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私たちはいつだって、「最強の女の子」に戻りたい。―2019.4.14 From Fuka

親愛にて信愛なるアヤノへ。

「好き、好き!めっっっちゃ好き!」と言える貴女を私は愛しているという事実を、まずここに明言しておこうと思います。
何度も2人の間で話題になったことですが、私には好きなものがありません。
武道も一生懸命やったし、読書もするし、美術館にも行くし、アイドルに関して論じるし、恋愛に関して哲学することもしますが、果たしてそれを「好き」という言葉で表せるかというと、疑問に思わざるを得ないのです。

だって、本当に好きだったならもっと一生懸命稽古に行くこともできた。
好きなら移動時間寝ないで本ばかり読むでしょう。好きなら展覧会の情報を逐一チェックし毎週末外に出て、好きならライブに行って汗をかいて、好きなら、好きなら―――

結局、私は何にも好きじゃない。これは謙遜でも自己卑下でもなく、確信です。

でも、貴女がくれた手紙を読んで、気づいたことがあります。貴女が抱える、好きなものはたくさんあるけど、蓋を開けたら自分は空っぽなんじゃないかという疑問と、私が持つ、結局私は何にも好きじゃないという確証――この2つは、実は同じものなのではないかと思うのです。

結論から言いましょう。私たちの「好き」のレベルは物凄く高い。
「ただ好きである」ということは許されない。好きであれば最高峰の知識を持ち、最大の行動力と時間をかけているという事実が必要です。アマチュアの立場では許されない。プロか、せめてセミプロくらいでなければ、私たちは「好き」を自負できない。だからほとんどのものに関してセミプロ、例えば職業にしていたことがあるとか――そういう経験があるけれど、プロにまで至ることのなかった貴女は自身を「好きなものはたくさんあるけど空っぽ」と称するし、セミプロにまでなったことのない私は「好きなものなど何もない」と確信している。プロであることが=自身の立場の確立であると考えている私たちは、未だに何者にもなれない。中身のない、空虚な人間だと言わざるを得ない。

本当は、「好き」にそんなに重い枷をつけなくたってよかったはずなのです。お金も時間もかけられなかった小さな頃、私たちはあらゆるものを自信を持って「好き」と言えたはずだったのに――そこまで考えて、「だからか」と思いました。

私たちが小さくて、あらゆるものを、もっと自信を持って好きだと言えていた頃。これらが私を構成していて、私は支えられているのだと確信が持てていた頃、周りにそんな子はいなかったと記憶しています。つまり、私は誰よりも本に詳しくて漫画に詳しくて綺麗な物を集めて語ることができて――誰よりも、「わたしはこれがすき!」と笑うことができる、「最強の女の子」でした。誰よりも、と書いたけれど、周りなど正直どうでもよく、好きなものがあり、毎日それに触れられる、それだけで強くなれた!あの全能感、高揚、ときめき!私って最強!――大体私の場合は中学生くらいまで、確かに「最強の女の子」でした。

でも、時間とお金が熱意に換算されるようになることを知ると、「好き」という想いだけでは「好き」を語れなくなっていきます。私よりも時間とお金をかけている人はたくさんいる。知識を持っている人も。「好きなくせにその程度も知らないの?」という目線を受けることだってざらでした。そうして抱くのは、「私は本当にそれを好きじゃなかったんだ」という錯覚です。勿論、貴女は弱虫な私と違い、それに抗い続けて、あるいはそれに便乗することで「好き」を続けてきたわけで、だから私は貴女を愛しているし羨んでいるし、時に殺したくなるくらい恨めしくなることもある――これは追々話していけばいいとして。

長くなってしまいました。「好き」を続けた貴女も「好き」を捨てた私も、多分、いつだって「最強の女の子」に戻りたがっていると思うのです。私たちはどんな状況でも、「好きなものを好き!」「これを好きな私のことも大好きなの!」と言える権利があります。空っぽなんかじゃない。好きなものがいっぱいつまった女の子がそこにいるはずということを私も貴女もわかっている。好きなものや好きなこと、好きな人がいることはこんなにも美しく素晴らしく――それだけでいいと他人には言えるのに。

全てを知ってしまった今、もう戻れない。
私も貴女もいつだって「最強の女の子」に戻りたがっている、ただの女で、社会のパーツの一部。

私たちはいつか戻れるのでしょうか。
いつか私に好きなものができて、貴女の空虚感がなくなることって、くるのでしょうか。