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時をかけるおじさん 3/ 父はアメリカ人みたいな人

父は本来、アメリカ人みたいな人なのだ。

わりと豪快な性格で、家族(特に娘)に甘く、外資系企業で勤めていてよく働き、
ぺらぺらと英語をしゃべり、比較的誰とでも仲良くなるが合わない人とは合わないと決別する、フランクな性格。
基本的にはレディファーストで、人の後ろを歩くのが好き、というか後ろを歩かれるのが好きではない。(ゴルゴ13なの?)

家ではあまり怒らなかったが、仕事上ではよく怒っているイメージがあった。バリバリの営業マンで、自己主張も態度も強めにブイブイとした手腕で周りを唸らせ、世渡りがうまくやり手(たぶん)で、収入は高く我が家は比較的裕福でいられた。

父には、長年やり続けている趣味という趣味はあまりなかった。読書や映画や音楽、エンターテインメントや文化的なことに興味は高いが、やることなすことにお金をかけるなあ、ということは子供ながらに思っていた。
新しもの好きで、家電はいち早く取り入れる。なので我が家は機能が重複している家電がたくさんあった。おもにテレビやレコーダーなどのAV機器。男性はそういう人も多いのだろうけど、なんだか無駄だな、と思っていた。
メールなどの文面は、日本語よりも英語のほうがうまかったように思う。

父は本来、アメリカ人みたいな人なのだ。

50歳の頃、働き盛りなアメリカ人よろしく、ハードな仕事と並行して、MBA(経営学修士)取得のために大学院に通っていた。そんな多重生活の中で父は、ある日会社で、てんかん発作をおこして倒れた。その後救急車で運ばれ、なんと集中治療室へ。

当時高校生だった私はなかばパニックになり、父が死んでしまうのかという衝撃で涙が止まらないまま、先に病院へ向かった母を見送り、その後小学校から帰宅した9歳年下の弟を連れて、タクシーで病院に向かったことを覚えている。タクシーでも涙は止まらなかった。
病院に着いて管だらけの父を見て、ああもう父は死んでしまうのか、と思ってまた涙があふれた。
大学生だった兄がずいぶん冷静で大人に見えたものだった。

その後ICUで意識を取り戻した父の第一声は、「会社に戻らなきゃ」。
兄は「まず歩けるようになってからな」といった。

退院後の生活にそこまでの支障はなく、父はまたハードな生活に戻った。
とはいえ一回間近に迫った死を見ているので、家族も多少は無理をしないように口を挟みながらとりあえずMBA取得までは見守った。

しばらくすると忘れたようになるもので、父は何の変哲もなく普通の父に戻った。と思われた。

文・絵 / ほうこ

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