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塩分不足の箱庭で(1,871字)

 ぽっぽとゆらが死んだ。
 マールボロのにおいがついた髪を揺らし、当たり前に部屋の鍵を開けた午前一時四十二分。窓際に置いてある広い水槽の中でぽっかり浮かんでいたのは、鮮やかなふたつの骸だった。
 なにが悪かったのだろう。考えたけれど、自分のなかで正しい答えは出なかった。フィルターやポンプはきっちり綺麗に洗っていたし、水は毎晩きまった時間に交換していた。カルキ抜きだって欠かさずしていて、水草も餌も十分で。彼女たちが生きていくための環境は完璧にととのっていたはずだ。あんなに可愛がっていたのに、それなのに、どうして。
「考えごと?」
 耳に息を吹きかけられ体が跳ねた。わたしを後ろから抱く飯田さんの声は余裕に満ちていて理性的だ。かさついた指先がお腹を這うように撫でるから思わず背筋がくっと伸びた。このひとの愛し方はいつだって丁寧で、痛いことがひとつもなくて、ほんとうに最悪。
「きんぎょ、が」
「金魚?」
 空気を吐きだすついでみたいに、子どもっぽい舌足らずな声が出た。飯田さんが反応する。彼の指の動きが止まって、しまったと思った。話すつもりなんてなかったのに。
「あの、売れ残ったからって夏祭りにもらった金魚。二匹とも死んじゃって」
「そっか、死んじゃったんだ。でも夏祭りの金魚なら仕方ないよ。初めから弱ってるし」
 そうじゃなくて、と言いたかったのに、集中して、と先に言われてしまった。興味がなかったのだろう。だからもう、黙るしかない。軽々とからだを持ち上げられて、息を止めて、男女であることを実感する。飯田さんはわたしの思考を停止させることが得意なのだ。
 耳を食む唇は指先と違ってやわらかい。少しくすんだ桃色の唇に、長い時間をかけて染みついたマールボロはわたしの鼻を痺れさせる。だいぶ癖になっている。中毒みたいに。
 飯田さんと別れ、お腹がすいたなあと思いながらひとりで日付の変わる池袋を歩く。ホテルに入るとき、ここで浮気や不倫をするひとの数を考えている。帰るときにわたし宛ではない花束や魔法少女アニメの変身セットを持っている飯田さんを見ると、彼は誰かの夫であり父親なのだと再確認した。帰り道は急に理性が本能を押し潰すから、無意識で唇の皮を剥いてしまう。わたしたちの時間は無駄なものなのだ。たぶん、一般的に考えると。
「そういえばさ、金魚が死ぬのは飼い主の身代わりらしいよ。聞いた話だけど」
 二十分と少し前。湿ったシーツのぐちゃぐちゃに広がるベッドで、マールボロを吸う横顔を眺めていた。煙が混じる呼吸の合間、飯田さんはわたしの知らない話をしてくれる。
「身代わり、ですか?」
「うん、そうなんだって。あと、金魚を飼うときには可愛がりすぎてもだめらしいね」
「どうして?」
「さあ。詳しくは知らない」
 つまらない男。こっそりため息をついた。
 去年のお盆にひとりで行った近所の小さな夏祭り。まばらな人の波に逆らって歩き、たたまれていく露店の骨組みを眺めていた。金魚掬い屋のおじさんが二匹の金魚をくれたのは、きっと気まぐれだったのだと思う。
 だらしなく開いた口から泡を吐きだしてばかりいた、食いしん坊のぽっぽ。小さな体に不釣り合いなくらい大きい尾びれを揺らし、ほとんど懐いてくれなかったゆら。
 ぽっぽとゆらが死んだ日、悲しくなかった理由を探していた。ぽっかりとした喪失感は確かにあるのに、涙がでなかった。公園に咲いていたタチアオイの根元に骸を埋めて、夕飯には鮭のムニエルを食べた。おいしかった。
 愛していた理由も、大切にしたかった理由も思いだせない。飯田さんに初めて抱かれた二十歳のわたしのことを、二十二歳のわたしは理解できなくなった。ほんとうに最悪だ。
 アドレス帳から飯田さんの連絡先を消してしまえば、着信拒否をしてしまえば、はじめから何もなかったみたいにわたしと彼の関係は終わるのだと思う。わたしたちはたぶん初めから、お互いに誰でもよかったから。
 金魚の死因。やりすぎた餌を食べ残したことによる水の汚れ。カルキ抜きのし過ぎでえらを火傷したことによる呼吸困難。愛情過多。でも、ぽっぽとゆらの死んだ理由が身代わりだったとしたら、わたしは漠然と満たされるだけの偽物の愛情を与えられ、いつか飯田さんのせいで死ぬことになる。最悪だ。だからわたしは本気の恋愛をしない。したくない。
 部屋の鍵を開ける。きっと明日のわたしは冷凍庫のホッケをじょうずに焼いて食べるだろうし、週末は鯖の味噌煮を作るだろう。愛した金魚と過ごした時間が悲しいことだったか嬉しいことだったかなんて、簡単に忘れて。

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