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宮本知次師範インタビュー「我が師・江上茂」 第二回 「叩き台」の意味

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本日の更新は『DVD付き 空手道型教本』出版記念企画、宮本知次師範インタビュー第二回です。師・江上先生に対する想いと、江上先生が40年前、本書の制作時に仰った"叩き台"という言葉の意味についてお話し頂きました。

『DVD付き 空手道型教本』出版記念

宮本知次師範インタビュー「我が師・江上茂」

第二回 「叩き台」の意味
語り●宮本知次 協力●江上健 構成●コ2【kotsu】編集部

演武と解説を務めて頂いた宮本知次先生

「なにより江上先生が好きだった」

コ2編集部(以下、コ2)  先生は「自分の二十代を江上先生に捧げようと思った」とのことですが、もう少しその理由を教えて頂けませんか。

宮本知次(以下、宮本) この本では私の解説のところで「思うところあって就職しなかった」と書いていますが、実は「もう自分は死ぬのではないか」と思っていたんです。

コ2 それは?

宮本 大学を卒業する昭和43年の一月に一番可愛がっていた弟が18歳で自殺してしまって。自分がバイトで稼いだお金で困っている友達を助けるような良い奴でね、“どうしてだ!?”という想いしかなかった。遺体を確認した警察での風景はいまも忘れられません。

コ2 そうだったのですか。

宮本 その少し後に今度は小学校五年生の甥っ子小児癌で、本当に見る間にやせ細って亡くなってしまって。さらにガクッと来ていたところに今度は父が亡くなった。やはり弟のことがショックだったんでしょう、少し前に体調を崩して入院していて。夜行で合宿から帰った朝、病室にお見舞いに行って「また来るよ」と言って下宿に帰ったら兄から電話で「いま亡くなった」と。医者は「死ぬような病気じゃない」と言っていたのにね。だから医者に「どうしてこんなことになったんだ!」と詰め寄りましたよ。

コ2 ……。

宮本 一年の間に立て続けにそんなことがあって、老少不定(ろうしょうふじょう)、老いも若きもいつ死ぬか分からないという無常観があった。だから先輩から「卒業後は無試験で良いからうちに来ないか?」と大きな企業から幾つも声が掛かっていたんだけれど、「もう自分も長くないのではないか」という思いが強くあったので、その全部を丁重にお断りして「何故生きるのか」という問いと、いつその時がきてもいいように宗教書を読み漁っていたんです。

コ2 大きな転機の時期だったのですね。

宮本 あと空手に対しても”やり残している”という想いがありました。実は同じ年の春に腸閉塞の手術をして、大学最後の年なのに秋まで思うような稽古ができなかった。それもあって当時は昼は中央大学の空手の稽古場でその他は図書館で本を読んでいるような生活をしていたんですよ。

そんなところへ、自分がそういう様子であることをどこかで知った廣西(元信)先生から、「君は就職もしないで稽古と読書をしているそうだな。だったら今度作る日本空手道松濤會本部事務局で働かないか」と声を掛けて頂いて。

その頃には江上先生のご自宅で「自分が死ぬまでに松濤館を再建したいんだよ」というお話を伺っていたし、なにより江上先生が好きだったから。先生が喜んでくれるのなら”二十代はこの方に捧げよう”と自然に思ったんです。

感覚を研ぎ澄まし、本当の力を模索する稽古

コ2 そうした近しい距離から観た江上先生というのはどんな方だったのでしょうか。

宮本 四柱推命を読む方が「江上先生は帝王の星。全ての言葉の真ん中に立って事を為す人」と言われていたけれど本当にそう。誰もが好きになっちゃうんですよ。武術家だけではなくて芸術家や普通の人でも好きになってしまう。独特の人を惹きつけるオーラがあって、お話しも上手かった。合宿なんかに行くと夜の2時3時までお話しをされていました。

だけれど私は監督で朝5時起きなので大変でした(笑)。なにしろお話しが終わった後に先生の背中を指圧してお休みになるのを待ってから自分の部屋に戻るので合宿中はほとんど寝られなかった。当時の学生達もキツかったと思うけど、私もキツかったんですよ(笑)。でもそれが稽古なんですね。先生の側で内弟子のように過ごさせて頂いたのは財産です。

そう言えば本当に一睡もせずに先生のお部屋から朝の稽古に行ったこともありますよ。今思うとあれは「今日は寝ないでやってみろ」という稽古だったのかも知れないですね。

コ2 稽古量が凄いですから大変ですね。

宮本 大変ですよ。それで道場に行ったら学生が正座して待っているのは良いんだけれど、正座のママ寝ている奴が沢山いて、頭にきてねぇ(笑)。物凄いキツい稽古をつけてから先生に「まったくひどい奴らです」と報告したら、先生が「それはお前の状態を彼らが表現してくれているんだ」と言われて、「お前が一番眠かっただろう? その内側のものが彼らに響いているんだ」と。これは反省はもちろん考えさせられました。

コ2 感応するということですか。

宮本 当時は筋骨を鍛えてということではなく、そういう感覚をテーマにした稽古が中心でしたね。とはいえ兎飛びで体育館を何十周もするようなことはやっていて、そうしたクタクタの状態にしたうえで出す突きはどういうものか? 型はどうなるのか? ということを実験したりしていました。

コ2 今とは随分稽古の様子が違うわけですね。

宮本 違いますね。私の頃は意識もなくなるくらいフラフラになって、肉体的にも限界のところから稽古が始まる感じで、そういう状態から出てくる技、力を入れたくても入れられない、体を固めたくても出来ない状態に自分を追い込んだところから出てくるもの。意識的に「力を抜こう」「柔らかくしよう」とやるのではなく、本当によれよれの状態になったところから突いていく、そういう稽古でした。だから追い突きを何時間もやってみたり、道場を真っ暗闇にして型をやってみたりと。最初のうちはあちこちでぶつかっているんですけど、慣れてくると感覚で避けられるようになったりするんですよ。とにかくありとあらゆる稽古をやりました。

コ2 そうした稽古は江上先生が考えられたのでしょうか。

宮本 江上先生が発案されて、それを青木(宏之)さんとその周りの人たちが具体的な稽古法にして合宿などで行うという感じですね。そのグループが後に新体道になったわけです。江上先生はあくまで大先生(船越義珍)の空手という枠から外れることは望まなかったですから。

江上先生が目指した「標準型」

宮本 だから本にも少し書きましたが、当時の我々の動きというのは型でも一足一歩で突き抜くようで、道場中を走り回るような感じだったんですね。それは訓練方法としては良いんだけれど、型としてそれが基準になってしまうことは駄目だと江上先生は思われたわけです。

「あれは稽古の形としてはあるけれども、あれだけになってしまっては駄目だ」
と仰っていました。

コ2 先生の時代はそうした”限界の先に何があるのか?”ということを追求する稽古が特に強かったわけですね。逆に言えば、オーソドックスな動きや型への意識がやや希薄になっていたわけですか。

宮本 だから「みんなが戻れる共通の標準型が必要だ」となったわけです。ただ大先生のところまで戻すには無理がある。もう突きや蹴りが変わっていましたからね。だから型の構成は当然そのままで、突き、受けを明確にして動いた型のテキスト。北は北海道から南は沖縄まで通用する標準型。日本全国どこの道場に行っても「ああ、先生から教わった型と同じだ。同じ空手をやっているんだな」とスッと稽古には入れるような共通言語のようなものを作ろうということがあったわけです。

コ2 突き、受けを明確にというのはどういうことでしょう。

宮本 空手の受けというのはそのまま攻撃になるわけです。それは良いんですけど、戦中を経る中でその意識が強くなり過ぎて、型のなかの下段払いがそのまま相手の金的を打つという動きに変わっていたりしていたんです。稽古が進んだ先にそうした動きが自然に出てくるのは構わないけれど、学び初めとなる型のなかではまず突き・受けを明確にした方が良いということです。

コ2 そうした経緯で江上先生は型のテキストが必要だと考えたわけですね。


1970年代、中央大学空手部春合宿。(千葉県館山合宿にて)『空手道型教本』(p227より)

「叩き台」の意味

コ2 今回の本で使用されている写真や動画は全て40年以上前に撮影されたものですね。改めて今ご自分で見直されていかがでしょう。

宮本 フィルムの方はやっぱり後半で足が微妙にふらついてきているのが自分では分かって、当日を思い出しました(笑)。撮影は最初は短くて簡単な平安から始まって、後半に入るに従って長くて複雑な型、岩鶴なんかはクルッと回って蹴ったりしている上に、「別角度でもう一回」「ハイスピードカメラでもう一回」という感じで大変だったから。だから自分で観るのが嫌だった(笑)。

コ2 そうですか、映像を観る限りは分かりませんでした。撮影は1日で行われたそうですね。

宮本 そうです。とにかく時間がないから急いで撮影しました。だけれども本にもありますがとにかく江上先生は「叩き台だ」ということで、完璧なものは求めてらっしゃらなくて、むしろ欠点があって観た人が色々考えたり注意したり出来るくらいのものを求めていらっしゃったのだと思います。

「あそこはああすべきではないか」「ここはもっとこうすべきだろう」とみんなが議論できる”叩き台”、だから当時30歳の私程度の人間を選んだのだと思います。また、そう考えないと私一人で全部の型なんかやれなかったですよ。他にも「この型ならこの人」という人が沢山いた中で「お前が全部やってくれ」と言われたわけですから。

コ2 最初に「一人でやってくれ」と言われたときはどんなお気持ちでしたか。

宮本 それはびっくりしましたよ。「お前が一番好きな型はどれだ?」と訊かれるのだと思ってましたから(笑)。原稿を全部渡されて「この型を全部お前一人でやってくれ」と言われたときには暫く言葉が出なくて、やっと出た言葉が「ちょっと待ってください。でしたら少し(稽古をする)お時間をください」ということで。

コ2 江上先生はなんと仰ったのですか。

宮本 先生は、

「もしお前に時間をやったとしても、いざ撮影をしようとなったらお前は同じことを言うと思う。だからそれはきりのないことだ。今お前が持っている力で、目一杯思い切りやればいいんだ」
と。その時に“叩き台”という言葉を使って、

「完璧なものなんか誰にも出来ない。もしかしたら皆が(お前の型を)批判するも知らん。誹謗中傷されるかも知れない。それでも、そのことによってそこから新しい船越義珍先生の流れをくむ人の標準基本型から完璧なものが、五年後、十年後、五十年後に生まれるかも知れない。その為に、まず基準となるもの”叩き台”が必要なんだ、というアピールをこの本でしたいんだ」
と仰っていました。

コ2 批判は覚悟の上だと。

宮本 そう。

(第二回 了)

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–Profile–

●宮本知次(Tomoji Miyamoto)

1946年、徳島県生まれ。中央大学教授、清華大学客座教授、中央大学保健体育研究所々長などを歴任。空手を松濤館々長・江上茂(遊天)、剣を土佐英信流居合道第二十代宗家・竹嶋壽雄(大雲)、太極拳を呉氏太極拳五代傳人・馬長勲に師事。武術をはじめとした東洋身体運動文化や東洋的体育法・東洋養生法などを専門とする。

現在、遊天空手道 宮本塾々長・師範、中央大学太極拳同好会 師範、中央大学クレセント・アカデミー講師(呉氏伝統太極拳担当)。人体科学会常任理事。日本養生学会理事。日本トランスパーソナル心理学・精神医学会顧問。公益社団法人日本武術太極拳連盟理事。日本学生武術太極拳連盟会長。

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