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ニーチェ『アンチ・クリスト』について(まんがで読破シリーズ)

 正直に告白すると、現時点の自分は、キリスト教やイスラム教といったものに懐疑的である。歴史を見れば、文字通り「神の名の下に」昔も今も宗教戦争が繰り返されている。戦争はたくさんの人を不幸にする。宗教は多くの人々を救う光の側面もありつつ、宗教戦争に代表されるような対立を生む負の側面もあると俺は感じている。

 また、哲学の歴史で言っても、キリスト教が世に普及する以前の、古代ギリシャやローマの哲学は明快で実際的で大好きだ。ところが、キリスト教が哲学に影響を及ぼすようになると、途端に観念的すぎて理解に苦しむようになる。あれだけ全てを疑いまくったデカルトも、神がどうのこうのと言い出してから途端に論が飛躍し、俺としては理解不能になる。もちろん、古代ギリシャやローマにも神話があり神という概念はあったが、この『アンチ・クリスト』でも言及されているように、それらは民族という括りがある神話であり、民族を褒め称えるためのものであり、それらの神は民族の象徴であった。

 しかしキリスト教は、もともとはユダヤ人の神だったものを、普及を広めるために、民族という括りを取り払い、あちこちを捻じ曲げて扱われるようになったという。

 聖書をもとに、イエスの教えをぎゅっと集約すると以下の5つになるという。

 ①自分に悪意をもつものに刃向かわないこと。
 ②外国人や異民族を区別しないこと
 ③立腹せず、軽蔑しないこと
 ④法廷に立たず、誰の弁護も引き受けないこと。
 ⑤妻が浮気していても離婚しないこと

 いわば生きる上での戒めのようなものだが、イエスの弟子たちはイエスの考えを理解できず、捻じ曲げた解釈を広めていってしまった、それもイエスが戒めている復讐の念に駆られて、ということらしい。

 さらに弟子たちに言及すると、「なぜ神はイエスを死なせたか」という重大問題に関しては、「神はイエスを罪の赦しのために与えた」とした。ニーチェは、これはイエスの死をも利用した非道な行いであるとしている。

 自分が特に気になったのは、キリスト教信仰の最終目的である「神を信じるものは罪の赦しを得て永遠の命に至る」というものである。これは死なない限りは達成できず、つまり生きているうちに達成することは叶わず、そのためにできることは「祈る」か「悔い改める」しかないとし、これは信者の飼い殺しであるとしている点だ。確かに、自分がキリスト教に感じる懐疑的な部分はこういうぼんやりとしたところにあるんだろうと感じさせられた。本書では対比する形で仏教を例に挙げており、仏教の最終目標は「心の晴れやかさ」「静けさ」「無欲な状態」などであり、これらは生きているうちに達成可能で、よっぽど誠実で論理的な宗教であるとしている(自分も仏教の教えは好きなものが多く、影響を受けている)。

 とまあ、もともと自分がもっていた懐疑的な部分が、本書を読むことでより明確になった。しかし、もっと色々な面から、例えばキリスト教を信仰する側の立場の本なんかも読んでみたい。実際、あれだけ聖書の嘘を暴いてきた科学者のなかにも、それでも神を信仰していた人々がいるというのも聞いたことがある。こんなことを俺個人が勉強したところで何になるのか分からないのだが、なぜか知らんがとても知りたい。こういうことを知ることが、世の中とか人間とかを理解することに繋がる気がするからだ。

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