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『戦争と平和』を読む日日

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トルストイの『戦争と平和』を読んでいます。
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(1,p.38-p.54)

■7.15(木) 曇りのち晴れ いまだ梅雨は明けやらず。 夕方には今年の上半期の芥川賞直木賞の受賞作が決まっていた。先月から久しぶりに芥川賞の候補作を全部パラパラ読んでみて、いいなと一瞬で思った作品と、こりゃねえだろと読んでるそばから感じた作品とが同時受賞していた。お目出度うございます。これからの健筆を祈念いたします。 オリパラが始まるんで、微力ながら会社の情報セキュリティの役務に携わっている身としては、もうあちこちから矢のようにいろんな要望だの依頼だの武器の調達だの猫の

あほらし屋の鉦が鳴る(1,p.38~p.42)

■7.13(火) 曇りのち晴れ 久しぶりの完オフ(というと語弊があるけど)の次の日で、少し暖機運転が必要みたい。10年くらい前ならそんなことはなかったと思うけど。 オリンピック選手村は開村したらしいけど、ただでさえなにもしないでひっそりとした〈村開き〉は、一大臣の発言であっという間にニュースの隅に追いやられている。つくづく運のない大会だと感じてしまう。 五輪会場での酒類提供を容認という組織委員会の方針は数日で一転して禁止、飲酒も禁止、つづいて4回目の緊急事態宣言の発出、そ

O・ヘンリー「幻の混合酒」を読む

O・ヘンリー「幻の混合酒」(『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 』光文社古典新訳文庫所収)。 毎年年末近くになると、つい手が伸びる本がある。 山口瞳『酒呑みの自己弁護』(ちくま文庫)。読んだからといってべつに酒の飲み過ぎだと反省するわけもないのだが。 この本を読み進めていくと「失われた混合酒」という章があって、その冒頭にこうある。 酒がテーマになっている小説では、O・ヘンリーの『失われた混合酒』の右に出るものはない。 しかも、 私は『洋酒天国』というPR雑誌を編

本多秋五の『戦争と平和』論(1, p.16~38)

■7.12(月) 曇りのち晴れ 本多秋五の『増補 「戦争と平和」論』(冬樹社)がAmazonから届く。1970年もので、最後まで『戦争と平和』を(おそらく)読み切れなかった坪内祐三もこれだけはなぜか読破したというシロモノだ。 ページをめくると、数葉の地図が三つ折りになって挟みこまれている。舞台となるアウステルリッツの会戦や、ナポレオンのロシヤ撤退ルートなどが細かく描かれている地図。けっこう手がかかっている造本だ。いまなら評論にこんな造りをしてくれる版元はないだろう。ページ

不機嫌なはじまり(1, p.14~16 )

■7.11(土) 曇りのち晴れ 朝から子どもたちのドッチボール大会へ行く支度をしている。6月からずっと週末の天気が不順で(まあ梅雨ですからね)、地区大会が3度も延びた。4度目の正直という言葉はないが、今日はなんとか晴れるようで開催決定となり、自転車で競技会場まで向かう準備をしているのである。 わたし以外のこの家族は、日常の動作として、まず準備が鈍(のろ)い。とにかく時間通りにいかない。 鈍いというか、遅刻することにあまり罪悪感を抱いていない。口酸っぱくそのことを言い続けて

忘月忘日、トルストイ(1, ~p.14)

■2021.7.10(土) 梅雨の晴れ間の好天 いつも気になっているがなかなか読めない(読まない)本というのはあるもので、トルストイの『戦争と平和』もそのひとつだ。 先日たまたま、坪内祐三の『文庫本千秋楽』(文藝春秋)を読んでいたら、毎年暮れの「本の雑誌」の文庫本特集号に連載していたコラムで、『戦争と平和』について語っている一文の、そのタイトルを一瞥してしまい、そうだった『戦争と平和』なんだったと思いだし、ついでにその時に『戦争と平和』をわたしも読破してみようと思ったことを

消灯時間の進化のかたち

ハイデガーの『存在と時間』(中山元訳、光文社古典新訳文庫)を読んでいる。 前書きがあって、前書きの一部のようなパラグラフが2つあって、ようやく「序論」へとやって来た。手続きが多いんだよなあ。 その目次は、こんなふう。 序論 存在の意味への問いの提示   第一章 存在の問いの必然性、構造、優位       第一節 存在への問いを明示的に反復することの必然性 横書きだとこんなふうになるけれど、じっさいの本は縦書きになっている。文字の大きさは「序論」がいちばん大きくて右に

もくろみと余韻

於 #002 三つの課題 壇蜜の日記が届く。ごきげんよう、壇蜜です。 壇蜜ダイアリー、だってさ。 いままでのタイトルのほうが良かったのにな。 2018/1/11 余韻という言葉がある。どうにも悩ましい一面もあれば、名残惜しさに名前をつけたような豊かな感情の流れを感じることもある。繋いだ手の余韻を感じることは、どこか恋路を妄想してしまうが、飲み物の余韻を感じることは感受性が高いことを示しているのだなと羨ましくもなる。(後略) ここまでで、一年分の「壇蜜」という言葉を使った

存在している

於 #001 存在への意味への問い ハイデガー『存在と時間』を読みはじめている。まえがきが終わったところで、おっと、いきなり会話文で来た。 「というのも、あなたがたはそうした事柄を、すなわちあなたがたが〈存在している〉ということを口にされるときに、そもそも何を言おうとしておられるのかを、とっくの昔から知っておられるのは明らかなのですが、一方でわたしたちは以前には知っていると思っていたのに、今ではまったく困惑しているのですから」 読みながら、わたしはこう呟く。 こっちは

忘月忘日、ハイデガー

相棒と、ハイデガーの『存在と時間』を並んで読むことになった。並んで、というのは、ふたりで、というくらいの意味である。男と男の〈ふたり読書会〉だ。 ハイデガーの『存在と時間』は、20世紀最大の哲学書と呼ばれている、らしい。読んだことないんでよく解らないし、読んだとしても他の哲学書を読んだことないんで、たぶんよく解らないままにはじまるのだろう。 あっちこっちで翻訳されているが、初心者らしく光文社古典新訳文庫版を読むことにした。あ、相棒が同じ文庫版を手にするかどうかは、別。