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まい すとーりー(11)床屋の友情40余年

霊友会法友文庫点字図書館 館長  岩上義則
(『法友文庫だより』2017年春号から)

※カバー写真はイメージ写真です。本文に登場する理髪店とは関係ありません。


 私は毎年、正月の松が取れる頃に必ず床屋へ行くことにしている。新年なので髪もさっぱりしたいが、床屋さんに年始の挨拶をし、お神酒を酌み交わすのが主たるねらいである。
 昔から、3、40日に1度の周期で散髪する習慣があるが、店はいつも上十条にあるN理髪店と決まっていて、それは昭和50年4月から平成29年の今日まで、ただの1度も中断していない。
 だから、N理髪店さんには年に10回近くお世話になっているが、世話は散髪だけではない。電車を利用して行く私を駅まで送迎もしてくれるのである。バス通りを横断しなければならない私への思いやりなのだろうが、誰にでもできる好意ではないと深く感謝している。

 N理髪店さんへ行くもう一つの楽しみは、毎回、店主のKさんと飲みに行けることである。2人とも酒好き・話好きがこういう関係になったことは間違いない。ただ、2人が心を特に許しあえる間柄だからこそ、強い信頼の絆で結ばれていればこそ、40年の長きに渡る友情が続くのであって、ごく普通ならこうはいかないだろう。
 そして、私個人にしてみれば、N理髪店のみなさんと親しくなったお蔭で十条の町で大勢の人々と交わりができ、友人の輪も広がり、深い人間愛にも触れることができ、視覚障がい者への理解も深まって、意義深さは計り知れない。

 昭和50年は、それまで住んでいた埼玉県所沢市から東京都北区上十条へ引っ越して来た年である。私の職場が高田馬場だったこともあり、家探しは常に職場から1時間以内を条件にしてきた。上十条に住むことになったのも、馬場まで30分という好条件に恵まれたからである。

 N理髪店は、JR埼京線十条駅から徒歩1分の線路際にあり、私が1人で行くにも便利さ抜群の位置だ。店は、Kさん、Hさんご夫妻が経営しており、50年代はKさんのご母堂も健在で、1男・1女を持つ5人家族だった。

 とにかく、ご夫妻が親切で明るく、温かいのが良い。おまけに声も大きくはっきりしていて、目が見えない私には、これに勝る安心な店は無い。ご夫妻と話題が弾むのも楽しい。Kさんと私は1歳違いの同世代。さらに、Kさんのご長男と私の娘が一緒に学齢を迎えるおない年。

「類は友を呼ぶ」と言う諺があるが、いつしかN理髪店を訪れる客とも意気投合するようになった。そうなるのも、Kさんの橋渡しが上手だからで、来客の誰もが時の話題に夢中にさせられ、「みんなお友達」にしてしまうからだ。

居酒屋での「月曜定例会」で仲間の輪が広がった

 近くに種子島という飲み屋さんがあり、今も繁盛する店だ。
 初めてKさんにそこへ連れて行かれたのは引っ越して半年ほど経っていただろうか。L字型のカウンターには14、5人が座れそうだ。通路を隔てて10畳ほどの座敷もあって、座卓が据えられてある。
「種子島」の店名が示すように、店主ご夫妻は種子島の出身である。入ったとたんに驚いた。N理髪店でお友達になった人がほとんど来ているではないか! その人たちが次々に私に挨拶に来てくれる。店主も、まるで私と以前からの知り合いのように親しく自然に話かけてくれる。実にうれしかったことを覚えている。
 種子島の「売り」は鮮魚である。旬の野菜、新鮮な魚介類も揃えているが、中でも各種刺身は「一品」だ。都会の飲み屋でおいしい刺身に出会うのは難しいものだが、種子島のそれは、魚の厚みといい、プリンプリンの生きの良さといい、マスターがこえた目で選んで腕を振るった自慢の刺身の味だ。

※写真はイメージです。

 ここでもKさんは人気者だ。床屋の定休日は月曜日が多いものだが、種子島は、あたかも、その月曜日が例会のようににぎわう。町の自営業者、学校の教員、大工、医者など、さまざまな職業の人々が集まって来るが、その人たちは、種子島の美味・美酒もさることながら、ひょっとしてKさんに会いたくて集まって来るかのような雰囲気さえ感じる。
 私も頻繁に月曜例会に参加したものだが、平成9年に住まいが変わってからは、種子島とはすっかり間遠くなってしまった。

 ところで、Kさんの人間的魅力は何なのか、人気者の理由はどこにあるのか。
 私に言わせれば「人を分け隔てしない」「1人1人を大事にする」「底抜けに明るい」人柄にあるのだと思う。人間、なかなかこの3つを兼ね備えた人は少ないものだ。
 社会的地位が高い人ほど、いや、高くなくても、煙たがられる性格を持っているものだし、ちょっとした言動で、つい他人を傷つけてしまうのが常だ。Kさんにはそれが少ない。いつでも周りを愉快にし、みんなの気持ちを和ませ、好印象を与えている。

友達との出会いと別れ

 私にとって、十条の町で大勢の人と出会えたのは大きな喜びだが、その分悲しい目にも会ってきた。この町で親しくなり、世話にもなった3人の人との別れに特に胸が痛んだ。

 翻訳家のMさんは、東京教育大学(現筑波大学)を出たエリートだ。私が日本史好きなことを知ってからは、何度となく知的欲求を掻き立ててくれたものだった。
 特に「建武の忠孝」や「応仁の乱」といった私が熱くなる時代を尋ねると、Mさんの話にも熱がこもり、資料を調べ尽して解説してくれたことが忘れられない。
 また一方で、酒やグルメには目がない人で、評判が立てばどこへでも食べに出かけたし、自分でも包丁を握るほどの凝りようだった。正月には必ず自宅に大勢の人を招いてもてなしていたことが印象深い。私もその光栄に預かって何度お邪魔したことか。

 Mさんにはサイクリングの趣味もあった。仲間は7、8人で、これも種子島仲間が中心だった。日曜日の午前11時。三々五々、仲間が種子島前に集合。目的地は合議制で決まるものの、ルート、休憩地の設定、グルメ情報の収集はMさんの独壇場。一日走って汗を流した後は、東十条にある飲み屋の「さつき」がゴール。無事を祝して乾杯し、次回のプランを決めるのがお決まりのコースだとか。

 そのMさんが膵臓癌を患って亡くなってから、すでに11年の歳月が流れた。Kさんに手引きされて葬儀に参列した思い出は今も悲しい。

 蕎麦屋を経営していたWさんとの別離は思い出すのも辛い。
 この人は客商売なのにシャイな性格で、どうも対人関係が苦手な様子があった。表面的には賑やかでばか騒ぎにも参加できるのに、「人を見れば隠れたくなる」と言うのだから、外見だけでは分からないものだ。
 こんな逸話も聞いた。近くの家政大学に蕎麦を配達に行ったときのことだ。職員室の前でつまずいて、蕎麦を廊下に全部ぶちまけてしまったそうだ。本来なら、それを片付けて配達仕直すところなのに、Wさんは、あまりの恥ずかしさに、そのままにして逃げ帰り、他の者を後片付けに差し向けたと言うのだ。これには大いに笑ったが、これもシャイな彼の性格の故なのか。

 Kさん、Wさん、私の3人共通の思い出としては、私が北海道へ出張した際、みやげに持ち帰ったボタンエビを、蕎麦屋が閉店の日にWさんが焼いてくれて大いに飲み喰いしたことである。
「こんな大きいボタンエビは見たことがないよ」とはしゃぐWさん。エビも大きかったが、ずば抜けて声も大きい3人のばか騒ぎ。隣近所に響き渡って迷惑をかけたのではなかろうか。

 Wさんが食道癌で入院したとき、私は2度見舞いに行った。
「Wちゃん、今日は何も持って来ないんだけど、何がほしい?」と私。
「そうだなあ、菅野美穂の写真集がいいなあ」
 それがどんなものなのかを全く知らず、見たこともない私は
「いいよ、今度必ず持って来るからな」

 ヌード写真も人手を借りねば探せないみじめな自分。買い物の協力者がなぜかびびっている様子に、それが何かを初めて知った経験だった。
 写真集を持って再び見舞いに行ったとき、彼は心から喜んでくれた。差し出した握手の手はやせ細っていた。あれは、すでに15年も前のことか。

 Sさんはコンベア機製作会社に勤務する、野球が大好きな人だった。体つきもガッシリしていて体力の人。「オス!」と言いざま頭や肩を叩かれると砕けそうに痛かった。強面の人ではなかろうが、少し乱暴な感じがあった。
 でも、笑い声に優しさがあふれ出る人で、顔だって優しいに違いないと思った。種子島に置いてるボトルを持って私に近づき「注ぐぞ! 飲め!」の一言。
 Sさんは少年野球の指導者でもあり、野球と子どもたちの話を語るときの楽しそうなこと! 夢と希望をパンパンに膨らませてSさんが熱っぽく語るとき、私は「いい人だなあ」としみじみ思った。そのSさんも、2年前に癌で亡くなった。
 3人とも50代・60代の早過ぎる旅立ちだった。


友情を力に、生き通す

 今、私は次のような教訓を思い出している。

「子どもは親の言う通りにしないが、親の行いの通りにする」

 先に、私が散髪の依頼をすると、Kさんが駅まで送迎してくれる話をしたが、その続きがある。
 Kさんへ行く時刻を告げると、ほとんどの場合改札口まで出迎えに来てくれる。そして、帰りは、また駅へ送ってくれる。
「時間がずれると待たせるから迎えはいいよ」と断るのだが、寒い日でも暑い日でも来てくれるのだ。
 その行いが、最近では奥様や若主人にも引き継がれつつある。しばしば帰りに改札口まで送ってくれるようになった。ときには、お嫁さんまでがそうしてくれる。とても恐縮しているのだが、まさしく「子どもは親の行いの通りにする」という教えの実例を見る思いである。

 この頃、2人の話はさえないことが多い。「ひざが痛いなあ」「耳が遠くてねえ」「疲れるねえ」

 お互いに年を取ったせいだろうか。気がつけば2人とも70代のど真ん中。私は孫が1人だが、Kさんには5人の孫が居る。Kさんは時々、一族11人揃って旅行をするそうだが「まるで団体様ご一行だよ」と高笑い。
 年は取っても2人とも仕事は現役。
「弱音なんか吐いちゃいられないねえ」
「そうだねえ」

 Kさんは床屋の職人だが後継者の心配はない。ご長男は父君のように大声は出さないが人当たりが穏やかで客商売にはうってつけの人物に成長した。

 私はどうか。自慢は3つある。
 無類の足腰の強さだ。柄は小さいが通勤にもみくちゃにされても屈しない気力だ。目が見えなくても、怪我一つしないで52年間働き続けられた幸運だ。
 Kさんとは意味は違うが、後継者の心配はいらない。
 人生のカウントダウンに差し掛かったがなんのその。3つの恵みにひたすら感謝して生き通す。Kさんとの友情を力にして。


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