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養生訓巻第一 貝原篤信篇録 総論上 ㉗ 鳳凰堂流解釈


[原文を現代文に改変]
古典には次のように書かれている。

莫大な禍は須臾を我慢できない事で起こる。

須臾とはしばしの間を言う。

大きな禍は、しばしの間欲を堪えられない事で起こる。

酒食色欲など、しばしの間少しの欲を堪えずに大病となり、一生の災いとなる。

一盃の酒、半椀の食を堪えずに病となる事がある。

欲を欲しいままにする事は少ないが、破る事は良くある。

たとえば蛍火ほどの火が家に着火しても、火が盛んになると、大きな禍となるように。

古典には次のようにも書かれている。犯す時は僅かで秋毫の如し、病と成ると重きこと泰山の如し。

この言葉は的を射ている。

凡そ小さな事が大きな災いとなる事が多い。

少しのやり過ぎから大きなわざはいとなるは病の常道である。

慎しむべきである事が分かる。

常に欲と慎と言う二語を心にかけて忘るべからず。

鳳凰堂流解釈
ここまでくると、如何に鳳凰堂自身が欲に塗れ、慎みが浅い事に猛省する必要がある気がします。

ただ、現代では家、移動手段等、文化、文明と呼ばれる欲の発達が著しい為、そうそうこの境地にはたどり着く事は難しい為、先ずは少しずつ、できる範囲で断捨離(物も心も)する事から始めています。

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