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怒る子ども

12歳の頃、私はしばしば、世界に対して怒っていた。

ニュース番組を見たり新聞を読んだりして、今世の中で何が起きているのかを知って、それに対して自分の意見を持ち始めた頃だった。先生や両親とニュースを話題にする機会も増えた。話相手になるのはとりわけ父が多かったように思う。父は毎晩晩酌しつつ、ニュース番組にああだこうだ言い、子ども相手に議論を吹っかけた。要は酔っ払いがクダを巻いているのだけど、私はそんな時間が嫌いではなかった。社会について知ったり考えたりするのは面白かったし、大切な、大事なことに思えた。しかし大抵は私が怒って終わったような気がする。社会問題について私が出す意見は、シンプルな、しかしだからこそ子どもでも分かる真実、のつもりだったのだけど、多くの場合「色々事情があるんだ、大人になれば分かる」というフレーズで片付けられた。12歳の私には、大人が現実から目を背けて言い訳しているように思えたし、子どもが子どもであるという理由で、真実に辿り着けないかのように言われるのは癪でたまらなかった。

子どもは、大人が思っているほど「何も分からない」存在ではない、と私は思っていた。私は、私が今考えていることを絶対に忘れないで大人になってやる。

最近、グレタ・トゥーンベリさんのことが話題になっている。私も、たまたまテレビ中継でグレタさんがとても強い口調で話しているのを見た。それからスピーチの日本語訳をNHKのサイトで読んだ。彼女のスピーチについて、Twitterで色々な議論が交わされているのも見た(ただし私がスムーズに読めるのは日本語だけなので、その限りである)。とても多くの人が、「彼女はまず学校に行くべき」「きっと誰かに操られてる」と言っているのを見た。

子どもは、大人が思っているほど「何も分からない」存在ではない。

12歳の私がもしグレタさんのスピーチを見たら、「私は海の向こうで学校に行っているべきです。それなのに、あなたたちは私に希望を求めてここにきたのですか?よくそんなことができますね!」というところで大きく頷いただろう。これできっと大人も目を覚まして、環境問題に真面目に取り組むはず、と期待しただろう。私は大人に怒りながら、深いところで信頼していたのかもしれない。子どもが一生懸命訴えたら、大人もきっと誠実に受け止めてくれるはず、と。

ごめんよ、12歳の私。大人はそんなに大人ではなかったよ。厳しい現実を見たくなくて、あるいは単に自分が非難されていることから逃げたくて、子どもの言うことに取り合わなかったりするよ。幼稚で、しかも大人であることを利用してずるく言い逃れようとするよ。気候変動はあなたの頃よりひどくなっているし、大人の私は大したことはできていない。私は、あなたが何を真剣に考えていたのかもう忘れてしまった。あんなに強く、忘れないと決意していたのに。

確かに、大人になってみたら色々あったのだ。ペットボトルは軽くて便利だし、フィリピンのバナナは安くておいしい。車と飛行機なしでは私の生活は成り立たない。でも、全てを「しょうがない」で流してしまって、12歳の私は納得するだろうか。こんな大人になりたくなかったのに、と言わないだろうか。

グレタさんのスピーチそれ自体に強く心を動かされた、というわけではない。自分もかつて子どもだったことを思い出したのだ。無力でごめん、でも出来ることはやるよ、とせめて言い訳をしたくなった。グレタさんと、その他全ての子どもと、かつて子どもだった自分に。

なるべく地元の食べ物を買う、ペットボトルを買う回数を減らす、服は気に入ったものを長く使う。それから、環境保全についてもう一度学ぶ。どれだけ効果があるか分からない。でも、せめて出来ることはしたい。格好悪くても、無力でもいいから、真剣な子どもに対して、真剣に向き合う大人でいたい。それが、12歳の私に対して、最低限守らなければならない約束のような気がする。

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