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メイクラブとセックス

メイクラブとセックス。似て非なるもの(だと思っている)。同じ性行為であるが中身は全く別物である。これは全くの僕の勝手な考えである。

愛というのは地球に生きる上で最大のテーマだと思うが、僕の認識としては、愛とは「繋がり」「一体」「調和」そういったものだ。それを感じるのがメイクラブである。

日本ではセックスというと性行為の意味でほぼ使われるが、英単語のSexは性別、つまり別けるという意味。そう捉えるなら分離だ。その意味で考えれば、一体とは逆の行為となる。もう少し勝手に考えを進める。自分を満たすということだ。自分の欲を満たす行為だ。お互いがお互いの欲を満たす。二人の喜びを満たす。

腹が減った。飯を食う。という話だ。いたって一般的だ。

セックスをしたい二人が求め合い満たし合う。それだけの話だ。


僕が言いたいのは、そこではない。メイクラブとはなんなのかということだ。愛を創造するとはどういうことなのかと。愛とは繋がりだ。つまり二人バラバラだと感じていたものが実は一つだったのだと認識する行為だ。



ありがたいことに今この僕の駄文を読んでくださっている人がいる。この行為、ただ読んでいるといってしまえばそれまでだが、実は読もうという思いが形に現れているのだ。

そう、行為は思いによって形作られる。セックスとメイクラブ。同じ行為に見えても元が違うのだ。一つから始めているのかそれとも二人なのか。

「ありがとう」という言葉にしても、どんな心、思いで発したか。これはとても大切なことである。

言い方ってあるのだ。やり方ってあるのだ。いえばいい。やればいい。というのものではない。

自慰行為。自分自身で性器を刺激して快感を得る行為だ。その延長であればメイクラブではない。手が相手の性器、体に変わっただけだ。個の喜びを感じているのだ。

ん!?待てよ。その行為にしても、とても大切な人を大切に思いその人と遠く離れながらも一体を感じながらする行為はメイクラブだ。。なかなか僕の文章力では表現が難しい。


気を取り直して、例えば、おむすび。

自分で握ったおむすびより、誰かが握ったおむすびの方が美味しいのだ。それは、相手の命、相手のエネルギーとの交流、一体を感じられるからなのだ。コメの塊が胃袋を満たすだけではない。満腹ではない満足があるのだ。

この地球では、個というのが確立している。しかし、命、愛の世界では分離はない。例えば、今すぐ消えていなくなればいいと感じる極悪人であろうとも殺されたとなれば、感じるものがあるであろう。それは、命で繋がっているからだ。

本当は全て命で繋がっているのだ。この言い換えれば「愛」がこの地球では分離しているように見えるのだ。それを取り戻す行為。いや、それを形として現す行為。それがメイクラブなのだ。

神、愛、善、真、全て見えないのだ。しかしある。その表現としての一つの形「メイクラブ」を大切にしていこうではないか。

僕らのこの世の使命は、愛を肉体を通して表現することだ。別に裸になって抱き合う必要はない。ちょっとした声かけでも愛の表現だ。秩序を乱す人がいて、その人に厳しく、冷たく当たることも愛だ。

この地球で表現されているものは全て愛なのだ。本当は。
しかし、人間とは不思議なもので、その意識がないと、愛がないという表現になるのだ。

どんなに良いとされることであっても愛がなければやかましいシンバルなのだ。逆に言えばどんな行為であっても愛を感(観)じることが出来ればそれでヨシなのだ。そうと信じる。



追記

それにしてもこういった話題はnote的に大丈夫なのだろうか。。ま、消えたらそれまでだ。

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