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【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ⑮「たから」と「ちから」【改訂】 <101号 平成31年2月>

「たから(宝)」とは、「田(たんぼ)」の恵み、即ち米のことであり、古来、日本では米を宝とありがたみ、田を耕す民を大君は尊重して「おほみたから(大御宝)」を称して慈しみ下さった、とご皇室を敬慕いたします。

『ををんたからの 居も安く 靖国宮と 称ゑます』ホ序。
あるいは、『華おつくして その明朝は おおんたからに 拝ましむかな』ホ27

とあるように、人民を「大御宝」と親しみ呼んで下さったのは事実ですが、ホツマ伝承では、「田を耕すから宝」と表現しているようには思えません。

「民」とは「田身」であり耕作民が「たみ」であるという解釈が人口に膾炙されていますが、ホツマでは、「キミ(君)」の慈しみを受けるすべての人民が「タミ」であり、士(兵)農工商ともに含まれ、しかも勤労の義務を謳う記述はありません(「教ヱ受く義務」はある)。

「たから」は、尊貴なものの「モノザネ」であり、「たからもの」の略語と理解できますが、その辞解には、いくつかの解釈が成り立ちます。

「たか/ら」と観るか「た/から」と観るか。「たか」は、「タカマ」や「タカミクラ」の尊貴な「貴(たか)」と観ることが出来、「ら」は「光」や「霊代」と解釈することが出来るでしょう。一方で、「た」を「天・陽・父・左」と陰陽の上位と観て、それの「族(から)」あるいは「現(から)」つまり具現化と解釈することも出来そうです。

「ちから(力)」は、優れた能力を云いますが、「ちから」が、「たから」と並ぶ語であると考えると、「ちか」では解釈出来ず「ち/から」と観たいところです。即ち、「血/乳/霊/命(ち)」の「現(から)」つまり発揮するもの、と解釈出来ます。

 ヲシテで「たから」と「ちから」を比較すると、違いは、「タ音行」の「空(うつほ)」か「風(かぜ)」の違いだけであることに気づきます。「空」が本質であり「風」が発動であるとことかんがみると、興味深いです。

 ところが、駒形さんは、「たかる(集める)」の名詞形としての「たから」という解釈も打ち出しています。

 ただ集めたものに過ぎない「たから」は塵滓と変わらない。
『宝集めて 蔵に満つ 塵や芥の 如くなり』ホ13

は、ホツマの「知足」哲学を表現していますが、「たから(財/材)」は、活用、発揮させてこそ有益なものであると教えているわけです。

「三種神器(みくさたから)」も、拝み崇めるためのものでは無く、そこに両神や大御神の込められた「教ヱ」を引き出す活用が無ければ、空しいものになってしまいます。皇国の盛衰のカナメは、此処にあるのかも知れません。
(駒形「ほつまつたゑ解読ガイド」参照)

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「大御宝」という呼称は、たいへん美しく、聖上がわれわれ庶民をそのように呼称して下さることはありがたく、日本国の美風です。君民一体のお国柄を現す一例であり、世界に類を見ないものでしょう。

この辞解では、「たから」と「ちから」を考察しました。このふたつの言葉は、相互に深い関係をもつものと考えたからです。

「大御宝」の語源は「田から」生まれた財(を生む労働力)だから、という解釈をよく目にしますが、とらさんはそのように考えていません。「たみ」は、存在そのものが「たか(高天)ら(族)」である、と古来、日本人は(そしてご皇室も)考えていたのではないでしょうか。


『縄文の教え88』より


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