問の対する答えが「トンチンカン(天然)」な時ってあるじゃないですか。
あれ、基本的に「空気が読めていない」からそうなるわけですよ。
簡単に言ってしまえば、目の前で起きていることについて、「素」で答えちゃう…ってこと。
目の前の「ボケ」に対して「自分が常識的と思っていること」で「ツッコミ」を入れてしまうことで、「天然」が発生するワケ。

Episode 514 想像力が大事です。
社会的常識に頼るタイプのASDの常識が更新されない弊害は何か①?

 社会的常識のアップデートがなされていない場合、私の正論は時代錯誤の古臭い価値観を基準に語られることになるワケです。
前回の記事で書いた「トンチンカン」は、あなたのボケに対して正論パンチを繰り出す…って話だったのですが、今回はその逆、「私の正論」が的外れ…ってことなのです。

Episode 515 アップデートの不具合です。
社会的常識に頼るタイプのASDの常識が更新されない弊害は何か②?
 
問題なのは「双方向型のソース」が極端に少ないこと、その殆どが一方的に情報を入力されるものだということです。
当然ですよね、あなたと意見の擦り合わせをする気が無いのなら、双方向の必要性は低くなるのは必然ですから。
ただ、「下り専門」のソースに頼ることには大きなふたつの問題を抱えることになると思うのです。

Episode 557 「恐怖」を知って欲しいのです。
サリーアン課題の正答法は、王道の他に邪道が存在すると感じる件。

 三人称の立ち位置で、私とあなたの意見を見比べ、社会的常識というマスクの穴から「より安全に近いもの」を見極めて、あなたが納得する(であろう)正解を置きに行くことで社会を泳いでいるワケですから、あなたの意見が見えない位置で私の意見を求められることに恐怖を感じると言うことです。

Episode 558 後天的な性質です。
ASDの受動型とは、先天的に持ち合わせたASD特質ではないと思う件①。

 「自分の気持ちのコントロールができない」自閉性質は、あなたが傷つくことへの理解ができず、あなたが気持ちの融通をし始めても、私の「我」を突き通すことになる…大人にここを咎められるワケですよね。
咎められないように「何らかの融通する手段」を編み出さなければならないASDの私は、自分を封印した上で、あなたが何を考えているのかを観察する様になる…ではないか?

Episode 559 自己完結の奥があるのです。
ASDの受動型とは、先天的に持ち合わせたASD特質ではないと思う件②。
 
整理すると、「ASD的な自他境界の緩さ」とは、こころの理論の獲得が上手くいかない私が、社会的に咎められることがないように「自分を封印した上であなたを観察する」というライフハックの獲得の過程で得た「副作用」である…ということになります。

Episode 561 二人称が消えるのです。
ASDの私の「あなたの立場で」が上手くできないその奥にあるものとは?

 二人称のあなたが私と違うことを考えている…が消えてしまうと、「あなたは何を考えているのか」の視点が弱くなる…。
自己中心的に見えるASDの「相手を飲み込む思考乗っ取り」の反対側には、「相手が消えてしまう自己完結」がある気がするのです。

Episode 562 深掘りの先の仲間です。
ASDの私にとって「仲間」とは? 一緒にいたいと思う「あなた」とは?

 目の前にいるパートナーのあなたは、苦手なコミュニケーションがあって、共通で掘り下げられる話題が乏しくても尚、一緒にいたいと思うパートナーなのだと思うのですよ。

Episode 563 主張するのが怖いのです。
ASDの受動型とは、先天的に持ち合わせたASD特質ではないと思う件③。
 
流れに乗ってスムーズに動くことを求められた時、向きを変える動作を挟むことで流れを変えることを望まない…と言うことでしょうかね。
私がガマンすれば済むこと、どちらの腕に打っても効果が変わらないのなら、敢えて主張する必要はない…と思ったのは事実だった気がします。

Episode 570 リセットするを止めるのです。
本当のリセットは環境の変化が伴わないと出来ないを知らなかった私。

 私がASDを自覚して受け入れるのに必要だった「気付き」のキッカケは、"Reset" の乱用による生活環境の破壊で「後ろ盾を失う」ことだったように思います。
そして取り組むべき課題として「"Reset" の封印」があった…多分。

Episode 571 止まれる関係を作るのです。
自分の特性と付き合うために必要なモノは、指摘を聞く姿勢なのでしょう。

 私にとってASD型の単独思考はデフォルトのもので、ネイティブな思考であるが故に止めることは難しいのです。
そこを全神経を使って集中し、発動を抑える…なんて無理なのです、そんなに長い時間ずっと集中力が保てるワケがないのです。
だからね、ASD思考が悪い方向に発動したときにホイッスルを鳴らしてくれる方の意見を聞く、その関係を大事にする方向に考え方が変わった…と言うことです。

Episode 574 表現するのが下手なのです。
ASDは「感情がない」のではなく、その表現が下手なのだと思う件。

 私の感情はしっかりとあるのです…ASDの私であっても。
問題は、その感情を上手に表に出す術がないこと。
問題の本質は、「感情がない」とか「感情が弱い」ではない…ということを、先ずは認識することが大事なのだ…と、私は思うのです。

Episode 580 折れていないに気づきません。
自覚したASDには、迷い込む「結果論の迷宮」があってね。

 ワクチン接種の効果か、コロナ禍も今はその勢いが抑えられる傾向の中で、如何にして父との生活を取り戻そうかとする母と、要介護認定3の父の安全安心を考えたときに、母に父を預ける危険性を心配する私の意見はぶつかります。

Episode 581 「何で」に答えられません。
私の気持ちを社会的に考えられる最善策に代弁させる「卑怯さ」について。

 私は「どのように対応するのが皆にとって一番負荷が少ないか」…という視点で母との会話をしようと試みてみたつもりでした。
でもね、それは私の気持ちではないのですよ。
私は私の生活を、父の介護を「生き甲斐」にしたい母のために割きたくないのです。

Episode 582 虎の威を借りる『制服』です。
誰もが知るブランドに頼れる心強さと、ASDの受動性について。

 私が制服を着ていたのは高校生までです。
それから30年以上の月日が流れ、それでも制服に「良さ」を見出してしまう私は、未だに「ブランド」という看板に寄り掛かって生きている気がします。

Episode 583 「好き」が気持ちの中心です。
ASD×定型のパートナーシップは、一体何が「鬼門」なのか?

 「私はあなたが好き」が自我ならば、そのあなたと一緒にいるためにすることは、山崎まさよし氏が歌うセロリの歌詞が全てです。
そこに「既存の価値観」という鎧を持ち込むことが、あなたに「私に対しての不信感」を懐かせる種になるワケです。

Episode 584 「いたちごっこ」の関係です。
ASD×定型のパートナーシップは、片側の努力だけでは上手くいかない。
 前回は「ASD側の自分の気持ち」を取り上げたのですが、「パートナー側の自分の気持ち」もあると思うのですよ。
あなたは私と一緒に生活していこうと思うのですか?
その為にどうしようと思うのですか?

Episode 586 頭が良い人が好きなのです。
ASD的「思考乗っ取り」の裏側にあるものは何か?

 然るに…引っ張る圧力や、所属を示す制服に安心感を感じるワケです。
この思考が「心地よい思考乗っ取られ」を導くとすると、私の好みは「私よりも頭の良い人」…ということになります。
常に私の先を行き、私の言葉を余裕をもって受け止めてくれるあなたです。

Episode 587 主体性が無いのです。
ASD者が「対等な関係」に苦労するのは何故なのか?

 ASD的な「自己完結/思考乗っ取り」は、「自己中な思考が生み出す直線的な主体性」のように見えて、実は「主体性の欠如が生み出す受動性の代替え」の可能性がないか?

Episode 588 対等な関係が分かりません。
ASD性が主人/上司と良好な関係を結べてしまう場合に起こる弊害とは?

 上司と部下の関係は「上長と部下」という上下関係以外に「業務を達成するチーム」という側面があるワケです。
この「チーム」をどのように成立させるのか…という点について、トップダウンのゴリ押しで「全てOK」になるワケがないのですよ。
そこには、上司と部下の信頼関係が必要になるのです。

Episode 589 横の繋がりに弱いのです。
ASD的なコミュニケーションの不調を都市とバイパスという比喩で考える。

 本来、「心の理論」を獲得する幼少期は、この「縦の繋がり」の他に「横の繋がり」を覚えていくだと思うのです。
先ほどの「道路」で喩えれば、都市計画に基づいて「碁盤の目」状の道路を作る…というイメージです。
ところがですね、私の中にある道路は「私が目にしてきた都市道路の現状」と良く似ているのですよ。

Episode 590 痛みを隠してしまうのです。
「Help を求める=弱みを見せる」という視点で考えるASD者の弱点とは。

 私が「Help !」を伝えられずに押し黙るのは、明らかに「言葉というコミュニケーション・ツール」を駆使する自信が無いから…だとすれば、自ずと無理する理由が見えてくるのです。
つまり、野生動物の威嚇のように「強がる」を決め込むには、無理してでも「通常運転」を継続するしかないワケですよ。

Episode 591 優しいウソなど無いのです。
名作童話「泣いた赤鬼」に思う、ASD的な自己完結な優しさについて。

 泣いた赤鬼の物語のラストでは、青鬼が残した置手紙を読んだ赤鬼が涙を流すシーンが描かれます。
果たして赤鬼はどう思ったのか?
青鬼は、赤鬼の気持ちを考えて村で暴れて…ということをするのですが、赤鬼の気持ちを聞かずに勝手に行動を起こします。

Episode 592 トラウマも影響するのです。
言葉にするのが苦手はAutisticの本質ではなく、トラウマが原因と思う件。

 私は自分自身のASD性を知り、「出来ないことがあるし失敗もある」とわかって、私はどのように思っているのかを考えることで、少しずづ生活が楽になってきたように思います。
それでも、咄嗟の時に発生するASDらしい言動を消し去ることは出来ないのです。

Episode 603 進化が居場所を狭めます。
社会が求めるコミュニケーションスキルがASDを炙り出していると思う件。

 定型の皆さんが便利に使う「コミュニケーション」のレベルが上がることがASD的なコミュニケーションの未熟を炙り出す一因になっている可能性を、私は感じずにはいれれないのです。

Episode 609 データ量が違うのです。
A4の用紙しかないのなら、それに合わせた表現をする必要があるのだけど。

 当然、その脳内画像を言葉に映してアウトプットする労力も変わってくるワケね。
あなたが必要とする言葉の解像度に合わせて発言をコントロールできれば良いのでしょうが、私のフルサイズの脳内イメージを言葉に置き換えるには、膨大な情報量を言葉に乗せる必要がでてくる…あなたには必要ないのでしょうけど。

Episode 610 ナチュラル故に気付きません。
あなたならどう思うか…という視点に弱いとは、どういうことか?

 では、この逆を私が長男にできるのか…ということですよ。
私と長男では、興味も関心のある分野も違うワケで、長男の好きそうな〇〇を私が見かけて、同じ様に手を止めて長男を思ってアクションすることができるのか…ということです。
私には…恐らくこれが、とても難しい。

Episode 617 そのシステムが無いのです。
能動的に理解することがもたらす正のベクトルか否かの差は、大きい件。

 ここに私は、定型一般の方の意見として、初めて「心の理論」の獲得によるコミュニケーションの真意を聞くのです。
必要に迫られた「負のベクトル」による獲得ではなく、自己形成と自己認知を積極的に求めた結果としての「正のベクトル」が原動力…そうなのか。

Episode 618 「ない」の答えは出ないのです。
他者視点のなさは、自分への興味の無さに繋がる原因なのかもしれません。

 「自分への興味の無さ」は「個性・性格」の形成に大きな影響を与えるのだろうと思うのです。
「ペルソナ」の形成に必要な自分への興味がないから「私はこんな人」があなたに示せず、「Give and Take」の「Give」が成立しないワケです。
当然ながら、あなたからの「どんな人なの?」という「Take」に応える術もありません。

Episode 622 埋もれる自閉があるのです。
ASDの「擬態」は、擬態している実感すらない場合があって…ですね。

 ところで私はASDですからね、定型と呼ばれる子どもたちが「普通」に獲得していく「心の理論」を上手く獲得できないワケですよ。
その獲得できない「普通」を、どうにかして獲得しようと努力するのです。
だって、出来ることを前提で周囲が私にイロイロと求めるのですもの。
その求められるものに答えるのは「良い子」の任務なワケでして…。

Episode 626 低解像度が不安です。
認知特性の得手不得手の差がコミュニケーションに与える問題とは?
 得意とする認知の解像度が高すぎて、それを表現する媒体のレベルが足りない…と思ってしまうパタンがある一方で、得意とする表現を使いこなすだけのイメージ解像度が足りないことに悩むパタンが存在する…と言うことです。
認知特性の得手不得手が大きすぎることで、得意を活用しきれないことに悩み、苦手をカバーしようと「苦手の解像度を上げる努力」をしてしまうように思うのです。

Episode 627 積極的な受動です。
ASD受動型の成立は、成すがままではなく、成るべくしてであると思う件。

 今まで私は、受動型…と言う名称に「騙されて」いたように思います。
受動型とは、腕を開いて全てを浴びるように受け入れるようなものではなく、あなたとの接触をガードするファイティングポーズの一種である…ではないかと。

Episode 628 不利益は受容できません。
ASD受動型が示すASDの本質とは、「受動」ではないと思う件。

 「何でまた『先生』という『聖職』を蹴って民間企業へ?(意訳)」という大反対があったのは事実でして、多くの人に敬われる教師という社会的立場が明確な職業を蹴る理由が、当時の両親には分からなかったのでしょう。
この反対を払って民間企業への就職を果たした私は、教職に就くことで発生する「自我」への不利益を、どうしても受け入れることが出来なかったのだと思います。

Episode 629 呪文の言葉があるのです。
エゴセントリックな視点が作り出すASD的「共有」の難しさ、とは?

 逆に旨いものが「期待はずれ」であっても、ふたりで顔を見合わせて「ハズレだったね」を共有することでOKだったりするのでしょう。
でも私はそうは行きません。
美味いものを食べに来たのですから、ハズレはハズレでしかないのです。
ここに「共有する」の認識な差が発生するワケですね。

Episode 630 外向き「内モード」があるのです。
「外モード/内モード」は、「対外的/身内」への対応の差を指す…か?

 私が思うにASDの「内モード」とは、ASD的な過集中によって周辺との調整能力が失われて自己完結思考に陥ることで、外ズラの仮面があろうとなかろうと同じように発生するモノのなだろうということ。

Episode 631 ふたつの「同じ」があるのです。
私の意思を理解して貰うために必要な「しくみの理解」とは?

 あなたのその信念はどこから来るのかを無視できない…オーディエンスたる大勢が「それはどうして?」と、話を聞きに来ることにより、コロッケ氏の評価は向上する…だと思います。

Episode 635 目線が合わずに読めません。
ASD的な空気の読めなさの裏側にあるものは何か?

 私はこのツイートの主題は「空気」で、読もうとするか読もうとしなくても目に入るのか、その結果として合わせているモノが「空気」だろうから、読めないASDの一方的に読まれている「居心地の悪さ」というものを感じる…ということだと理解したのですよ。
そして「あぁ、そうか」とおもうのです。

Episode 647 強気と弱気が同居します。
ASDの「興味の幅の狭さ」が作り出す、得手不得手による気持ちの差。

 出来ないことはなるべく避ける様になる…だとした時に、出来ることへの能動性が発揮されたら、周囲から見てそれがどのように映るのかと考えます。
もしかすると、この出来ることだけに発揮される飛びぬけた能動性が「ギラギラした自己肯定感」の正体だとしたら?

Episode 648 それは一概に言えません。
ASDは、本当に環境の変化に弱いのか?

 要するに「ASDの人は環境の変化に弱く不安定になりやすい」というハナシは、ASD当事者と周囲の方の関係性の中で発生する相対的なものなのじゃないかな…と。

Episode 651 穏健にならざるを得ないのです。
人間、歳を取ると丸くなって…が、全てなのでしょうかねぇ…。

 社会的価値観を後ろ盾に「世間一般的な最適解」を示すことで自分自身の意見を封印してきた私が、障害者としての自分の権利を主張する…その封印した「主張する行為」を開放する時に、強硬派の方のように自信を持って自分の意見を主張できるかと問えば、否でしょうね。

Episode 652 あなたに応える背伸びです。
いわゆる「受動型」が作られる影にある、あなたに応えたい気持ちの話。

 私は「良い子」とみなしてもらえる為に、「良い子」と思われる行動のみを模倣したのです。
そこに私の気持ちがなかった…ワケではありません。
あなたの「満足/安心」に応えるための演技は、あなたの要望に応えるためのものだけではなくて、私の安心を得るための行動でもあったのです。

Episode 653 冗談の理解が出来ません。
良い子を演じるタイプのASDは、ウソへのハードルが低いと思う件。

 「潜伏(≒良い子)型ASD」が、この背伸びを日常的にやってきた結果として自分を偽ることに対しての抵抗感が弱い(偽ることへのハードルが低い)ことは、想像に易いことではないか?

Episode 655 「性格×文化=ライフハック」です。
私は変わらなくても、所属コミュニティが変われば反応が変わるワケで。

 関西文化圏での10年間で培った「ボケ」がそのまま新潟で通用するワケもなく、コミュニケーション齟齬からASD的な自己完結思考の墓穴を掘ることになった過去を思い出しては、地域性という環境がASD思考に与える影響の強さを理解することになるワケです。

Episode 658 絶望感を感じます。
人間ですから、Autistic であることを辞めたくなることだって、あります。

 私は、一体、何をしてきたのでしょう。
私は、一体、何者なのでしょう。
分からない、消えてしまいたい気持ちでいっぱいになっている私がいます。

Episode 660 それが生きる知恵でした。
「はぐらかす」は、誤魔化すではなく、やり過ごす方法としてあるのかも。

 あなたと私という逃げ場のない「一対一の関係」になった時、質問に真っ直ぐ答えない態度は大きな不信感に繋がるのでしょう。
それはもしかしたら「心の理論」の理解不足から別ルートの思考を選んだASDの思考パタンが作り出す生きる知恵の副反応なのかもしれない…

Episode 664 「でも」の回避があったのです。
受動タイプのASD者が「いいわけ」に逃げる理由に何があるのか?

 「でも」「だって」という、出来ないとかしたくないことの理由つけに使う接続詞は、言い訳をするヤツの代表的な口癖として嫌われることが多いのですが、ASDの私が「何でしたくないのか」…と言えば、「失敗が怖いから」の一言で片付きます。

Episode 665 理解の幅が狭いのです。
ASD的な他者視点の弱さが作り出す、視野の狭さと範囲の限定について。

 ここには「私が展示物を」という視点と、「子どもたちが展示物を」という視点があって、その先にはどういう仕掛けが子どもたちの興味を引き出すのかという子どもの反応から想像する学芸員さんの努力という視点も存在するのですよね。

Episode 667 気付きの数が足りません。
ASD的な他者視点の弱さへの気付きが作り出す、新たな不安とは…。
 
私は石巻の公園で、私なりに震災に想いを馳せることはできたつもりです。
ただ…「私の気付き」がどれだけの視点を持ち得ていたかは、わかりません。
ここに拾いきれなかった大きな気付きがなかったか、不安になる気持ちがない…とは言い切れない私がいます。

Episode 675 タイムリミットがあるのです。
覚悟なく「異文化」と付き合うには、心身を健康に保てる時限性があって。

 私のASDの特質を「健全に知る」ということに、タイムリミットが存在する…と私は思います。
タイムアップした後の特質理解は、時と場合によって憎悪と嫌悪を強めることになる…。

Episode 676 理屈で説明できません。
理論的な大義名分と個人の感情が一致するワケはなくて…。

 理解することに疲れ、理解されないことに傷ついてしまった感情の矛先が相手への嫌悪感に向かってしまえば、お互いの特性を分かっていたとしても建設的な対話は難しくなる…そう思いませんか?
ネガティブな言動や表情には、ネガティブな反応が返るのです。
こう考えた時、ASDの特性理解にかかる時限性という問題提起は、現実味を帯びるのだろう…と、私は思うのです。

Episode 684 私の位置が「お留守」です。
他者視点の無さは、感情が無いのではなくて「想う気持ちの空回り」…。

 千に薬湯の札や砂金を差し出して見せる「カオナシ」の献身は、とてもわかり易くASD的な他者視点の弱さを表現していますよね。
「あなたと私は違う考えを持つ他者である」ことの理解の弱さとは、あなたの立場から私にしてほしいことを想像することの難しさにあるワケです。

Episode 685 それでも必死に考えます。
ASD者が「何も考えていない」と言われる理由は何だろう…①?

 ポイントは、あなたの言う「何も考えていない」は、何を基準に言っているのかになるのだと思います。
こう言わしめてしまう奥にある、ASD当事者もそのパートナーも、共に抱えるASD未自覚と無理解が、幸せを掴もうとして梯子を外された憎悪となってしまうようなことが、別の問題としてあるのですけどね。

Episode 686 「気付き」はとても残酷です。
ASD者が「何も考えていない」と言われる理由は何だろう…②?
 
ASDは…少なくとも私は、思考を働かせているのは間違いないから「全く何も考えていないと言うワケではない」のは前回と同じ結論になる一方で、定型(典型) の方が思う「他者視点」の獲得は一切できていない可能性は否定できない…という意味で、「全く考えていない(または考える能力がない)」という結論に至るワケです。

Episode 687 私の納得が必要です。
「モノ」をアンカーポイントにするコミュニケーション術の利点と弱点①。

 あなたは「定型一般の他者視点位置」から私の好意を私の行動から読み取るのであって、私が送ったモノを喜んでいるのではありません…もちろん、モノが気に入ったが当てはまることもあるでしょうけど。
一方の私は、あなたの喜びは「あなたが受け取ったモノ」への、私とあなたの価値の共有にアンカーポイントがあるワケですよね。

Episode 688 「微笑み返し」ができません。
「モノ」をアンカーポイントにするコミュニケーション術の利点と弱点②。
 
あなたが私に共感してくれたのは、プレゼントそのものではなく、あなたのために考えて行動する姿勢に対してのリアクションであって、「微笑み返し」の行動だったかもしれない…と言うことが、ASDの視点からは見えていない。

Episode 689 扱い方が「モノ」なのです。
「他者視点」の有無が、「何かを真似る」にどのように影響するのか…。

 ASD思考の原点である「他者視点がない(弱い)」は、あなたとのコミュニケーションをポイントを作るために「私の行動にあなたの視点を引きつける」ことが必要になるから、行動のスタートは常にアクションということになるように、私は感じたのです。

Episode 690 それが基本かもしれません。
ASD者の「他者視点」の無さが作り出す過集中の世界とは?

 「全集中の呼吸」と言えば、吾峠呼世晴先生の大ヒット漫画「鬼滅の刃」に登場する、鬼殺隊の剣士が人智を超えた力を持つ鬼に対抗する為に、身体能力を飛躍的に向上させることを目的に使う特殊な呼吸法の事なのですが、ASD的な過集中は、そう言う特殊に習得したモノ…ではないように思うのですよね。

Episode 693 信じてもらえず悩むのです。
「カサンドラ症候群」は、必ず定型側に起こる…とは限らないかな。

 誰も私を理解してくれない…という無理解が、あなたと私のパートナーシップの中に精神的な孤独感を指すカサンドラという状態を作るのなら、それはASD×定型(典型) のパートナーシップの、定型(典型) 側にだけ表れる感情ではない…そう思いませんか?

Episode 698 安心感を作るのです。
オーディエンスが私を思う印象って、どこから作られるのでしょうか。

 相手を慮った丁寧な言動を選ぶことは、あなたと私の関係を保つだけでなく、外野からの私のイメージに大きな影響を与えることになると思います。

Episode 705 接触の効果に気付きません。
あなたのことを気にしています…というアピールを私はしてきたのか、と。

 今まで「ASD者が営業に向かない」とされる理由は、ハナシの噛み合わなさとか、雑談の苦手さとか、そう言った単純なコミュニケーション能力の弱さにあると思っていたのね。
もちろんそれもあるのだけど、それだけじゃない、「あなたと上手くやって行きたい」というアピールを私はして来たのか…と言う視点が、私には無かったのかもしれません。

Episode 706 薄れて行くがわかりません。
アピールされるに興味がないと、アピールするの意味も分からない…かも。
 発達障害に限らず、社会生活の不具合が大きくなれば、それは民意として大きなムーブメントになり、行政は力を持ったそのムーブメントを無視出来なくなるのだと思っています。
ただ、無視できないムーブメントを聞き入れるのか押さえ付けるのかの選択権は行政側にある…コレは事実。
では、聞き入れるように仕向けるには何が必要なのか…というところに議員さんや行政担当者さんとのパイプ(コネクション)という営業的要素が顔を出す…なるほど。

Episode 715 モノに頼っても良いのです。
ASD特性が必ずしも封印しなければならない「悪」ではないということ。

 なんでもASD資質に由来する特徴がマイナスに働くワケじゃないのだけど、例えば、自己完結と結びつくことで、モノに頼ることにマイナスのイメージが強く付く…は、あり得るのだと思うのです。
良くないのは、カオナシの「砂金」になってしまうこと。

Episode 717 "Egocentric"な納得です。
「ASD的な頑固さ」とは、一体どんなところに感じるモノなのでしょうか?

 今の社会を構成する多数派の思考は、自動的に Allocentric な位置関係を多用するとした時に、それが物理的な位置関係に限らず対人コミュニケーションにおいても同様であるのなら、あなたとの相対的な関係に Egocentric な視点の納得を持ち出せば、私が納得するまで意見調整しない(正確には「できない」)Autistic は、意見を変えない頑固者に映るかも知れません。

Episode 720 向き合った結果のヒツジです。
ASDは先天的要素であっても、それだけが私を作っているワケではなくて。

 恐らく…その未自覚な頃にこの簡易検査をしていれば、「頑固ヒツジ」という結果は出なかっただろう…と、想像します。
その「頑固ヒツジ」になる前の姿として、「熱血柴犬」や「白黒パンダ」があったように思うのです。
つまり、自覚して自らの Autism 性と向き合う中で、「頑固ヒツジ」が育った、ではないか…と。

Episode 721 自信のなさの表れです。
ASDの自覚が「消極的な進化」を作り出す可能性は当然あるワケでして…。

 私は自分の Autism 性を知る過程で、自分の自己中心的な資質を知ることになったのだと思います。
結果として、自分の行動について、あなたの気持ちをどれほど想像して自分の行動をコントロールしているのかを、必要以上に気にするようになったのだとしたら、それは積極的に学習した成果というよりは、消極的な萎縮によるものなのかもしれません。

Episode 734 読むより送るが重要です。
「愛されASD者」の行動から見る「ポジティブ」の重要性について。

 私の知る「さかなクン」は、メディアを介してお茶の間の届く姿ですからね、少なからずメディアによる(またはメディアを意識した)デフォルメはあるだろう…とは思うのです。
ただ、その「さかなクン」が作るポジティブな雰囲気が、「アイツだからな」って「大目に甘目に」を容認するを作り出している可能性は大いにありそう。

Episode 736 近いが故にできません。
近い関係の人と、サシで「お互いを客観的な判断」をする難しさについて。

 結論を先に言ってしまいましょう。
「非言語メッセージ」の定型一般対応の「付け足し (add_on)」検討は、知識を持った第三者と行う必要がある…が私の出した答えです。
親子やパートナーとの検討は、全くムリだとは言わないけれど、リスクが高いと思うのです。


発達障害を持つ私(恋愛観)

Episode 64 甘酸っぱいのが好きなのです。
言われないと気が付かないから「お互いに惹かれあう」に憧れたことについて。

 恋に恋するとか、少女趣味とか、上手くできなかった恋愛の一番初めの「甘酸っぱい部分」に変なあこがれが焦げ付いて残って燻っている…そんな感じでしょうかね。

Episode 65 球が切れて終わるのです。
ドラマのような恋愛がしたくて力尽きてしまう、演技だったことについて。

 パチンと音を立ててスタートした恋愛は、電気の球が切れるようにフッと消えて終わります。
振り返って思うに、私の恋愛は、三人称の私が演じる別人だったのだと思うのです。

Episode 79 理解しなくていいのです。
男の子的な「ちょっかい」に思うASDの未熟な恋愛観について。

 相手に寄り添うことこそ、恋愛で大事なこと。
それを正面から槍で突いて様子を見るって、敵対心しか生まれないじゃないですか。

Episode 80 物差し2つはムリなのです。
公私でスタンスを変えるとは、物差しを持ち替えることだという件について。

 社会人になった私が悩んだのは、彼女と私は職場で「上司と部下」で、そこにプライベートでの「彼と彼女」の感覚を持ち出すことが分からない…。

Episode 81 敷かれるくらいでいいのです。
ASD受動型の恋愛観って、良くも悪くもこんなことだといういう件。

 「大好きな彼女には、いつもご機嫌で笑顔でいてほしい…些細なことでケンカしたくないので、私の方が引いておく」って感じの付き合い方だったのです。

Episode 110 平等の意味が違うのです。
男女のカラダの造りに起因する大変さへの無理解について。

 社会的な男女平等と、性別に起因する身体的な男女差は同じ土俵で考えられない別項目です。
そこを分けて考えることが出来ずに大人になってしまった…。

Episode 221 異常者なんかじゃありません。
発達障害者と言うマイノリティが全てにおいてマイノリティではないこと。

 真面目な「愛と性」の話をしようと思います。
私たち発達障害者は、異常者ではありませんから。

Episode 222 訳があってメンクイです。
気持ちを察するのが苦手な私は、あなたの何に惚れるのかというハナシ。

 好意を持ってくれているあなたに気がつくハズもないのですから、私の中でのあなたに対しての想いが化学変化するみたいな恋愛ドラマ的な反応は、私の中ではありえません。

Episode 223 三人称の恋なのです。
ひと目惚れの恋が両想いの恋愛成就に向かうための「合意形成」が難しい。

 おつき合いしていた「あのひと」がどのように感じていたのか本当のところは分かりませんが、魂の入っていない人形みたいに見えたか、何を考えているのか分からないバケモノに見えたか…。

Episode 224 LikeとLoveが曖昧です。
コミュニケーションが苦手ゆえにLikeという気持ちのが希薄になる件。

 "Like" なメンクイが、ない。
それは、"Like" と "Love" が曖昧になっていることで作り出される私の感覚なのだろうと思うのです。

Episode 225 直球が胸に刺さるのです。
社会性の理解が乏しいとは一体どういうことなのか…の具体例。

 人間の心理的な部分を表現したロマンポルノ的な和風のエロスを理解できなかった私は、日本人的な倫理観や恋愛観とかいった社会性に乏しかったことを裏付けているような気がしてならないのです。

Episode 226 エロスとエロさは別なのです。
情緒の理解が遅れることで発生する物理面への依存は確かにあった件。

 昔のビールのポスターに見る水着美女の笑顔…。
あの笑顔が水着姿から陰湿なエロさを剥ぎ取るわけです…一般的にはね。
でも私は健康的な肉体美にこそ、エロスを見てしまう…。

Episode 227 次元が違う話です。
コミュニケーションが苦手なことが入手した情報ごとの壁を作った可能性。

 結果的に男性目線の視覚的な性的感情と、女性目線の物語的な恋愛感情が、私の中では別次元のモノとして認識されてしまったのだろうと思います。

Episode 228 夢か現かわかりません。
物語がフィクションであることへの理解不足はあっただろうという件。

 コミュニケーションが苦手な私は、物語の中の非現実と、目の前で起こっている現実の区別が難しかったのだと思います。

Episode 229 ミックスジュースが作れません。
あれとこれを混ぜあわせて理解することが苦手のことが起こす不整合の件。

 頭の中はミキサーではなくてコップ、頭の中のオレンジジュースとリンゴジュースは、いつまで経ってもミックスジュースにならないのです。

Episode 231 どこで覚えるのか不思議です。
性教育を受ける意味は、障害があるほど大きくなると思う件。

 キチンとした性教育が大事だと思うのです。
特にコミュニケーション能力に不安のある発達障害者には、明確な表現の性教育が必要だと思うのです。

Episode 232 仮想現実の恋なのです。
ASDの私が「普通」とズレていることに気が付かない、その理由。

 私のとっての少女マンガとは、コミュニケーションを通じて得ることができない、私の成長を補完する重要な「経験」でした。
友人や恋人との関係を実際に経験できない分、物語に経験の代替をさせる…言わば、VR。

Episode 233 金魚が住めるかわかりません。
金魚が住むには水がいるのですが、どんな水でもよいワケではない件。

 金魚鉢に、経験という水を注ぎこむ。
不足してしまう水の代わりに、どんな代替を足すのか…。
それは常識という金魚が住める水になるのか?

Episode 234 弱みを握ると危険です。
経験の代替えが幅を利かす恋愛の危険性とは?

 物語の最大の欠点は私が紡ぎ出した経験でなくて、彼と彼女という他人事を横から見ているということ、自分の意思とは関係なく場面は進行して、電車が駅に到着するように関係が深くなっていくのです。

Episode 235 楽しくないと気付くのです。
あなたと私の関係を決められたレールで演じていたとしたら、楽しいのか?

 デートとは、一緒に時間を共有することに意味があって、水族館に行くことやイルカショーで水しぶきを浴びることが目的ではないワケです。
マンガに描かれるそれは、共有したエピソードでしかない、対人コミュニケーションスキルが足りない私は、この共有するという感覚に欠けていたのです。

Episode 236 あばたもえくぼも受け入れます。
ひと目惚れの恋を成就させる方法とは?

 高橋留美子さんの名作「めぞん一刻」で、ヒロインの響子さんにひと目惚れする五代裕作。
相手は未亡人であって、自分は年下で、大学受験に失敗した浪人生で…。
イロイロ卑下する要因はあっても、結局のところ乗り越えなければならないのは「相手のここが…」ではなくて、自分の気持ちなワケです。

Episode 237 本当の恋を知るのです。
あなたと一緒にいるために捨てなければならないもの。

 意中の人が喜んでくれている姿は最高です。
その時間を共有するということにデートの意味があって、それが恋なのだと、私は彼女と過ごすことで初めて知るのです。

Episode 238 やっと理解するのです。
今まで別々に管理されていた恋愛と性愛が融合する大事件があった件。

 やっと気が付いた。
衝撃でした。
共有の先にパートナーとのスキンシップがあり、それがキスであってSEXだと知るのです。

Episode 239 途端に臆病になるのです。
気が付くことは大きな進歩である裏には、気付いていなかった不安がある。

 物語では、その先の性愛に導かれるのが一般的な流れ…一体感を求めるのがそれだとも気が付いたし、戸惑いながらも私もそれを求めているとわかっている…でも。
彼女はそれを求めているのか?

Episode 240 気付くとできるは違うのです。
気付きのキッカケから気付き、でもそれを応用できるかと言えば、難しい。

 私は人として生きていく中で人を思いやることが重要だという事を、パートナーとの関係で理解しました。
でも、その関係性の構築方法を理解しているのかと聞かれれば、首をかしげてしまいます。

Episode 241 彼女に言わせてしまうのです。
物語の言葉は、あなたと私の物語りに答えを出してくれません。

 でも、でも、でも、彼女はどう思っているの?
ズルズルと彼女のペースでデートを重ね、時間を共有するという楽しみを「シェア」して、でも私たちの関係は初めて彼氏彼女が出来た中高生のそれのように、先に進みたいのにどうして良いかわからない…。

Episode 242 関係ないと思うのです。
ASDだから結婚できないとか、何なの?

 結婚前にパートナーがASDだと気が付かないのは何故か…なんて、ネットで騒がれているようですが、結婚に至るまでに気が付く必要があったのかと思います。
少なくとも私たちの関係性は、私がASDであることで成立したのだと思います。

Episode 243 "Home"の共有で躓きます。
受動傾向ASDの新生活とは、新たなルーティンを作ること。

 どのように"Home"を築いていくのか?
今までのルーティンを全て崩して新生活を始めたワケですよ。
途端にカサンドラを感じ始めるあなたの裏側では、必死で新しいルーティンを探る私がいる…。

Episode 249 掴み取れない霧なのです。
カサンドラ症候群は、決してモラハラ/DVとイコールではない件。

 上手くかみ合わない、でも愛されている実感はある。
必死に愛を提供するあなたは感じる…でも、私の気持ちはあなたをすり抜けてしまう。
霧を掴むみたいに。

Episode 250 私も「穴」が欲しいのです。
煮詰まらないようにする逃げ道は、お互いに用意されるべきだと思う。

 何か考え込んで不機嫌そうに見える私。
不機嫌に追い込んだんだではないかと不安を感じるパートナー。
途切れる会話に焦りを感じる私。
嫌な感じに不安が不穏を呼ぶスパイラル。

Episode 254 ハグしてキスして出掛けます。
感情表現の機微が苦手なら、ストレートに振り切った方が良い場合もアリ。

 寂しさを埋めるための具体的な行動が、私たち夫婦では存在していてですね。
仕事に行く前に必ず「ハグ」して「キス」して「行ってきます!」と言う…アラフィフが、だいぶ恥ずかしいですね。

Episode 332 「愛」と「性」は別物です。
愛と性が「普通」である自身がないというハナシのプロローグ。

 ここに突然、三つ目の欲として「性欲」が人間の成長の過程で現れるわけです。
これが、種の保存という生物に与えられた「子孫を残すために必要な欲求」であることは分かるのですが、私には、ASD者って「ここの部分」が不完全で不思議な形をしているような気がしてならないのです。

Episode 333 社会性に欠けるのです。
ASD的な偏った社会性で円満な社会生活が営めるか疑問を感じるハナシ。

 人間の性とは、社会性の塊である。
こんな大きなお題目を掲げなければ抑えられないほどに、私のSEXに対しての衝動は社会性に欠けた動物的な快楽に寄ったものなのだろうと思うことがあるのです。

Episode 335 異性が好きなのは偶然です。
過敏/鈍麻などがもたらす影響は、五感の不具合に限らないかもしれない件。
 感覚過敏/鈍麻は自分のニガテを遠ざけて通るコミュニケーションの欠落と独自の思考パタンを作り出す原因のひとつになると私は考えています。
裏を返せば、自分の美的感覚にはどこまでも忠実で、そこに社会的な通念に基づく構造的な美意識や常識は存在しないのです。

Episode 336 常識で説明できません。
所属する(性別)コミュニティに対する窮屈さの問題を感じる件。

 基本的にASDの思考は、周囲とのコミュニケーション不足から社会性の獲得に苦労し、それ故に感性の矛先が独自に進化している部分があるのだと私は考えています。
男性よりも共感性を求める傾向の強い女性社会は、男性ASDよりも「共感」という社会性を無理やりにでも獲得せざるを得ない環境に置かれることが多いのだろうと思います。

Episode 338 自転車の練習が必要です。
人間の文明が作り出す「愛と性」という自転車操業を思う件。

 人間の本能的な性と、社会に育まれた常識の上に成り立つ愛は、自転車の両輪のようなもの。
周囲とのコミュニケーションをとる中で社会性を身に付けていく…それは、愛しいものの形を理解していくことでもあると思うのです。

Episode 340 社会に繋ぎとめるのです。
愛の形は時代と共に変化するもので、普遍的なものではないと思う件。

 私は必ずしも社会的な常識を纏った愛の形が素晴らしいとは思っていません。
ただ…この世の中を生き抜いていくには、最低限の社会的なスキルを理解する必要があるワケでして、そこには「社会の常識的な思考とはズレている自分」という認知が必須だと思っているのです。

Episode 341 結局シンプルがベストです。
具体的な形に安心感を感じるASDの私は、それをベースにするのが良い件。

 具体的に愛を形にして確認できる行為は、物理的なASD脳でもシンプルに理解できる。
性で愛を確認するというのは原始的な方法かもしれません。
ただ、これが私にとって一番安定した愛情表現であるというのも事実なのです。

Episode 342 捧げるものではありません。
パートナーシップの愛は双方向で、捧げるものではないと思う件。

 ちいさな子の初めて受け取る愛のカタチとイコールではないのです。
それは親が子どもに対して「守るべき愛しいもの」として捧げる愛と同じではないのです。

Episode 358 彼女を幸せにするのです。
受動型ASDの私が自分の意思で能動的にあなたを求めたという大切なこと。

 苦手な対人関係を押し切ってまで手に入れたい意中の人との生活って、どれだけ自分を奮い立たせるパワーが必要なのか…と思うのです。
そういう意味で、結婚しようと決心した人とそこを越えられなかった人の間には、自己肯定感に温度差があるように思うのです。

Episode 359 背中に傷があるのです。
ちょっと変わり者のASDを好きになってしまうとは、どういうことか?

 人間ですから良い時も悪い時もあって、悪くて苦しんでいる隣を強烈なオーラが掠める。
ASD的な出会いの裏側には、定型者の傷が隠されている。
私の数少ない恋愛経験で全てを語るのは無理です。
でも私は…私の経験上、それを感じずにはいられないのです。

Episode 360 お姫様だっこで気付くのです。
ASD的な距離感と、それを容認してしまうあなたの状態と…。

 付き合い始めたころに背負っていた大傷を癒すだけのASD的な距離感の近さは、多分…定型者には出せないと思います。
それ故に発生するその後のASD者とそのパートナーの問題は、埋めた傷と同じだけの谷になる気がします。

Episode 363 愛が殻を破るのです。
ASD×定型のパートナーシップだからできることもあるように思う件。

 多分ね、私はパートナーに「挑発」されたんです。
「私をつかみ取りたかったら踏み込んで来い!」
彼女は最初から境界線を越えてお姫様だっこされることを期待していたように思います。

Episode 364 気持ちを表現したいのです。
恋愛はASDの自発性を引き出す薬なのかもしれない件。

 恋愛の破壊力ってすごいのだと思うのです。
だって、一番苦手な分野に自ら入り込もうとするんですよ!
人つき合いが極端に弱い私が、自分の性格を捻じ曲げてまで彼女と一緒にいることを選択するのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?