知らないと言う勇気は,断捨離なのか?

こんにちは。
こちら米国では,ちょうど独立記念日の連休中です。
ふと思い立ち,久々にNOTEを更新しています。
小さな事でもくだらない事でも,思った事を書いて残すと言うのは,なんとなく大切な事なのかな,と最近思うようになりました。
なので,ちょっと軽めの話題で,今日思ったことを書きたいと思います。

ふと,血液型について考えました。
きっかけは,とあるラジオから聴こえてきた,血液型占い。
血液型は,占いの時か,不毛な飲み会で話題になる何型はどう,という不躾なレッテル貼りの時にしか,恐らく僕たちは気にしないと思う。
その程度なのに,そして結局4分類しかないのに,それを以てヒトの特性を決めつけるなんて,ナンセンスだ。
だから,血液型について考えた。
そして僕はこれから,血液型を聞かれたら,『知りません』と答える事にした。

血液型を知る必要が,果たして有るのだろうか?
例えば僕が,輸血を受ける必要が有る場合,もし自己申告で『B型です』と言ったとして,では病院はそれを鵜呑みにして輸血をするだろうか?
いやいや,むしろそんな自己申告,信じないでくれよ。
更に言えば,輸血を受ける必要が有る時,もし血液型を聞かれても,そもそも答えられる状況には無いでしょう。

もし僕が何かの,例えば事故現場にいて,そこで医療機関の方に,『AB型の方,輸血にご協力いただけませんか?』と聞かれて承諾しても,医療機関は無邪気にそれを信じることは無いだろうし,これもむしろ,信じないでくれよ,という話である。

献血するとしても,別に自分の血液型を知らなくたって,献血サイドで良しなにやってくれる筈。
もちろん絶対的にAB型は少ないので,そういう面では知る事が,社会貢献への後押しになるかもしれないけれど,結局何型であれ献血は必要な訳で,だったら『何型だから献血する』ではなく,『何れにしても献血する』と考えて,実行する方が,よっぽど健全だ。

結局僕には,血液型を知るべき合理的な理由は見つからなかった。
むしろ知っているからこそ,下らないレッテル貼りで盛り上がる飲み会の餌食になる訳で,だったらそもそも知らないと言った方が,どれだけ楽か。
まぁ『知らない』と言うと,それはそれで変人扱いされるかもしれないが,でもそれはその場の事で,次からはそもそもに,そんな話題は振られないだろう。または,変人だから飲み会に呼ばれないだろう。それで良い。言葉は悪いが,血液型による人間分類をするような飲み会には,そもそも行くだけ時間の無駄だ。

しかし,なぜこんなに血液型はメジャーな存在になったのだろう。
勿論何かで使われる事はあるし,きっとそれが,何か重要な証拠になったりもするだろう。例えば遺産相続とか。
けれど,僕らが普通に生きている中で,血液型を知っている事に,一体どんな有用性があるのか。
だったらハナから知らんとする方が,誰も傷つけず,人の評価に変な先入観に囚われない,丁寧な生き方なのではないだろうか。

と言う事でこれから僕は,自分の血液型を知らない人間になります。
知らないで良い事を,知らない事にするのは,知の断捨離と言って良いのかな。

では,良い1日を。

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